松本清張全集6

長編の「球形の荒野」と短編集「死の枝」を収録。

球形の荒野」は、奈良で古寺巡りをしていた女性が、ある寺の芳名帳の中に既に亡くなっている筈の叔父のものに酷似した筆蹟を見つけるところから始まるミステリイ小説。その叔父というのは外交官であり、戦時中、ヨーロッパの中立国の公使館で一等書記官として勤務しているときに病魔に冒され、スイスの病院に転送されてそこで死亡している。

敗戦から既に16年が経過していることもあり、彼女の夫をはじめ周囲の人間は“見間違えだろう”と誰もまともに取り合おうとしないのだが、唯一人、戦時中の日本外交に関心のある若手の新聞記者(=亡くなった外交官の一人娘の恋人でもある。)がその話に興味を示し、彼が探偵役になって筆蹟の謎に迫っていく。

したがって、2件の殺人事件は発生するが、その謎解きは申し訳程度であり、どちらかというと、死亡した筈の外交官を巡る戦時秘話的な色彩が強い。しかし、解説を担当している元外交官の加瀬俊一氏によると「これは面白い着想であって、いかにもありそうな事に思われる」ものの、「こういうことが起こり得るかというと、現実には起らない」そうであり、本作のモデルになるような史実は存在しなかったらしい。

そのせいもあってか、自らの死を装って連合国側に身を委ねた一人の外交官が、異国の地において具体的にどのような早期終戦工作に従事したのか等は最後まで一切不明のままであり、それが効を奏したのかさえ分らない。この点は「昭和史発掘」を読んだ後となっては誠に歯がゆいばかりなのだが、外交という特殊分野においては作者の想像力をもってしても無から有は生み出せなかったのかもしれない。

そんな訳で、正直、(架空の)戦時秘話としてはかなり物足りないと言わざるを得ないのだが、その物足りなさを補って余りあるのが“父娘の情”に関する数々のエピソード。当該外交官は、海外に赴任するときにはまだ幼かった一人娘のことが忘れられず、危険を冒してまで秘密の訪日を果たしていたのだが、彼の老父としての心情は、同じオヤジとしてとても共感できるものであった。

また、奈良や京都の社寺がたくさん登場するのも読んでいてとても楽しいところであり、特に岡寺~橘寺~安居院(=飛鳥寺)といった飛鳥の古刹は、4年前の春、妻と一緒にサイクリングで見て回ったところばかり。あの頃のようにコロナウィルスなど気にせず、気軽に旅が楽しめるようになるのは一体いつのことなのだろう。

ということで、「死の枝」には11の短編が収められているのだが、ほんの些細なことから完全犯罪(?)が破綻するといった系統の作品が目立つような気がする。そんな中で一番印象に残ったのが「家紋」であり、トリック自体は大したものではないものの、粉雪の舞う闇夜に突如行われる殺戮はなかなかスリリングなものであり、この佳品が橋本忍の目に止まっていれば、モノクロの詩情溢れる犯罪映画になっていたかもしれません。