昭和史発掘9

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

この巻に収められているのは、二・二六事件の首謀者の一人でありながら最後まで決行に逡巡し続けた安藤輝三大尉の心境等に迫る「安藤大尉と山口大尉」と、いよいよ決行を明朝に控えた各実行部隊における「凄愴な『秒読み』状況」を詳細に記述した「2月25日夜」の2編。

二・二六事件には当初から総指揮官は存在しなかったが、主だった参加者の「ほとんどが、安藤、栗原、磯部、村中4人の集団指導を認めている」。中でも著者は安藤大尉のことを「彼は決行将校中、もっとも思慮のある将校といってよかろう」と高く評価しており、それは彼が最後の最後まで決行に慎重な態度を見せていたからであろう。

彼を躊躇させた理由の一つは、「昭和維新」を成功させるのに必要な「この行動を承認する国民全体の支持」が得られるのにはまだ「時期尚早」と冷静に判断していたからであり、やはり有能ではあるものの「はじめから元老、重臣は国民の敵だ」と思い込み、「この主観を客観情勢と混同させ」てしまった磯部浅一とは大違い。

もう一つは極めて興味深い理由であり、それは襲撃に兵力を利用することが「統帥権の干犯」に当たるのではないかという疑問。結局、「独断専行」論や「同志集団の決行であって、軍隊としての行動ではない。だから統帥権には関係がない」といった理屈を付けてこの問題をクリアしようとするのだが、下士官や兵を同志というのは困難というのが著者の判断。

具体的な例は次章で山のように出てくるのだが、下士官の中で「昭和維新」に積極的に賛同していたのはごく限られた者だけであり、兵士にいたっては「命令」によって連れ出された者がほとんど。「まして、その行動が軍隊組織そのものであり、使用する武器が軍隊の兵器であれば、統帥権干犯に言い遁れようはない」という著者の評価はもっともな話である。

そんな訳で、安藤大尉は2月19日の会合でも明確に「時期尚早」論を主張しているのだが、「連日悩みぬいた安藤は、最後の一晩返事を留保したのちに、22日の朝早く、磯部に決行参加をはじめて表明」してしまう。これに対する著者の感想は「安藤は、いま武力行使に出ても成功と失敗は四分六分だと見たと思う。…それを敢えて承諾したのは、やはり、栗原や磯部らの尖鋭分子にひきずられたのだ」というもの。

結局、「襲撃の目標、決行の日時、兵力部隊等が決定された」のは2月22日夜になってからであり、その後、決行日が25日から26日に変更されたため、「24日夜の歩一週番司令室での最終共同謀議によって決行計画は具体的に完成した」らしい。正直、こんな急拵えのクーデター計画が実現してしまうのだから、軍隊というのは誠に恐ろしいところである。

さて、次の「2月25日夜」では、いよいよ決行を明朝に控えた歩兵第1・第3連隊、豊橋指導学校、近衛歩兵第三聯隊等における緊迫した様子が描かれているのだが、当日の週番司令を首謀者の一人である安藤大尉が務めていた歩三と、「精神的には同志だが、形式の上では…同志ではない」という山口一太郎大尉が務めていた歩一とでは、準備の進め方に大きな差があるところが面白い。

前章での説明によると、「多少の幅を残して一言でいうと、山口は早くから国家革新思想をもっていたが、決行将校と違う点は、その実現をどこまでも『合法的手段』に拠ろうとしていたところ」だそうであり、山口大尉の当夜の対応も基本的に“見て見ないふり”。首謀者の一人である栗原中尉は、部下に対してギリギリまで決行の情報を秘匿したり、拳銃を突きつけて弾薬庫の鍵を開けさせたりする等、姑息な手段を駆使して準備を進めたらしい。

これに対して、決行を決意した安藤大尉の行動は堂々たるものであり、「六中隊では午後8時の点呼が終った30分後くらいに週番司令の安藤大尉が中隊長室に下士官集合を命じ」て昭和維新の断行を伝達。その後、「『週番司令の命令』で第一中隊の週番士官が堂々と弾薬庫を開かせ、機関銃隊からは機関銃隊下士官兵160名を入手」することが出来た。

一方、もっとも意思の統一が図られていなかったのが豊橋指導学校の対馬竹島両中尉を中心とする西園寺襲撃組であり、25日になって板垣徹中尉が兵力使用に強硬に反対したために急遽計画を断念。彼が反対したのは「兵力使用は大権の冒涜」だからとのことであり、統帥権干犯問題を真剣に考えていた青年将校は決して例外的な存在ではなかったらしい。

ということで、「上官の命はそのことの如何を問わず服従すべきものぞ」という軍隊教育の成果は恐ろしく、ほとんど何も知らされないまま「兵士の大多数は『同志』としてではなく『上官の命令に服従』する一兵卒として出動」することになってしまう。9条改憲を主張するのなら、当然、このように軍事力の鉾先が国内に向う場合のリスクも考慮して欲しいと思います。