切込・刈込湖で暑熱馴化?

今日は、妻と一緒に奥日光の切込・刈込湖周辺を歩いてきた。

ようやく梅雨が開けて夏山シーズン到来ということになったのだが、まだ体の方は夏の酷暑に対応できていない故、どこか近場で“暑熱馴化”をしてこなければならない。どちらもちょっと久しぶりということで社山か切込・刈込湖を妻に提案してみたところ、彼女が選択したのは後者であり、やっぱりねと思いながら午前7時過ぎに光徳駐車場に到着する。

身支度を整えて7時8分に出発。妻とこのルートを歩くのは3度目だが、山王峠へと続くダラダラした上り坂が年々キツくなるように感じられるのは老化のせいなのかしら。そんなことを考えながら山王峠(8時16分)~涸沼(8時42分)と歩いて9時45分に刈込湖に着くと、幸いそこに先客の姿は見当たらず、二人だけで開放的な気分を満喫。

しばらくすると後続者が現れたため10時14分に再出発。このコースはほとんどが日陰になるので暑熱馴化には不適だったが、まあ、汗をかかなくて済むのは有り難いことであり、小峠(10時57分)~金精道路(11時27分)と歩いて11時44分に東武バスの営業所に到着。ここまでの本日の総歩行距離は8.9kmだった。

ということで、政府の無為無策のせいもあってコロナ禍は早くも第5波に突入したようであり、感染者数が増加する中で東京オリンピックを開催するという最悪の事態になりそうな雰囲気。当然、山歩きの目的地選考においても少なからず支障にはなるが、まあ、昨年同様、あまり無理をしないで夏山シーズンを楽しみたいと思います。

詩人と狂人たち

G.K.チェスタトンが1929年に発表した短編集。

チェスタトンの作品であるということ以外、何の予備知識もなしに読んでみたのだが、内容は画家兼詩人のガブリエル・ゲイルを主人公とする8つの連作短編であり、最初の「風変わりな二人組」にはあまり謎解き的要素は見当たらないものの、全体的にはゲイルを探偵役にした“幻想ミステリ短編集”ということになるのだろう。

正直、ブラウン神父ものより「木曜日だった男」や「新ナポレオン奇譚」を好む当方の趣味からするとやや残念な結果ではあるが、ゲイル自身は「探偵小説の中で論じられるような実際的な問題では、警察に比べたら、僕なんか馬鹿みたいに見えるだろう」というキャラクターであり、探偵役としては相当“風変わり”な部類に属することになるのだろう。

そんな主人公が得意とするのは「実際的でない」分野であり、既に実態が実際的なことの領分を越えてしまったような「最悪の状況」で必要とされるのは、彼のような「実際的ではない人間」であるというのが彼の主張。事実、本作に登場する“犯人”たちはいずれも常識の範囲を飛び越えてしまった狂人ばかりであり、彼らの常識では理解し難い奇妙な行動を読み解くことができるのは、かろうじて狂気の一歩手前で踏み止まっているゲイルだけということになるらしい。

正直、この(ある意味)魅力的な設定が完璧に活かされているかというとちょっと首を傾げてしまうところもあるが、砂浜で刺殺された被害者の足元に残されていた一匹のヒトデから犯行のトリックを看破するという「鱶の影」の結末は、画家兼詩人という主人公ならではの名推理であり、絵画的なイメージのせいもあって本書中で最も印象に残る作品になった。

ということで、チェスタトンの最大の魅力はその修辞的な文章にある訳であるが、正直、就寝前にベットで横になって読んでいるとすぐに眠くなってしまうのが大きな難点。機会があれば図書館にある彼の著作集も読破してみたいと思っているのだが、そのためにはきちんと机に座って読む必要がありそうです。

ブラック・ウィドウ

今日は、妻&娘と一緒にマーベル映画の最新作「ブラックウィドウ」を見てきた。

本作もコロナ禍の影響で公開が伸々になっていた作品の一つであり、何はともあれ映画館のスクリーンで拝見できるようになったのは有り難い限り。しかし、問題なのは例のDisney+との関係であり、県内の劇場で公開してくれるのは足利と那須塩原の2館だけ。仕方がないので、映画鑑賞後のちょっぴり豪華(?)なランチで妻&娘の歓心を買うという一計を案じ、高速道路を使ってフォーラム那須塩原へと向かう。

さて、MCUにおける本作の時代設定は「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(2016年)」の直後に位置付けられているそうであり、ソコヴィア協定違反で指名手配中のナターシャが、かつて自分も所属していたことのあるスパイ養成機関“レッドルーム”の総帥であり、以前、娘もろとも殺害したと思っていた仇敵ドレイコフとの最後の決着を付けるというストーリー。

面白いのは、彼の居場所を突き止めるために、少女時代にロシアのスパイとして米国オハイオ州で一緒に暮らしていた“疑似家族”のメンバーと再会を果たすところであり、母親役のメリーナ(レイチェル・ワイズ)と妹役のエレーナはともにレッドルームの卒業生。また、父親役のアレクセイの正体はロシアが生み出したスーパーソルジャー“レッド・ガーディアン”であり、本人の話によるとキャプテン・アメリカとも対決したことがあるらしい。

彼らとの共同生活は3年間に過ぎなかったが、本当の家族の温かみを知らずに育ったナターシャにとってみれば彼らは特別な存在であり、まあ、ザック・スナイダーが監督を務めていれば疑似家族内における愛憎入り混じった血みどろの死闘を見せてくれたのだろうが、本作を任された女性監督ケイト・ショートランドが採用したのはそれとは真逆のホームコメディ路線。

おそらく、このへんがマーベルの少々青臭い“理想主義”の現れなのだろうが、正直、個人的には大賛成であり、家族全員一人も欠けることのない最高のハッピーエンドは、コロナ禍の憂鬱な気持ちをきれいに一掃してくれる。特にエレーナ役のフローレンス・ピューは2代目ブラック・ウィドウにピッタリであり、今回、無事救出されたウィドウ集団共々、次期アベンジャーズ・シリーズで大暴れすることを期待したい。

ということで、妻&娘の評価も上々であり、結局、“一計を案じる”必要は全く無かった訳であるが、鑑賞後に再訪した「パパシュネル」のランチはやはり絶品。おかげで誠に充実した一日を過ごすことができたものの、正直、マーベルやピクサーを含むディズニー映画が公開される度に那須塩原まで足を運ぶのはちょっと大変であり、今後、“Disney+問題”が速やかに解決されることを強く望みます。

ゴジラvsコング

今日は、妻&娘と一緒にようやく劇場公開された「ゴジラvsコング」を見てきた。

世界的には今年の3月末に公開されており、全米では3週連続No1という輝かしい興行成績を収めた大ヒット作品なのだが、(おそらく)東京都に対する緊急事態宣言の影響で我が国における公開予定は延期されたまんま。正直、6月20日付けでの宣言解除が正しい判断とは思えないのだが、何はともあれ本作を劇場で見られるのは嬉しいことであり、約7ヶ月ぶりに映画館へと足を運ぶ。

さて、ストーリーは本作のタイトルどおりであり、何故か“先祖代々死闘を繰り返してきた永遠のライバル同士”という設定になってしまったゴジラキングコングが迫力満点の肉弾戦を見せてくれる。勿論、それだけで2時間近い上映時間を埋めることは困難な故、主人公の2匹(=頭?)からすれば虫ケラ程度の存在に過ぎない人間が2グループに分かれてささやかな冒険を繰り広げるのだが、当然、観客のお目当ては前者であり、後者は単なる“ツナギ”でしかない。

そして、そのファイトシーンはなかなかの出来であり、第一ラウンドで苦杯を喫したコングが“道具”を使うことによってゴジラに一矢を報いるという展開は文句なしに素晴らしい。一方、最大の不満はツナギの部分が長すぎるところであり、2つあるサブテーマのうちどちらか一つを没にして、もう1、2ラウンドくらい両雄のファイトシーンを増やして欲しかった。

まあ、今のプロレスの試合を見ても分かるとおり、ファイトシーンだけで間を持たせるというのはなかなか大変なことなのだが、かつての日本プロレスでは“60分三本勝負で時間切れ引き分け”みたいな試合を何度もこなしていた訳であり、アダム・ウィンガード監督におかれましては、過去のゴジラ映画だけでなく、我らがジャイアント馬場選手の往年の名勝負を参考にするべきだったと強く思う。

ということで、今回のハリウッド版ゴジラ・シリーズとしては本作をもって一段落ということになるのだろうが、このシリーズで培った怪獣プロレスのノウハウをこれで終わりにしてしまうのはとても残念。ガメラでもウルトラマンでも何でも良いので、日本の怪獣映画関係者の全面協力の下、モンスターバースの続編を期待しております。

Mank/マンク

2020年
監督 デヴィッド・フィンチャー 出演 ゲイリー・オールドマンアマンダ・セイフライド
(あらすじ)
“マンク”こと脚本家のハーマン・J.マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)は、新進気鋭の映画作家オーソン・ウェルズから彼の初監督作品の脚本を依頼される。テーマは“新聞王”と呼ばれた人物の波乱の生涯であり、モデルになるのは実在の新聞王であるウィリアム・ランドルフ・ハースト。一時期ではあるが、マンクはハーストの傘下で仕事をした経験があり、彼の愛人であるマリオン・デイヴィスアマンダ・セイフライド)とも親しい間柄だった…


市民ケーン(1941年)」の共同脚本家であるハーマン・J.マンキーウィッツの伝記映画。

今年のアカデミー賞で作品賞をはじめとする10部門にノミネートされた話題作であり、Netflixで見られるのはかなり前から知ってはいたのだが、“難解”との前評判に尻込みをしてしまい、本日、何とか視聴にこぎ着ける。しかし、内容は極めて興味深いものであり、正直、今まで見た今年のアカデミー作品賞ノミネート作品の中ではこれが一番面白かった。

さて、主人公のマンクは著名な映画監督ジョセフ・L.マンキーウィッツの実兄であり、その他にも彼の周囲には当時のハリウッドを代表する名士たちがゾロゾロ。本作で批判的に取り上げられているハースト、ウェルズ、ルイス・B.メイヤー、アーヴィング・タルバーグにしても、まあ、その人間性はともかく、いずれもハリウッド映画の歴史に名を残す大物ぞろい。

そんな彼らに比べてしまうと、正直、主人公の経歴が相当見劣りするのは否定し難いところであり、彼が脚本を手掛けた作品をざっと見てみても知っているのは「市民ケーン」と「打撃王(1942年)」くらい。おそらく、ウェルズが主人公に脚本を依頼したのは、その才能に惹かれたというよりも、ハーストとの微妙な人間関係に興味を持ったからなのではなかろうか。

しかし、本作における主人公の決断が立派な“ハチの一刺し”であることは間違いないところであり、あくまでも弱者の立場に寄り添ったその勇気ある行動は十分アカデミー脚本賞に値する。そのへんの事情については「『市民ケーン』、すべて真実」という本に詳しく書かれているそうであり、機会があればその本も読んでみようと思う。

ということで、主人公の口述筆記を担当する有能な助手リタ・アレクサンダー役でリリー・コリンズという女優さんが出演しているのだが、モノクロ映像のせいもあって、これが若き日のオードリー・ヘップバーンを彷彿させる凛々しいお顔立ち。Netflixで配信中の「エミリー、パリへ行く」という連続ドラマにも主演しているそうであり、早速、拝見させて頂こうと思います。

神々の明治維新

神仏分離廃仏毀釈”という副題が付けられた安丸良夫の本。

神社仏閣巡りはこれからの妻との“老後”に彩りを添える主要なイベントの一つなのだが、その際に気を付けなければならないのが明治初期に吹き荒れた神道国教主義化の影響であり、これを知らないでお参りすると、明治政府の指導者たちが仕組んだ「天皇を中心とするあたらしい民族国家への国民的忠誠心」を確保するための「イデオロギー的手段」に過ぎないものを無闇に有難がってしまう危険性が高い。

その予防策の一つとして手にしたのが本書であり、「神仏分離廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」というのが本書における著者の主張。明治維新というクーデターによって権力を掌握した「岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正当化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけ」であり、彼らは「神道復古の幻想に心を奪われた国学者神道家たち」による「神祇官再興や祭政一致の思想」を「神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギー」として利用しようと考えた。

しかし、当時、社僧など僧侶身分の者に対して根強いコンプレックを抱いていた神道家たちと冷徹な新政府の首脳との間には、廃仏毀釈に対する“情熱”において相当の格差があったようであり、あくまで穏便に事を進めたいと考えていた後者は、前者に対して「粗暴なノ振舞等」を厳に慎むよう布告する。

また、真宗僧侶たちの根強い抵抗の成果もあり、強力な廃仏毀釈が行われたのは「隠岐佐渡薩摩藩土佐藩、苗木藩、富山藩、松本藩など」の一部の藩や地方に限られた。しかし、「記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績のある人々を国家的に祭祀し」ようとする国体神学の思想は、「それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けた」という点で日本人の神観に「決定的な転換」をもたらした。

一方、明治政府による「伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系」構築の真の狙いは、「あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しよう」というものであり、「それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、…(それ)への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった」。

その具体例の一つとして挙げられている吉野山神仏分離では、三体の巨大な蔵王権現像を祀っている蔵王堂を「口宮」に格下げし、「町並みを4キロも離れた登山口に孤立して」いる金峰神社を本社にするという暴挙が行われたが、「蔵王権現…は、当時の民衆にとって、神仏のいずれかに区分して信奉されていたのはな」く、「蔵王権現蔵王権現として…信仰されていた」訳であり、その無意味さは明らか。

この他にも、「この地方の神社は、仏像を神体としてるばあいが多かったが、そのほか、疱瘡神、稲荷、大歳神、山の神、塞の神、地主神などが祀られており、名称や由来を尋ねても、よくわからないばあいもあった」らしいのだが、こういった民俗信仰の多様性を全く無視して「いま私たちが…神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居、社殿、神体(鏡)や礼拝の様式など」が国家の政策を背景として成立してしまう。

ここで注意すべきなのはそういった「民俗信仰の抑圧は、強権的なものとしてよりも、はるかに権威づけられた啓蒙や進取のプラスの価値として、人々に迫ること」になったという点であり、結局、多様な民俗信仰は「猥雑と懶惰と浪費と迷信」の一部にされてしまい、政府の開明的諸施策とその理念が曖昧なまま受容されてしまう。

まあ、最終的には、外遊で自信を得た仏教側の提言とキリスト教への迫害を非難する外圧の影響によって「信教の自由」が認められることになり、「神仏分離廃仏毀釈神道国教化政策の歴史」は終焉を迎えることになる。しかし、仏教界の主張する「『信教の自由』論においては、内面化された国家至上主義が自明の前提とされて、近代国家建設という課題にあわせて宗門を改革し、門徒大衆を教導してゆくこと」が目的とされており、「国政に害ある宗教を信ずる自由を意味するものではな」かった。

そして、神仏分離廃仏毀釈という「国家による国民意識の直接的な統合の企てとしてはじまった政策と運動は、人々の“自由”を媒介とした統合へとバトンタッチされ」たというのが少々皮肉めいた本書の結びの言葉であり、残念ながら、このような意識は今の宗教界、特に神道系のそれの内部にも根強く息づいているような気がする。

ということで、前にも書いたかもしれないが、神仏分離によってこの世から消されてしまった奇習、奇祭の類は相当な数に上るものと思われ、本当はそっちのほうが我が国の“伝統”の主要な一部を成していたのだろう。廃仏毀釈の被害にあった数多くの仏教美術の名品共々、大変勿体ないことをしたものだと思います。

東吾妻山とチングルマ

今日は、妻と一緒に福島県の東吾妻山周辺を歩いてきた。

一切経山チングルマが満開というレポートを複数拝見し、8年ぶりに後追いさせてもらおうと思ったのだが、調べてみると「老朽化した階段の改修工事」のために吾妻小富士は歩くことが出来ないらしい。仕方がないので代わりに東吾妻山を予定に加えてみたものの、現地で妻からドタキャンされる可能性は否定できず、どうなることかと思いながら午前7時頃に浄土平駐車場に到着する。

身支度を整えて7時14分に歩き出す。しばらく歩いて行くと一切経山と姥ヶ原の分岐(7時25分)に着くが、ここで一計を案じて姥ヶ原方面へ直進。つまり先に東吾妻山を歩いてしまおうという作戦であり、これならドタキャンの心配は無用だろうとほくそ笑みながら、階段状のルートをのんびりペースで上って行く。

雲の合間から顔を出した陽の光は意外に強烈だが、姥ヶ原の湿原には涼しい風が吹いており、これがなかなか良い気持ち。お目当てのチングルマはやや見頃を過ぎており、花弁を落としてしまったものも目立つが、まあ、全体的に見ればまだ十分魅力的であり、幸福な気持ちになって8時14分に着いた姥ヶ原の十字路を東吾妻山方面に左折する。

東吾妻山への登山道は樹林帯の中に続いており、そのなだらかな山容といい、一切経山とは大違い。特に見晴らしがほとんど無いところが大きなマイナス点であり、当初の計画どおり一切経山の後に歩いていたら妻から苦情が出ていたかもしれないなあ。しかし、8時59分に着いた山頂(1975.1m)は見事に開けており、そんなマイナス点を完全に帳消しにしてくれる程の大展望!

残念ながら猪苗代湖は雲の下に隠れていたものの、磐梯山西吾妻山桧原湖といった馴染みのある景色を眺めながら食べるおにぎりの味は格別であり、やっぱり来て良かったね。それにしても、ここから見える西吾妻山までは相当距離があるようであり、吾妻山全体のスケールの大きさにちょっぴり驚かされる。

さて、9時25分に下山に取り掛かり、10時ちょうどに姥ヶ原の分岐まで下りてくる。再びチングルマを愛でながら木道を進んで行くことになるが、こちらでは一足早く羽毛状になったものまで見ることが出来、花のサイクルを一日で観察できてしまうのがちょっと面白い。そんなことを妻と話しながら鎌沼の周囲をのんびり歩き、10時24分に酸ヶ平の分岐に着く。

幸い妻からのドタキャンの申し出は無いようであり、そのまま一切経山へと続く石のゴロゴロした斜面を慎重に上り、11時15分に山頂(1948.8m)に到着。着いたときには薄いガスに包まれていたが、大きめの石に腰を下ろして休んでいると次第にガスが晴れて行き、無事、美しい“魔女の瞳”と再会することができた。

11時49分に二度目の下山に取り掛かると、後はもう駐車場まで下って行くだけであり、刻々と変化する吾妻小富士のクレーターの様子を眺めながら姥ヶ原への分岐(12時25分)~浄土平湿原の木道と歩き、13時9分に駐車場まで戻ってくる。本日の総歩行距離は10.5kmだった。

ということで、先に東吾妻山を歩いてしまうという作戦は大成功であり、ドタキャン対策だけでなく、最後まで退屈すること無く周回コースを楽しむことができる。せっかくの温泉地にもかかわらず、日帰り入浴を自粛せざるを得なかったのが唯一の心残りだが、まあ、その気になればいつでも再訪できるエリアであり、コロナ禍が収束する日を首を長くしてお待ちしたいと思います。
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