親鸞と日本主義

政治学者の中島岳志が2017年に発表した親鸞と戦前の国体論との関係を考察した作品。

親鸞の「他力本願」におすがりするのはもう少し先のことと思い、彼に関する勉強はずっとサボってきたのだが、ある意味、アナキズムの極だと思っていた「悪人正機」の親鸞が日本主義と親和性が高いというのはかなり衝撃的なタイトル。そんなところが気になって、ちょっとフライングになってしまうが、たまたま目に留まった本書を読んでみることにした。

さて、そんな驚きは著者も同様だったらしく、それを感じたのは20代になったばかりの頃とのこと。古書店で手に取った三井甲之という人物の著作の中で「親鸞の『絶対他力』の思想が、国粋主義と強く結び付けられる形で展開され、親鸞的日本主義が高らかに掲げられている」のを知って驚き、かつ、混乱してしまったらしい。

したがって、本書の目的は、「親鸞の思想そのもののなかに、全体主義的な日本主義と結びつきやすい構造的要因があるのではないか」という自らの問いに答えることであり、手始めに、第1章「『原理日本』という悪夢」の蓑田胸喜、第2章「煩悶とファシズム倉田百三の大乗的日本主義」の倉田百三、第3章「転向・回心・教誨」の亀井勝一郎、第4章「大衆の救済―吉川英治の愛国文学」の吉川英治といった、俺でも名前を知っている大物たちによるユニークな“親鸞論”が次々に紹介されていく。

蓑田胸喜は、松本清張の「昭和史発掘」の中でも「右翼の狂信的な理論家」として取り上げられていた人物であるが、大学時代の指導教官に嫌われ、宗教学者になるという夢を絶たれたことを契機に三井甲之の親鸞論にハマっていったらしい。そんな彼の思想の原点は「現世の絶対的肯定」であり、「天皇の大御心に包まれた日本は、『そのまゝ』『ありのまゝ』で完成している。時間は永遠に均質で、祖国日本の『絶対他力』に導かれ続けている」と説く。

そのため、マルクス主義者のみならず、「同じ日本主義者でも北一輝大川周明のような国家改造を思考する革新右翼に対して、極めて厳しい態度を取った」そうであり、「あるがままの日本こそが普遍的真理を体現している」と考えるに至った蓑田は、そんな「『日本』が生み出した親鸞の思想こそが、本家本元の釈迦の仏教を凌駕し、真理を表現していると見なした」。

出家とその弟子」の作者である倉田百三の思想遍歴はもう少し複雑であり、成績優秀な学生だった彼は、立身出世を望むエゴイストから出発し、ショーペンハウアーキリスト教西田幾多郎らの影響を受けた後、「恋の挫折と結核という病を経験することによって、存在そのものの『罪』への自覚をもち、キリスト教の信仰を通じて、『悪の自覚』の重要性を説く親鸞への関心を高め」ていった。

しかし、この時点における「倉田が捉えた親鸞は、『自力』の要素が色濃く残された存在」であり、「自己の存在の罪を自覚し、その罪を『善くなろうとする祈り』によって乗り越えようとする『聖者』こそ、倉田の支持する親鸞の姿」。したがって、その当時発表された「出家とその弟子」に描かれていたのは、「真宗門徒が抱いていた親鸞像とは大きく異なる『キリスト教親鸞』であった」。

そんな彼の親鸞像が変化するのは、私生活におけるスキャンダルによって作家としての名声を失い、強迫神経症を患うようになってからであり、参禅によって「宇宙と自分が『一枚』であることを体感した」彼は、もはや「自己の意思や表現は、『自力』ではなく『絶対他力』である」と考えるようになる。

そして、自己が至ったような「すべてが『一枚』となる世界、すべての主体が『弥陀の本願』と一致する世界を現前させ」るために彼が注目したのがファシズムであり、「親鸞思想によって天皇の勅命の絶対性を説き、満州事変の『宿命』を肯定した倉田は、『宇宙の法則』に従う『政治』の実現を訴える」ようになる。

一方、函館の旧家に生まれ、「『富める者』としての『罪』を痛感し」て育った亀井勝一郎は、マルクス主義者として「三・一五事件」で検挙・投獄され、「『卑賤で悲惨な境遇』を手に入れたことによって、罪悪感から解放され、同時にイデオロギーへの妄信から解放され」る。そして、「奈良を旅することで『宗教的回心の第一歩が始まった』」彼は、「一切を『放下』した純粋な仏教精神を、日中戦争を戦う兵士たちの内に見出した」。

さらに、この頃、親鸞を再読することによって「自己の罪はすべて弥陀に凝視されており、自力で乗り越えることなどできない。…すべてを弥陀に投げ出すしか他にない」と悟った彼は、「『弥陀の本願』という『絶対他力』を『天皇の大御心』に重ね合わせていく」。「『はからひ』を捨て、『自力』を捨て、『私』を捨て、すべてを大御心に委ねるあり方こそ、『絶対他力』の実現だった」。

そして、「大東亜戦争は、近代合理主義の悪弊に止めを刺す戦いである。近代を超克するための戦いである。『人間自力主義』を崩壊に導く戦いである。大東亜戦争の勝利によってこそ、新しい世界が切り開かれる」という「亀井の親鸞論は、…命を賭して戦場に旅立つ兵士たちに、論理を与えた。彼らの死に、壮大な意味を与えた」。

また、悲惨な少年時代を経て大衆文学の人気作家になった吉川英治は、「世界恐慌以降の不況は深刻さを増し、政府や財閥への苛立ちが募っていた」という世相を背景に、「大衆と共に、腐敗した政治家・官僚・財閥に対する怒りを強めていた」。「そんな吉川にとって、満州事変勃発の知らせは吉報」であり、「これによって大衆は眠りから覚め、真の祖国愛が蘇った」と感じる。

さらに「五・一五事件」に際しては「憂国の志士が登場したことに昂奮し」、昭和維新を夢みて「作品で大衆を鼓舞すると共に、実際の日本主義運動にも参加するようにな」る。そんな彼が1935年10月から地方紙に連載を始めたのが「親鸞」であり、そこで常に大衆とともに歩む「親鸞の姿に昭和維新への期待を反映させた」彼は、「『大東亜戦争』が勃発すると、…文学者の先頭に立ち、戦争の大義を訴えた」。

続く、第5章「戦争と念仏―真宗大谷派の戦時教学」で描かれているのは、暁烏敏、金子大栄、曽我量深といった仏教関係者たちによる宗教界内部における“親鸞の政治利用”の実態であり、その中心的人物である暁烏は、1903年から雑誌に「『歎異鈔』を読む」を連載し、「歎異抄」を世に広めるきっかけを作った人物でもある。

その連載をまとめた「歎異鈔講話」の刊行によって注目を集めた彼は、間もなく女性との醜聞が原因で中央から身を引くことになるが、その間に経験した海外旅行によって「『日本人であること』を改めて強く自覚する」。そして、「『天照大神様のお心』と『仏様のお心』は同一のものであ」り、「仏陀以前に日本の国を開いた天照大神こそが、その教えの起源であり、神ながらの道こそが仏教である」という確信を得る。

さらに、歴代天皇に継承されている「天照大神様の願」こそが「本願」であると考えることによって、「『弥陀の本願』は『天皇の大御心』と同一視され」、「天皇への随順こそが親鸞の教えである」という結論に至るのだが、彼の理論はそれに留まらず、「『天照大神の大御心』によって誕生した日本の国土は、そのまま阿弥陀仏の極楽浄土となる。…日本人は『神の子』である」というものスゴイ話へと発展してしまう。

当然、それに対しては非現実的という反論が予想されるが、それは「日本という浄土に生まれながら、不満を抱いている人間」が傲慢で自覚が足りないせいであり、「すべての国民が『発願』し、真の臣民となることで、本当の浄土=日本が完成する」。そして「この天皇の『大きいお心』によって世界を包み込み、浄土化」することが「皇国日本の使命であ」り、「暁烏は、日中戦争を世界統一の『聖戦』と位置づけ」てしまう。

1941年2月に真宗大谷派の重鎮が集まった「真宗教学懇談会」が開催されるのだが、そこでの議論をリードしたのがこの暁烏であり、「仏」を「神」の上位概念とする本地垂迹説は退けられ、神祇不拝は曖昧化されて「戦死者は皆平等に『仏』になり、『神』になる」。また、「日常の世俗レベルで『王法』を受け入れる一方、真理の領域である『仏法』を守ろうとした」真俗二諦論まで否定されてしまい、結局、「時局に追随し、天皇への随順」を説く「時代相応の教学」が了承されることになる。

さて、ここまでで本文287ページ中272ページが費やされてしまっており、ようやく冒頭の問いに対する回答が示されるのが終章「国体と他力―なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」。ここで著者は「水戸学」とともに明治維新の思想的バックボーンとなった本居宣長の「国学」に注目している。

宗教学者の阿満利麿によると、「宣長は仏教を否定したにもかかわらず、浄土宗からの決定的な影響下にある」らしいのだが、そんな彼が一貫して排除しようとした「漢意」とは「より厳密には人間の賢しらな計らい全般を指す」ものであり、「法然親鸞における『自力』に他ならない」。「一方、日本古来の『やまとこころ』は、一切の私智を超えた存在で、すべては『神の御所為』」、すなわち「『他力』に随順する精神である」。ここでの「法然にとっての念仏は、宣長にあっては、さしずめ和歌である」という阿満の指摘は、とても面白い。

そして、「幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然親鸞浄土教の思想構造を継承していると言える。…ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する」というのが、著者の用意した回答であり、「浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して常に繊細な注意を払わなければならない」と呼びかけている。

以上、なかなか興味深い内容ではあるが、全体的なバランスからすると第1章から第4章までにウエイトを置き過ぎたようであり、肝心の結論が阿満利麿や橋川文三らの学説の紹介だけに終始しているような印象を受けるところがちょっと不満かな。“思想構造”に着目した分析はやや形式的であり、もう少し親鸞の思想の中身にまで立ち入って、蓑田らの“エセ親鸞論”が本家とは(本質的に?)相容れないものであることを示して欲しかった。

また、序章の「保守思想では、人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、人智を超えた伝統や慣習、良識などに依拠すべきことが説かれる。…左翼的啓蒙思想は、設計主義的合理主義によって成り立っており、そこには『理性への過信』が含まれる」という文章が強く印象に残っているのだが、このへんのところを詳しく解説した著者の作品は別に存在するのだろうか。

ということで、エセ親鸞論に共通する手口の一つに“歴史の無視・軽視”があるのだが、これは現代の歴史修正主義者たちにも見られる困った悪癖。本作中でも、河野法雲なる人物が「平田(篤胤)のいふ古神道は如何なるものか。神ながらの内容は空虚である。…日本精神は外来思想(=仏教等)を摂取してゐる」という歴史を主張しているのだが、暁烏は決してそれを真面目に取り上げようとしないんですよね。