昭和天皇

先日読んだ「大正天皇」と同じ原武史による昭和天皇論。

本書の目的は、新嘗祭に代表される宮中祭祀への“こだわり”を通して「裕仁昭和天皇という人物を読み解」こうするものであり、そのこだわりに関する貞明皇后の影響やライフワークでもある生物学研究との関係、また、敗戦によって皇室祭祀令が廃止された後も“天皇家の私事”としてそれにこだわり続けた理由等を明らかにしようとする。

さて、本書では地方視察や御用邸訪問といった国民にとって“可視の天皇”を「お濠の外側」、宮中祭祀や内奏に対する下問といった国民にとって“不可視の天皇”を「お濠の内側」と表現しているのだが、皇太子時代に訪れた英国王室の影響等もあり、若き日の昭和天皇は「お濠の内側」で行われる宮中祭祀よりも「お濠の外側」での「大規模な儀礼」に対する関心の方が強かったらしい。

大正天皇」でも一部触れられていたが、「新しい下からのナショナリズム、いわゆる超国家主義」の原点になった「親閲式や奉迎会に臨み、万単位の『臣民』とともに『君民一体』の『国体』を視覚化する摂政時代の行啓のスタイル」は、天皇即位後も日中戦争が勃発する前年まで続けられたそうであり、「いわゆる戦後巡幸の原型が、このときすでに確立されていた」。

そんな昭和天皇に対して批判的だったのが、「大正天皇とともに祭祀を軽んじ、『神』をないがしろにしてきたことに伴う自らの苦悩から解放されたかったのではなかろうか」と著者が推測する貞明皇后(=後の皇太后)であり、「『形式』だけにとどまる天皇の祭祀に対する態度を批判し、『真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ』」と度々苦言を呈していたらしい。

また、摂政時代から興味を持つようになった生物学研究も「新嘗祭に生物学研究と祭祀の接点を見いだす」ことによって祭祀に対する考えを変えるきっかけになり、昭和天皇は次第に宮中祭祀に熱心に取り組むようになるのだが、やはり大きかったのは日中戦争や太平洋戦争の影響であり、「天皇の祈りを本物にしたのは、戦争であった」。

天皇日中戦争でも、必ずしも米英との衝突を恐れて戦争の早期終結を主張していたわけではなく、…その前に中国軍を叩くことが必要という認識を抱いていた」そうであり、太平洋戦争が勃発した翌年2月18日には「戦勝第一次祝賀式に際して、再び正門鉄橋に白馬に乗って現れ、宮城前広場を埋めつくした十数万の人々の歓呼に応えた」。しかし、一方では靖国神社参拝を頻繁に繰り返すようになり、ミッドウェー海戦後の1942年12月2日には「天皇はひそかに、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝をした」とのこと。

まあ、そのこと自体は理解できるものの、問題はその祈りの内容であり、「おそらく天皇は、『皇祖神』や『英霊』、あるいは皇太后に対しては責任意識をもっていたであろう。それに比べれば、国民に対する責任意識は希薄であったように思われる。ましてや、侵略された地域の住民に対する意識があったかどうかは、はなはだ疑わしい」というのが著者の推測。

結局、沖縄本土への米軍上陸が始まっても戦争継続の意思を持ち続けた天皇も、二日間にわたる「輾転反側する想いで悩んだ」末に方針を転換し、「直ちに戦争終結工作に着手すべきだとの意思表示を行」うに至るのだが、その「究極の目的は、『三種の神器』の確保にあった。…天皇がこだわった『国体』の護持というのは、『万世一系』の皇室を自分の代で終わりにしてはならないということであり、国民の生命を救うのは二の次であった」というのが何とも情けない。

ちなみに、昭和天皇がそれほど三種の神器にこだわりを見せるのは、南朝正統論が確立した1911年以降、「北朝の血統を継いでいた…天皇家は血統に代わる正統性の根拠を見いださなければならなくな」り、そこで目を付けられた「『三種の神器』は『万世一系の皇統』を担保する神聖なものとなった」からにほかならない。

さて、そんな「お濠の内側」の事情にもかかわらず、敗戦後の「12月9日の『読売報知』に発表された世論調査によれば、95%が天皇制支持であり、反対はわずかに5%にすぎなかった」そうであり、「天皇は46年に1都8県、47年に1府22県を訪問したが、各地で熱狂的な歓迎を受けた。…十万を超える人々が、君が代や万歳を媒介に天皇と一つになる『君民一体』が、各地で再開され」ることになった。

さらには革命を恐れるマッカサーや吉田茂の思惑も加わって、結局、昭和天皇は退位も国民への謝罪もせずに天皇の地位に居座り続けることになるのだが、自らの戦勝祈願を叶えてくれなかった伊勢神宮に対しても「神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」という理屈を付けて、怒るどころか祈願したこと自体を反省してしまう。

著者によれば、「46年1月1日に発表された『新日本建設ニ関スル詔書』は、天皇の『人間宣言』といわれることが多い」が、そこで架空のこととされたのは「天皇を現御神とする事」だけだそうであり、「天皇は決して、自らを『神』の子孫とみなすことを否定したわけではなかった」という記述には吃驚仰天。「なぜならそれを否定すれば、宮中祭祀の根幹が崩れてしまうから」とのことだが、確かに天照大神を自分の祖先と信じているなら、それを否定することは不可能だろう。

こうして敗戦後も「宮中祭祀は、法令に規定されない天皇家の私事として継続」されることになり、もう一つの「お濠の内側」の代表的な行為である「首相や閣僚が内奏し、天皇が下問する慣習はその後もずっと続くことになる」。結局、「天皇は、日本国憲法に規定された象徴としての制約を軽々と乗り越えた」というのが、著者による昭和天皇論の一つの結論になる。

さらに昭和天皇の後を継いだ現上皇について、「現天皇は、『お濠の外側』では護憲を公然と唱えながら、『お濠の内側』では現皇后とともに、宮中祭祀に熱心である。…そして過去の戦争や植民地支配に対しても、昭和天皇よりも踏み込んだ言葉を口にするようになっている」と評しており、それに続く「昭和はまだ終っていないのである」という文章で本書は幕を閉じる。

この他に興味深かったのは次の2点であり、一つ目は「天皇自身も実は皇祖神にたいしては『まつる』という奉仕=献上関係に立つので、上から下まで『政事』が同方向的に上昇する型を示し、絶対的始点(最高統治者)としての『主(ヘル)』は厳密にいえば存在の余地はありません」という本書で引用されている丸山眞男の指摘。

以前、堀田善衛の「方丈記私記」で、東京大空襲で焼け出された人々がピカピカの車に乗って視察に来た昭和天皇に土下座してお詫びをするというエピソードを読んだことがあるが、実は、その天皇自身も皇祖皇宗に対してお詫びをしていた訳であり、う~ん、これって究極の無責任体質なんじゃなかろうか。

二つ目は、「頭のさがる、人間わざとは思われないようなふるまい」と表現されている祭祀の実態。それを見学したことのある三島由紀夫は「神権政治と王権政治が一つのものになっているという形態を守るには、現代社会で一番人よりつらいことをしなければならない」と言っていたらしいのだが、実際、御簾の向こう側ではどのような行為が行われているのであろうか。

ということで、本書で紹介されている昭和天皇の言動に関し、正直、人間として尊敬できるようなエピソードは皆無なのだが、それは資質によらず、血統だけによって皇位継承が決定されるという現行天皇制のいわば宿命。平成末期、一部で現上皇の言動を政治的に評価しようとする動きが見られたが、やはり天皇に対してはいかなる政治的影響力も認めてはならないということを改めて強く思いました。

燧裏林道から尾瀬ヶ原へ(2日目)

今日は、龍宮十字路から沼山峠まで歩き、バスで御池の駐車場に戻ってから帰宅する予定。

早朝4時前に目が覚めたので窓から外を見てみたが星は出ておらず、う~ん、今日もあまりパッとしない天気らしい。それでも徐々に明るくなっていく湿原の様子はとても美しく、こういった風景は山小屋に宿泊しないとなかなか見られない。6時からの朝食を済ませた後、のんびり出発の準備に取り掛かり、7時28分に宿を出る。

最初は山小屋の前の木道を歩いてヨッピ吊橋(7時48分)に向かい、そこを左折して着いた龍宮十字路(8時16分)のベンチで一休み。上空には雲が多いが所々青空がのぞいており、当面、雨の心配は無いだろう。日差しが昨日よりも明るいために草紅葉の鮮やかさは一入であり、今まで見た中では今回が一番きれいかもしれない。一方、池塘に浮ぶヒツジグサはもうお終いであり、草紅葉と色付いたヒツジグサを一緒に楽しむのは難しいようである。

さて、ここからが今回の山歩きのメインイベントであり、それは今まで歩いたことの無い龍宮十字路と沼尻の間を繋げること。龍宮小屋の先で群馬と福島の県境(=東電小屋は新潟なので、これで3県目)を跨ぎ、見晴に向かって歩いて行くと上空の青空がどんどん広がっていき、それまで雲に隠れていた燧ヶ岳や至仏山の山頂が次々にその姿を現わしていく!

特に正面に聳える燧ヶ岳の姿は見事であり、うーん、今度はナデッ窪の方から歩いてみたいなあ。そんなことを考えながら見晴(8時58分)に着くと、そこには数棟の山小屋が建ち並んでおり、何だかとてもお洒落な雰囲気。しかし、尾瀬ヶ原はこれにて終了であり、次は尾瀬沼に向かって樹林帯の中を歩いて行く。

ほとんど平坦なルートだろうと思っていたが、実際は上りが主体であり、反対方向に歩いた方がずっと楽だったに違いない。しかし、今となってはどうすることも出来ないので、燧ヶ岳分岐(9時19分)~仮橋(9時36分)と特に見るべきものも無い地味なルートを黙々と歩いて行く。

ようやく下り基調に変り、大きな石がゴロゴロした斜面を下りていくと、その先の湿原には映画のセットに出てくるようなお洒落なパラソル付きのサンデッキ(?)が建っている。思わずGPSで確認してしまったが、ここが9年前に妻と一緒に訪れた沼尻休憩所(10時43分)であることに間違いはなく、東電小屋で作ってもらったお弁当で早めの昼食。

残念ながら上空は再び雲に覆われてしまい、尾瀬沼にはまるで夕刻のような雰囲気が漂っている。しかし、まだしばらくは雨の心配は無さそうであり、注文したホットコーヒーで乾杯をして今回のミッションが無事完了したことを妻と祝う。実は、滑りやすい木道にもかかわらず、夫婦揃ってここまで一度も転んでおらず、この9年間で山歩きの技量も幾分上達したらしい。

さて、11時6分に再び歩き始めると、長英新道分岐(11時43分)~沼山峠分岐(11時53分)を経て11時56分に長蔵小屋に着く。いつもはパスしてしまうのだが、今日は時間がたっぷりあるので尾瀬沼の畔まで行ってみたり、ビジターセンターを冷やかしたりしながらゆっくり見学。

再出発(12時22分)後は、最後のダラダラした上りを何とか頑張って13時36分に沼山峠に到着。ここまでの総歩行距離は15.8kmであり、13時50分発の真新しい電気バス(!)に乗って御池駐車場まで戻ってくることが出来た。

ということで、駒の湯に入って汗を流してから娘の職場付近へ直行し、仕事を終えた彼女を拾って無事帰宅。今回のミッション成功により、鳩待峠から沼山峠まで繋がったことになるのだが、改めて地図を見直してみるとまだまだ歩いていないところが残っており、取りあえず来年は大清水から尾瀬沼に向かうルートを歩いてみたいと思います。
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燧裏林道から尾瀬ヶ原へ(1日目)

今日は、妻と一緒に一泊二日の予定で大好きな尾瀬に出発する日。

本当は先々週の三連休のときに行くつもりだったのだが、台風の襲来によって急遽中止。やむなく宿泊の予約をしておいた東電小屋にキャンセルの電話を入れた際、ついでに2週間後の空室の状況を確認してみたところ、運良く個室を確保することが出来たということで、喜び勇んで午前8時過ぎに御池の駐車場に到着する。

今にも降り出しそうな曇天の故、広い駐車場は1/4くらいしか埋まっていなかったが、そこで身支度を整えてから8時23分に出発。燧裏林道を歩くのは今回が初めてだが、緩やかな上り主体の木道を進んで姫田代(8時39分)~ノメリ田代(9時7分)~天神田代(9時39分)。最初の頃は霧雨状態だったが、次第に雨粒がハッキリしてきたため、途中でレインスーツの上とザックカバーを装着する。

裏燧橋(9時58分)に着いた頃の雨音が一番賑やかだったと思うが、妻の感想は“熊野古道を歩いたときのザーザー降りに比べれば何でもない”とのことであり、へぇー、なかなか逞しくなったもんだなあ。“三条ノ滝1.2km”の表示のある分岐(10時37分)を右に入ると、急な下りが続くようになり、足を滑らさないよう慎重に歩いて11時9分に“三条ノ滝0.2km”の表示のある分岐に着く。

この先はピストンになるのでザックをデポしようか迷ったが、まだ小雨交じりだし、妻も大丈夫というのでザックを担いだまま先に進む。展望台へ続く階段はかなりの急傾斜だったが、何とかそこを下りて11時20分に三条ノ滝と初めてのご対面。ここを訪れるのが今日の一番の目的だったが、“尾瀬ヶ原の水が全てここに集まってくる”という解説のとおりなかなかの大迫力であり、やっぱり来て良かったなあ。

さて、しばらくの滝見物の後、先程の分岐(11時39分)まで引き返すと、今度は“平滑ノ滝1.0km”の表示の指し示す方向へ進んでいく。当然、今度は上りが連続することになるが、妻はまだまだ元気一杯のようであり、12時22分に着いた展望台(の残骸?)の上から遙か下方に平滑ノ滝を眺める。

その先の分岐(12時39分。最初の分岐を尾瀬ヶ原(見晴)方向に進めば、アップダウンを経ることなくこの分岐に着くのだろう。)を過ぎると、間もなく元湯休憩所(12時43分)に到着し、ここで本日最初の大休止。温かいコーヒーを注文して持参した食料で空腹を満たすと、どうやら雨はほとんど上がったようであり、レインスーツを脱いで13時17分に再び歩き出す。

休憩所の先からは湿原の中の木道歩きになり、時々霧雨が濃くなったときには傘を差しながらのんびり歩いて行く。やや薄くなった雲越しの陽の光で周囲が明るくなると一面の草紅葉がとてもきれいであり、樹林帯ではツタウルシやカエデなど一部本物の紅葉を見ることも出来る。“東電小屋1.2km”の表示のある分岐(13時38分)を右折すると、14時1分に本日の宿である東電小屋に着く。ここまでの総歩行距離は11.2kmだった。

ということで、案内された部屋は1階北西の角にあり、西側の窓からは湿原の様子が良く見える。食堂のそばなので喧しい時間帯はあるが、他の客室は全て2階なのでその時間帯が過ぎてしまえばとても静か。ようやく繋がったLINEで娘に経過報告を済ませた後は、お湯に浸かって雨で冷えた体を暖め、夕食後のスタッフのレクチャーを拝聴してから早めに布団にもぐり込みました。

ジョン・ウィック:パラベラム

今日は、妻&娘と一緒にジョン・ウィック・シリーズの最新作「ジョン・ウィック:パラベラム」を見てきた。

米国では本年5月に公開されて、見事、初登場1位に輝いた人気作なのだが、何故か我が国ではそれから5ヵ月遅れての公開。しかも、そのせいでヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いた話題作「ジョーカー」と同日公開になってしまい、おそらく興行成績的にも苦しくなってしまったのではなかろうかと心配しながら映画館へ向かう。(※翌週発表された興行成績によると、やはり1位は「ジョーカー」であり、本作は5位にとどまった。)

さて、ストーリーは、前作「ジョン・ウィック:チャプター2(2017年)」の最後で裏社会のルールを破ってしまい、組織から命を狙われることになった主人公(キアヌ・リーヴス)を待ち受ける苛酷な運命を描いている。しかし、このシリーズにとってストーリーはアクションを見せるための方便に過ぎず、とりあえず目の前で繰り広げられる華麗なアクションを楽しんでいれば良い。

何と言っても世界中の殺し屋が次々に主人公に襲いかかってくるという設定なので、ほとんど何でもありの世界であり、図書館の本であろうが、馬の後足であろうが、展示品の刃物であろうが、ありとあらゆるものが凶器となり、それを使った主人公が迫り来る敵を一人ずつ丁寧に返り討ちにしていく。

面白いのは、襲ってくる悪党どもが伝説的な殺し屋である主人公に対して尊敬と憧れの気持ちを抱いているところであり、どこからともなく“殺されて本望”みたいな雰囲気が漂ってくる。一方の主人公も、そんな好意(?)に報いるべく、わざわざヘルメットと防弾服の間に銃口をねじ込む等して確実に致命傷を与えており、凄惨な殺し合いにもかかわらず、何とも言えない可笑しさがこみ上げてくるという不思議な世界。

また、主人公と一緒に闘う羽目になる美女ソフィア(ハル・ベリー)が披露してくれる犬を使った格闘シーンも本作の見どころの一つであり、真っ先に敵の股間を狙って噛みつきに行く犬たちの戦法は見ていてとても怖ろしい。実は、やや意外にも本作は完結編になっておらず、組織を牛耳るラスボスとの対決は次回作に持越しになっているのだが、その際には是非とも彼女を再登場させて欲しい。

ということで、“ホテル内での殺人禁止”という“規制”のおかげで殺し屋たちの憩いの場所になっていた“コンチネンタル・ホテル・ニューヨーク”が、裁定人の行った“規制緩和”によって一気に地獄のバトルフィールドと化してしまうのはとても教訓的であり、やはり安易な規制緩和は決して人の為にならないということが良く分かりました。

新自由主義

「その歴史的展望と現在」という副題の付けられたデヴィッド・ハーヴェイの著作。

本書の存在についてはかなり早くから気付いてはいたのだが、正直、内容を理解できる自信が無かったこともあって長らく手をこまねいていた。しかし、先日読んだ「資本主義と闘った男」に引用されていた本書の文章がとても論旨明快で読みやすく、これなら何とかなるんじゃなかろうかと思ってようやく手に取ってみた次第。

さて、「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制限に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」。一方、「国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持すること」だけであり、「市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会財は最大化される」ことになる。

「訳者あとがき」によると、このように「従来、『市場か政府か』という対立軸を中心にして語られてきた新自由主義化について、その本質が、1950年代から70年代初頭にかけて浸蝕されてきた資本家階級と政治エリートの、とりわけ金融資本を中心とするそれの権力回復にあるとみなし、そうした基本的観点に立って新自由主義の歴史を総括していること」が「本書の第一の意義」になるらしい。

すなわち、第1章「自由とはこういうこと…」で述べられているとおり、「新自由主義思想の創始者たちは、人間の尊厳や個人的自由という政治理念を根本的なもの、『文明の中核的価値』であるとした」。そして、「市場は、大食や強欲、富と権力への渇望といった人間の本能の最も卑しいものさえも万人の利益のために動員する最良の装置」であるのに対し、「国家が入手可能な情報は、市場のシグナルに含まれている情報にとうてい太刀打ちできない」故に「投資や資本蓄積に関する国家の判断は必ず間違う運命にある」として、市場の政府に対する優位性を主張してきた。

しかし、そうした新自由主義の理論とその実践の間には常に大きな矛盾をはらんでおり、それは「資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクトとして解釈することもできる」。事実、「新自由主義化は、グローバルな資本蓄積を再活性化する上であまり有効ではなかったが、経済エリートの権力を回復させたり、場合によっては(ロシアや中国)それを新たに創出したりする上では、目を見張るような成功を収め」ている。

したがって、「新自由主義的議論に見られる理論的ユートピアニズムは主として、この目標(=経済エリートの権力の回復)を達成するために必要なあらゆることを正当化し権威づける一大体系として機能してきた」というのが著者の結論であり、以下、債務国に債務の返済繰り延べを認める見返りに新自由主義改革を実施させるという手法により、IMF世界銀行とが中心になって世界中に「『自由市場原理主義』と新自由主義の正統理論を普及し実施」してきた経緯を詳しく紹介している。

また、カール・ポランニーの言葉を借りて、「もし、『権力と強制のない社会などありえないし、力が役割をもたない世界もありえない』ならば(そしていつの世もそうだったのだが)、この自由主義ユートピアニズムのビジョンを維持する唯一の方法は、力の行使、暴力、権威主義である」とも主張しており、新自由主義のもたらした悲惨な現状に対する支配階級の解決策(?)である「新保守主義の台頭」を強く憂いている。

さて、「本書における二つ目の意義は、この新自由主義的転換に対する(民衆との)同意の形成がどのようにされたかを具体的に考察している点にある」のだが、アメリカにおけるその究極的な原点は「個人的自由の大義」。「『自由』という言葉は、アメリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは…ほとんどあらゆるものを正当化」してしまう。「個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも、新自由主義の囲いに取り込まれやすい」という著者の言葉は良く憶えておいた方が良いだろう。

また、「新自由主義化にとって政治的にも経済的にも必要だったのは、差異化された消費主義と個人的リバタリアニズム新自由主義ポピュリズム文化を市場ベースで構築することであった」という説明はやや難解だが、「新自由主義が…『ポストモダニズム』と呼ばれる文化的推進力と少なからぬ親和性があることをはっきりと示している」という文章には、まあ、思い当たる節が無いこともない。

さらに「黒人、女性、環境派等々の特殊集団に便宜を図るために過剰に国家権力を行使する『リベラル』たち」への問題視や「労働市場における大きな自由や行動の自由は、資本家にとっても労働者にとっても利益になる」という宣伝、「キャデラックを乗り回す『福祉の女王』というお話」等々に関しては、我が国でもお馴染みのものばかりであり、「いったん国家機構が新自由主義的なものに転換してしまえば、その権力を用いて、説得や取り込み、買収、脅迫を行ない、その権力を永続化する上で必要な同意の風潮を維持すること」が可能になってしまう。

最悪なのは、レーガンサッチャーが「つくり上げた遺産と伝統は、次世代の政治家たちを容易には逃れられないさまざまな制約の網の目で絡めとった。クリントンやブレアのような後継者たちは、好むと好まざるとにかかわらず、新自由主義化をよりましな形で継続すること以上のことはほとんどできなかったのである」という第2章「同意の形成」の結論であり、これが本当だとしたら新自由主義からの脱却には相当長い年月を要することになりそうである。

続く第3章「新自由主義国家」では、「新自由主義理論においては、『上げ潮は船をみな持ち上げる』とか、〔上層から下層へと富が〕『したたり落ちる(トリクルダウン)』と想定されており、一国内であろうと世界規模であろうと、自由市場と自由貿易を通じてこそ最も確実に貧困を根絶することができるのだと考えられている」にもかかわらず、現実的には「階級権力の回復」(=格差の拡大)が進んでいるという、その理論と実践の矛盾が数多く紹介されている。

そこで「市場での人格的・個人的自由が保障される一方で、各人には自分自身の行為と福利に対する責任があるとみなされている。この原則は、福祉・教育・医療・年金といった分野にまで拡張される。…各人の成功や失敗は、何らかの社会システム上の問題…のせいであるよりも、むしろ企業家的美徳の欠如とか個人的失敗…といった観点から解釈される」と説明されているのは、我が国でもことあるごとに噴出するようになった「自己責任論」のことであり、う~ん、それも新自由主義化の徴候の一つだったんだなあ。

次の第4章「地理的不均衡発展」と第5章「『中国的特色のある』新自由主義」では、新自由主義化の動きが各国の置かれている状況に応じて様々な変化を見せることが詳しく述べられているが、「新自由主義理論の神髄の一つは、自立、自由、選択、権利などの聞こえのいい言葉に満ちた善意の仮面を提供し、剥き出しの階級権力の各国および国際的な…回復と再構築がもたらす悲惨な現実を隠蔽すること」なのだとすれば、それも当然のこと。

続く第6章「審判を受ける新自由主義」では、著者が「略奪による蓄積」と呼ぶ、下層階級から支配階級への富と収入の「再配分」、「明らかに商品ではない」はずの労働の商品化(の徹底)による「使い捨て労働者」の出現、「短期契約の論理を環境の利用に押しつけたこと」による環境の悪化等、新自由主義化の抱える諸問題が述べられており、それに対する抵抗の動きを模索しているのが最後の第7章「自由の展望」。

そこでは「もしそれが階級闘争に見えたり、階級戦争のような行動に見えるのなら、恥じることなく、ありのままにそう呼ぶこと」によって隠蔽されようとしている階級概念を再構築することや、「新自由主義的政策目標と新保守主義的政策目標とのあいだに利用可能な矛盾が存在することを明らかにする」こと等の必要性が述べられているが、おそらく一番重要なのは「いくつかの異なった自由概念のどれが今日の時代にふさわしいのかについての真剣な討論」を行うこと。

1935年に当時のルーズベルト大統領が述べたとおり、「貧しき人は自由人ではない」ということが再認識されるならば「新自由主義が説く自由よりもはるかに崇高な自由の展望は存在する」ことが明らかになる筈であり、「われわれはそうした自由を獲得し、そうした統治システムを構築するべきなのだ」というのが本書全体の結論になる。

その他、本書には付録として「日本の新自由主義 ―ハーヴェイ『新自由主義』に寄せて」という政治学者の渡辺治氏の論文が収められているのだが、ここでは、1990年代(=「冷戦が終焉しグローバル市場が一気に拡大した結果、世界大の競争に巻き込まれて、その競争力上の優位を喪失」した。)以降の我が国における新自由主義化の動きが分りやすくまとめられている。

それによると、我が国における新自由主義化の阻害要因(?)になっていたのは「一方で大企業の蓄積に効率的な体制づくりに一貫して努力してきたが、同時に、常に、それによって衰退する地場産業や農業部門への手当ても行なってきた」ところの官僚機構と、「周辺部に対する利益誘導型政治によって支えられていた」ところの自民党一党政権。

そして、それらを攻撃する「スローガンこそ、反官僚主義、反パターナリズム、反国家主義であった」そうであり、「日本では、新自由主義への国民の同意調達は、反自民党政治・反開発主義となって現われた」とのこと。う~ん、これが本当だとすると、俺自身も我が国の新自由主義化に少なからず協力してしまっていたことになる。

このことから、我が国の新自由主義化は、「政治改革」という名目で「中選挙区制小選挙区制に変えて保守二大政党制を構築する」という方向でスタートし、紆余曲折を経た後、小泉政権による「『官邸主導』『首相主導』の名の下」で「ハーヴェイのいう『新自由主義国家』を完成に近づけた」。

また、「新自由主義と並んでの新保守主義の台頭という問題は、日本の新自由主義を検討するうえでも重要である」が、ここで興味深いのは、我が国の「戦後の開発主義保守政治は、保守主義イデオロギーとは正反対の、開発と成長の理念を掲げ」てきたため、日本の新保守主義イデオロギーは「狭隘性と脆弱性」を有しており、それは「支配階級内にも、大衆的にも固有の社会的基盤を持ちえていない」という指摘。

それにもかかわらず、我が国でも新保守主義が急伸長した背景には「新自由主義による社会統合の破綻と被害が、福祉国家を経た先進諸国と比較してもはるかに深く顕在化したこと」と「北朝鮮問題や中国脅威論の形で、ナショナリズムの昂揚と結びついていたこと」という2つの理由が存在するのだが、残念ながら、前者の事情は「日本では新自由主義に対抗する社会運動や思想が自動的に成長する可能性が強くなることには結びつかない」というのが渡辺の主張。

「その最大の原因は、日本では新自由主義に対抗する政治的経験が蓄積されていないという点」であり、イギリスやスウェーデンと違って新自由主義へのオルタナティブとしての福祉国家の経験を有さない我が国では、まず、それに代わる何か新しい対抗軸を考え出さなければならないのだろう。

ということで、本書の発表されたのは2005年のことであり、その3年後にはリーマン・ショックが起きているにもかかわらず、大学入試制度改革や水道事業の民営化等々、我が国の新自由主義化の勢いは依然止みそうにない。おそらく道のりは長いのだろうが、ハーヴェイの言うとおり「貧しき人は自由人ではない」という考えを徹底させていくことは新自由主義化に対する有効な抵抗に繋がる筈であり、当面、それに逆行するような憲法改正には強く反対し続けなくてはいけないのでしょう。

火打山&妙高山(2日目)

今日は、早起きをして妙高山を歩いてから帰宅する予定。

テントを叩く雨音で目を覚ますが、時計を見るとまだ零時20分過ぎ。こんなに早く天気が崩れるとは思っていなかったが、朝から雨だったら妙高山は諦めるつもりだったので、雨中でのテントの撤収方法を脳内シミュレートしながら再びウトウト。

ところが午前3時過ぎに目覚めると雨は上がっているようであり、寝袋の中でしばらく耳をすましていても雨音は聞えてこない。どうしようかと迷ったが、いずれにしても雨が上がっているうちにテントを撤収してしまった方が楽なので、4時頃から荷物の整理に取り掛って5時になる前に撤収完了。

周囲はようやく空が白んできた程度であるが、こうなればサッサと妙高山を片づけてしまうしかないと判断し、山小屋のベンチまで移動して最後の身支度を整えてから5時13分に出発。黒沢池分岐(5時16分)を今度は右手に入ると、ゴツゴツした石の上を歩かなければならないのはほんの僅かな区間だけであり、再び歩きやすくなった山道を歩いて5時38分に茶臼山(2171m)に着く。

その先では目指す妙高山と黒沢池ヒュッテの姿をハッキリ視認することが出来、ようやく気持ちが高揚してくる。6時ちょうどに着いた黒沢池ヒュッテの前には多くの登山者がたむろしており、彼らの雑談を耳にしながらテント等の入った大型ザックをそこにデポ。アッタク用ザックには雨具の他、ここまで温存してきたペットボトル2本、芍薬甘草湯も入っている救急キット等を入れて6時12分に再出発。

さて、大倉乗越(2150m。6時31分)への上りは大したこと無いが、長助池分岐(7時3分)までの下りはロープ場があったり、狭いトラバース道があったりと少々気を使う。復路が大変そうだが、当面の課題は分岐の先から山頂まで続く急登であり、バテないように途中で追い付いた単独女性(=何とテント泊装備!)をペースメーカーに見立て、彼女を追い越さないようにペースダウン。

同じような岩場の急登が続くので随分長く感じられたが、山頂直前で単独女性に先を譲って頂き、8時6分に妙高山北峰(2446m)に到着。そこには“日本百名山”の表示もあったが、この山で一番高いのはこの先にあるハズであり、日本岩(2450m。8時9分)を経由して8時13分に妙高山の山頂(2454m)に着くことが出来た。

急登の途中で一時パラついたものの、今は雨は上がっており、曇天ではあるが山頂からは360°の眺めを楽しむことが出来る。その後、北峰に移動してLINEで自宅に経過報告をしていると何だか少し空が明るくなってきたようであり、これなら雨に降られずに駐車場まで戻れるかもしれない。

そんな訳で8時33分に下山に取り掛かり、長助池分岐(9時19分)~大倉乗越(10時2分)。やはり大倉乗越までの上り返しがちょっとキツかったが、これで本日の上りはほぼ終了したハズであり、10時23分に着いた黒沢池ヒュッテのベンチで荷物を整理してから10時41分に再出発。

黒沢池の周囲に広がる湿原を眺めながら木道を歩いて行くと、ちょっとした上りの後に富士見平分岐(11時21分)に着くことが出来、そこから先は随時小休止を挟みながら十二曲り(11時57分)~終点(12時13分)~黒沢(12時22分)と歩いて、13時3分に駐車場まで戻ってくる。本日の総歩行距離は13.9kmだった。

ということで、天気予報がイマイチだったせいか、高速道路も空いており、予定どおりの時刻に無事帰宅。ほとんど雨に降られることもなく、数年来の懸案だった火打山妙高山をクリアできたのは誠に目出度い限りであり、安物のテント泊用具が何とか使いものになることが分ったのも大きな収穫。これからも年1~2回くらいのペースでテント泊山行を楽しみたいと思います。
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火打山&妙高山(1日目)

今日は、平日に休暇をとって新潟県にある火打山妙高山に出発する日。

この二つの日本百名山をまとめて歩けることを知ったのは今から数年前のこと。しかし、自宅から登山口のある笹ヶ峰までは片道4時間弱もかかるために日帰りは困難であり、山小屋にしようかテント泊にしようか迷っていたときに目についたのが「Naturehike」というブランドの格安テント。

正直、テント泊を再開するにしても以前のように年数回のペースで利用するとは考えられず、その費用のために大枚をはたくことには強い躊躇いがある。しかし、ブランドにこだわらなければ比較的安価に購入できることに気付いてAmazonで検索した結果、「Mountaintop」の大型ザックや「Ohuhu」の寝袋等々、3万円以内で装備一式を揃えることが出来てしまった。

さて、これで出掛ける準備は整ったのだが、次の関門になったのが片道4時間弱というロングドライブであり、何度か計画を立ててはみたものの、予定日が近づくと気力が萎えてしまう。これではイカンと思い、予行演習(?)として選んだのが本年6月の高妻山であり、そこで得たロングドライブの自信を糧にして、午前8時前に笹ヶ峰登山口の駐車場に到着する。

平日にもかかわらず、登山口至近の駐車場には満車の表示が掛っていたが、そのすぐ先にある広い方の駐車場にはまだ十分余裕があり、そこで身支度を整えてから8時4分に歩き出す。登山口で500円の協力金(任意)を支払うことは知らなかったが、まあ、駐車場代だと思えば安いものである。

さて、最初のチェックポイントである黒沢までは樹林帯の中の平坦な道のり。テント泊装備での山歩きは5年ぶりだが、食料を乾き物主体に変えたこともあってそれ程重くは感じない。出来れば水も減らしたかったところだが、テント場のある高谷池ヒュッテの水場は“要煮沸”なので、やむなくプラティパス(=こればかりは安物に替えられない。)に2ℓ強の水道水を入れてきた。

8時47分に黒沢橋を渡ると間もなく十二曲り(9時1分)が始まるが、急斜面には立派な階段が整備されているので難所とは思えない。十二曲りの終点(9時18分)を過ぎても地形図の等高線のとおり上りは続くが、進むにつれて傾斜は弱まり、道の両脇にきれいな紅葉が見られるようになると、次のチェックポイントである富士見平分岐(2063m。10時8分)に着く。

ここまで上ってしまえば残りは楽なものであり、快晴の下、アルプス展望台(10時41分)からの眺望を楽しんでから高谷池ヒュッテ(10時44分)に到着。受付でテント代(=410円と格安!)を支払う際に“コーラみたいなものはありますか?”と尋ねてみたが、“ビールしかない”というつれない返事であり、仕方がないのでプラティパスに入れてきた水道水は全て飲み水として使うことにする。

テント場は水場を渡った先にあり、まだ時刻が早いこともあって先客は一張りだけ。明日の天気予報には傘マークも付いているので、水溜りになりそうな場所を避けてテントの設営に取り掛かるが、先日、家の中で組立て方を練習したばかりなのでトラブルは皆無。前室が狭いのが大きな欠点だが、まあ、ブランド品の1/5未満の値段なんだから贅沢は言えないな。

さて、ここでテントに入って一休みしておけば良かったのだが、まだ昼メシにも早いということで、アタック用ザック(?)に食料と飲みかけのペットボトルを入れて火打山に向かう(11時16分)。重いテント泊装備から解放されて気分は完全なハイキングモードであり、雲一つ無い青空の下を黒沢池分岐(11時21分)~天狗の庭(2110m。11時34分)と軽快に歩いて行く。

紅葉が始まったばかりの湿原はとても美しく、背後に見える火打山の優美な山容とのコントラストも文句なしに素晴らしい。しかし、ライチョウ平への上りに差し掛かると両足が思うように上がらなくなっていることに気付き、う~ん、やはりテント場までの重装備での上りはそれなりの負担になっていたんだなあ。

仕方がないのでスローペースに切り替えてゆっくり上っていくが、今度は秋とは思えない厳しい日差しに悩まされるようになり、ノドが渇くためペットボトルの残量が不安になってくる。12時4分にライチョウ平に着くが、この快晴ではライチョウに出会える可能性はゼロであり、最後の力を振り絞ってようやく火打山(2461.7m。12時36分)に到着する。

山頂からの眺めは素晴らしく、スマホも何とか繋がるので“テント場は電波が届かないけど、心配は無用”と自宅にLINEを入れてから小休止。本当はもっとゆっくりしたいところだが、山頂に日陰がないのが玉に瑕であり、残りほんの僅かとなったペットボトルが底をつく前に下山に取り掛かる(12時46分)。

結局、ライチョウ平(13時8分)まで引き返してきたところでペットボトルは空になってしまったが、ここから先は下るだけなので何とかなるだろう。芍薬甘草湯もテント内に置いてきてしまったので、水分不足で足が痙らないように注意をしながら天狗の庭(13時32分)~黒沢池分岐(13時45分)と歩き、13時49分にテント場に戻ってくる。ここまでの総歩行距離は12.0kmだった。

ということで、テントは10数張りまで増えていたものの混雑にはほど遠く、これなら静かな夜を過ごせそう。山小屋のベンチまで移動してカップラーメン等(=煮沸した水場の水を使用)で早めの夕食をとると、後はもうすることもないのでテントの中でゴロゴロ。明日の天気も何とか午前中くらいは持って欲しいなあと思っているうちに、いつのまにか寝入ってしまいました。