昭和史発掘6

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

この巻に収められているのは、昭和8年から10年の間に起きた出来事をテーマにした「京都大学の墓碑銘」、「天皇機関説」、「陸軍士官学校事件」の3編であり、いずれも全集には未収録。最初の「京都大学の墓碑銘」では、黒澤明の「わが青春に悔なし(1946年)」のモデルにもなった“滝川事件”が取り上げられている。

おそらく自身の最終学歴が“尋常高等小学校卒”だったことも少なからず影響しているのだろうが、著者の“大学の自治”に対する見解はかなり冷淡なものであり、「明治19年帝国大学が出来て以来、どこの官立大学に真の意味の自主独立があったであろうか」というのがこの問題に対する基本的なスタンス。

そして「それをいかにも学問の自由、自治の独立があるように幻影を描いた」ところに大学教授たちの悲劇の原因があるとしながらも、同時に「そのせまい自治権の中でどれだけの自由を獲得するかが大学側の努力であった」と評価しており、その努力の証として岡田事件、沢柳事件、森戸事件に次いで昭和8年に起った滝川事件の内容の検討を行う。

事件の争点は、トルストイ→客観主義刑法論→内乱罪・姦通罪といった具合に二転、三転しており、正直、「帝大の赤化教授」を排除するための言いがかりとしか思えないのだが、結局、「京大法学部は文部省と『負け戦』覚悟で闘い、玉砕」してしまい、事件は滝川を含む「京大7教授の免官」をもって幕を閉じることになる。

著者は、その敗因を「大きくは『時勢』であろう」と分析し、当時の岩波書店主である岩波茂雄の新聞投書を詳しく紹介しているのだが、そこでの「今日の社会の通弊とするところは、正邪善悪の判明せざるということよりも、判明しながらこれによって去就を決せず、長きものには巻かれよという態度をとることである」という指摘は、(残念ながら)最近の森友・加計問題にも通じる内容だと思う。

続く「天皇機関説」で取り上げられている美濃部博士の事件も、滝川事件と「同じように学説問題を起点」としているが、「『天皇機関説』は日本の方向そのものを大きく決定した。この問題を契機にファッショ勢力は全面的な攻勢に移り、日本は急速に戦争へと傾斜してゆく」とされる。

実は、この天皇機関説は明治の終わりから大正の初めにかけて法学界でも一度論争になっているのだが、このときの反対派である「上杉は美濃部の学問に、尊王精神で道徳的な攻撃を加えた」に過ぎず、「これでは論争の歯がかみあうはずはない」というのが著者の見解。このときは、一般的にも(一部の支配階級や官僚派を除き)美濃部の完勝と思われていたらしい。

しかし、「美濃部が昭和10年天皇機関説問題で弾圧されるまでには、それだけの要因がいくつか積み重なり、数々の伏線となっていた」訳であり、その中心になったのがロンドン条約問題等で彼のリベラルな発言に煮え湯を飲まされてきた軍部や右翼団体。これに岡田内閣打倒を狙っていた政友会が同調してしまった(=「愚かなる政友会、ただ眼先の獲物を追うて断崖に足をすべらせ政党政治を自滅させるのだ」)ものだから、論争は一気に政治問題化してしまう。

まあ、反対派の主張は“天皇は即ち国家であり、何だって出来るんだ!”という程度の粗雑な内容であり、これに対する美濃部の“天皇は決して我がままな暴君ではない”という反論はなかなか巧妙。さらには昭和天皇自身も美濃部を支持していたらしいのだが、結局、軍部を主体とする国体明徴運動(=単純で分りやすいのが一番!)の前に(知的な理解力を要する)天皇機関説は敗れ去ってしまう。

最後の「陸軍士官学校事件」では、軍内部における「統制派対皇道派」の過激な抗争の様子が描かれており、何度目かの軍事クーデター未遂事件(=統制派によるでっち上げとも言われるが、「全然見当はずれの捏造ということにもならない」。)を機に、統制派内のキレ者であった永田軍務局長が皇道派青年将校たちを厳罰に処したところでひとまず終了。

ということで、「士官学校事件は、ある意味で二・二六事件の出発点であった」というのが6巻最後の文章であり、次巻からはいよいよ本命の二・二六事件が取り上げられることになる。正直、そろそろ他の本を読んでみたいという気持もあるが、とりあえず記憶が確かなうちに「昭和史発掘」を読破してしまうつもりです。