昭和天皇

先日読んだ「大正天皇」と同じ原武史による昭和天皇論。

本書の目的は、新嘗祭に代表される宮中祭祀への“こだわり”を通して「裕仁昭和天皇という人物を読み解」こうするものであり、そのこだわりに関する貞明皇后の影響やライフワークでもある生物学研究との関係、また、敗戦によって皇室祭祀令が廃止された後も“天皇家の私事”としてそれにこだわり続けた理由等を明らかにしようとする。

さて、本書では地方視察や御用邸訪問といった国民にとって“可視の天皇”を「お濠の外側」、宮中祭祀や内奏に対する下問といった国民にとって“不可視の天皇”を「お濠の内側」と表現しているのだが、皇太子時代に訪れた英国王室の影響等もあり、若き日の昭和天皇は「お濠の内側」で行われる宮中祭祀よりも「お濠の外側」での「大規模な儀礼」に対する関心の方が強かったらしい。

大正天皇」でも一部触れられていたが、「新しい下からのナショナリズム、いわゆる超国家主義」の原点になった「親閲式や奉迎会に臨み、万単位の『臣民』とともに『君民一体』の『国体』を視覚化する摂政時代の行啓のスタイル」は、天皇即位後も日中戦争が勃発する前年まで続けられたそうであり、「いわゆる戦後巡幸の原型が、このときすでに確立されていた」。

そんな昭和天皇に対して批判的だったのが、「大正天皇とともに祭祀を軽んじ、『神』をないがしろにしてきたことに伴う自らの苦悩から解放されたかったのではなかろうか」と著者が推測する貞明皇后(=後の皇太后)であり、「『形式』だけにとどまる天皇の祭祀に対する態度を批判し、『真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ』」と度々苦言を呈していたらしい。

また、摂政時代から興味を持つようになった生物学研究も「新嘗祭に生物学研究と祭祀の接点を見いだす」ことによって祭祀に対する考えを変えるきっかけになり、昭和天皇は次第に宮中祭祀に熱心に取り組むようになるのだが、やはり大きかったのは日中戦争や太平洋戦争の影響であり、「天皇の祈りを本物にしたのは、戦争であった」。

天皇日中戦争でも、必ずしも米英との衝突を恐れて戦争の早期終結を主張していたわけではなく、…その前に中国軍を叩くことが必要という認識を抱いていた」そうであり、太平洋戦争が勃発した翌年2月18日には「戦勝第一次祝賀式に際して、再び正門鉄橋に白馬に乗って現れ、宮城前広場を埋めつくした十数万の人々の歓呼に応えた」。しかし、一方では靖国神社参拝を頻繁に繰り返すようになり、ミッドウェー海戦後の1942年12月2日には「天皇はひそかに、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝をした」とのこと。

まあ、そのこと自体は理解できるものの、問題はその祈りの内容であり、「おそらく天皇は、『皇祖神』や『英霊』、あるいは皇太后に対しては責任意識をもっていたであろう。それに比べれば、国民に対する責任意識は希薄であったように思われる。ましてや、侵略された地域の住民に対する意識があったかどうかは、はなはだ疑わしい」というのが著者の推測。

結局、沖縄本土への米軍上陸が始まっても戦争継続の意思を持ち続けた天皇も、二日間にわたる「輾転反側する想いで悩んだ」末に方針を転換し、「直ちに戦争終結工作に着手すべきだとの意思表示を行」うに至るのだが、その「究極の目的は、『三種の神器』の確保にあった。…天皇がこだわった『国体』の護持というのは、『万世一系』の皇室を自分の代で終わりにしてはならないということであり、国民の生命を救うのは二の次であった」というのが何とも情けない。

ちなみに、昭和天皇がそれほど三種の神器にこだわりを見せるのは、南朝正統論が確立した1911年以降、「北朝の血統を継いでいた…天皇家は血統に代わる正統性の根拠を見いださなければならなくな」り、そこで目を付けられた「『三種の神器』は『万世一系の皇統』を担保する神聖なものとなった」からにほかならない。

さて、そんな「お濠の内側」の事情にもかかわらず、敗戦後の「12月9日の『読売報知』に発表された世論調査によれば、95%が天皇制支持であり、反対はわずかに5%にすぎなかった」そうであり、「天皇は46年に1都8県、47年に1府22県を訪問したが、各地で熱狂的な歓迎を受けた。…十万を超える人々が、君が代や万歳を媒介に天皇と一つになる『君民一体』が、各地で再開され」ることになった。

さらには革命を恐れるマッカサーや吉田茂の思惑も加わって、結局、昭和天皇は退位も国民への謝罪もせずに天皇の地位に居座り続けることになるのだが、自らの戦勝祈願を叶えてくれなかった伊勢神宮に対しても「神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」という理屈を付けて、怒るどころか祈願したこと自体を反省してしまう。

著者によれば、「46年1月1日に発表された『新日本建設ニ関スル詔書』は、天皇の『人間宣言』といわれることが多い」が、そこで架空のこととされたのは「天皇を現御神とする事」だけだそうであり、「天皇は決して、自らを『神』の子孫とみなすことを否定したわけではなかった」という記述には吃驚仰天。「なぜならそれを否定すれば、宮中祭祀の根幹が崩れてしまうから」とのことだが、確かに天照大神を自分の祖先と信じているなら、それを否定することは不可能だろう。

こうして敗戦後も「宮中祭祀は、法令に規定されない天皇家の私事として継続」されることになり、もう一つの「お濠の内側」の代表的な行為である「首相や閣僚が内奏し、天皇が下問する慣習はその後もずっと続くことになる」。結局、「天皇は、日本国憲法に規定された象徴としての制約を軽々と乗り越えた」というのが、著者による昭和天皇論の一つの結論になる。

さらに昭和天皇の後を継いだ現上皇について、「現天皇は、『お濠の外側』では護憲を公然と唱えながら、『お濠の内側』では現皇后とともに、宮中祭祀に熱心である。…そして過去の戦争や植民地支配に対しても、昭和天皇よりも踏み込んだ言葉を口にするようになっている」と評しており、それに続く「昭和はまだ終っていないのである」という文章で本書は幕を閉じる。

この他に興味深かったのは次の2点であり、一つ目は「天皇自身も実は皇祖神にたいしては『まつる』という奉仕=献上関係に立つので、上から下まで『政事』が同方向的に上昇する型を示し、絶対的始点(最高統治者)としての『主(ヘル)』は厳密にいえば存在の余地はありません」という本書で引用されている丸山眞男の指摘。

以前、堀田善衛の「方丈記私記」で、東京大空襲で焼け出された人々がピカピカの車に乗って視察に来た昭和天皇に土下座してお詫びをするというエピソードを読んだことがあるが、実は、その天皇自身も皇祖皇宗に対してお詫びをしていた訳であり、う~ん、これって究極の無責任体質なんじゃなかろうか。

二つ目は、「頭のさがる、人間わざとは思われないようなふるまい」と表現されている祭祀の実態。それを見学したことのある三島由紀夫は「神権政治と王権政治が一つのものになっているという形態を守るには、現代社会で一番人よりつらいことをしなければならない」と言っていたらしいのだが、実際、御簾の向こう側ではどのような行為が行われているのであろうか。

ということで、本書で紹介されている昭和天皇の言動に関し、正直、人間として尊敬できるようなエピソードは皆無なのだが、それは資質によらず、血統だけによって皇位継承が決定されるという現行天皇制のいわば宿命。平成末期、一部で現上皇の言動を政治的に評価しようとする動きが見られたが、やはり天皇に対してはいかなる政治的影響力も認めてはならないということを改めて強く思いました。