闇冥

馳星周の選定による山岳ミステリ・アンソロジー

長かった「昭和史発掘」をようやく読了した後なので、何か軽い読み物を欲していたところ、同じ松本清張の短編を含むこのアンソロジーを発見。長引く梅雨空のせいで山歩きもなかなかままならない状況であり、そんなストレスの解消にも役立つことを期待して、早速読んでみることにした。

さて、4つの短編小説が収録されているのだが、その巻頭を飾るのは松本清張の「遭難」。職場の若手2人と鹿島槍ヶ岳を訪れた江田は、悪天候のために道迷いを犯してしまい、同行した岩瀬を遭難死させてしまう。しかし、弟の死を納得できない岩瀬の姉は、江田に対し、従兄の槇田を遭難現場まで案内して欲しいと依頼する、っていう内容。

ネタをばらしてしまうと、この遭難事故は江田によって巧妙に仕組まれた殺人事件であり、ベテラン登山家の槇田によってそのトリックが見破られてしまうのだが、そんな謎解き以上に面白いのが登山そのものの描写。登山口から始まって、沢沿い、樹林帯、稜線と様々に変化するルートを進んでいく様子がテンポよく再現されており、読んでいるだけで(疲労感を含め)本当に山歩きをしているような気分にさせてくれる。

あまりにリアルなので、清張も山歩きが趣味だったのかと思ってネットで調べてみたところ、本作は「山に登る人間には悪人が居ない」という言葉に反発を覚えて書いた作品であり、現地調査に訪れたときには「足弱の点は女なみ」の故、「山の中腹で落伍した」らしい。しかし、それだけの経験でこんな迫真の表現が出来てしまうのだから、一流の作家というのは凄いもんだなあ。

さて、このアンソロジーには「遭難」という名前の作品がもう一つ収められており、「登山そのものの描写」の素晴らしさでは清張作品に勝るとも劣らない。著者は加藤薫という耳慣れない作家だが、調べてみたところ、相当の登山キャリアの持主のようであり、学習院大登山部に所属していたときに遭遇した事故をベースにしてこの作品を書いたらしい。

ストーリーは、冬の北アルプスK峰(=実際の事故が起きた鹿島槍ヶ岳だろう。)を目指した6人の大学生の悲劇を描いており、遭難で4人のメンバーを失ってしまったリーダーの江田は、ようやく雪に埋もれかけたテントの中から新入部員の古浜道子を救出する。しかし、彼女の口から出た最初の言葉は「あなたよ、殺したのは…」というものであり、江田はその言葉を背負ったままその後の人生を送ることになる。

まあ、他の作品に比べると江田の“殺意”はほぼ希薄であり、15年ぶりに再会した古浜はそんな言葉を口にしたことさえすっかり忘れてしまっている。ひょっとすると、リーダーとしての自責の念が生み出した幻想という可能性もあるのだが、選者の馳に言わせると「荒れ狂う大自然の中、卑小な人間が心の奥に抱える深い闇を描いた作品がコンセプトだ」そうであり、まあ、そういう意味でならこの作品も立派な“山岳ミステリ”なんだろう。

ということで、残る新田次郎の「錆びたピッケル」と森村誠一の「垂直の陥穽」も面白かったが、やはり山岳小説としては前述の2編が勝っていると思う。奇しくも、その事件現場になったのは共に鹿島槍ヶ岳であり、う~ん、登山口まで車で片道4時間くらいかかるのが面倒だけど、いつか歩いてみようかなあ。