昭和史発掘13

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の最終巻。

この巻に収められているのは、特設軍法会議が決行将校らに下した判決の内容とそれに基づいて行われた処刑の様子等を描いた「判決」と、「首謀中の中心人物」である磯部浅一の遺した「獄中日記」の内容や北、西田、真崎らに対する判決内容を詳しく解説した「終章」の2編。

最初に「青年将校らによる叛乱事件勃発で公判は無期延期となり、半月以上開廷されなかった」という相沢事件の結末が紹介されているのだが、事件の影響で相沢の「擁護者または同情者が一挙に去って」しまったらしく、5月の死刑判決の後、わずか55日目で上告棄却となり、7月3日にあっさり銃殺されてしまう。

「相沢の死刑執行は、一部で予想された恩赦減刑もなかったので、これによって被告叛乱将校らの運命が一般に予知された」そうであり、その2日後の7月5日に出された判決は「叛乱罪の青年将校15名、民間人2人…都合17名に死刑を言渡」すという極めて厳しい内容。「これほど多数の死刑者が出るとは彼らも予想していなかった」。

これは次の「終章」に書かれているのだが、「五・一五事件の『軽い』量刑」を知っている「彼らは重臣大官を殺害しても、死刑になるとは思っていなかった」らしく、あの「安藤輝三さえ、不起訴になって天長節に出所出来ると楽観し、出所の祝賀会まで夢みて朗らかにしていた」とのこと。著者ではないが、「かれらの甘さは想像以上」と言わざるを得ない。

同じ7月5日には下士官兵に対する判決もあり、「起訴された下士官73名、兵19名」のうち下士官では実刑17名、執行猶予は25名、兵では3名が有罪で全員執行猶予になる。「判決文には明確に書いていないが、兵を無罪にしたことは、軍隊の破壊を防ぐという政治的配慮とは別に、法理論からいっても『緊急避難』(=事件に際して兵に他の行為を期待することができなかった。)の場合が適用されよう」というのが、著者のコメントである。

その後、「叛乱将校班…の香田清貞以下13名と民間側被告渋川善助、水上源一の計15名の死刑執行は11年7月12日」に行われ、結局、「東京軍法会議は、叛乱に参加した実行行為の将校に対しては予審を含めてわずか三ヵ月の間に審理、判決、処刑という性急」なスケジュールで強行されたことになる。

それは「中国の国民政府に『満州国の独立を事実上承認させる』…ための戦争準備」を急ぐ陸軍省の意志を反映したものであり、既に第一師団は予定より2ヵ月遅れの5月8日に満州に渡っている。ちなみに、起訴不起訴を問わず、事件後間もなく免官された決行部隊の下士官たち(=近歩三第七中隊付きの者を除く。)は、その後一兵士として召集され、「多くは満州での交戦とそれにつづく日中戦争、太平洋戦争で戦死している」そうである。

さて、次の「終章」では、北、西田の証人として処刑を延期された村中、磯部の両名のうち、「獄中日記」の「いたるところに天皇に対する『直諫』」を綴ったという磯部の思想について再び取り上げているのだが、最期まで「理に於ては充分に余が勝つた」と信じていた彼の弱点は「天皇個人と天皇体制とを混同して考えている」ところ。

要するに、貧農の出身であるという彼は、「天皇を体制から切りはなして、古代天皇的な神権をもつ個人の幻影を見てい」ただけであり、「体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない」という著者の批判は、現在の天皇制を考える上でも十分参考になると思う。

そんな磯部は、「同志を『裏切った』真崎甚三郎大将に対して…反感と憎悪を抱いてい」た一方、「北一輝西田税を事件のまき添えにしたこと」をとても悔やんでいたらしいのだが、「昭和12年8月14日、北一輝(本名輝次郎)、西田税、亀川哲也の3人に対する判決が下」り、「北と西田は死刑、亀川は無期禁固となった」。

「北は、自分の犯罪が幇助(従犯)以上に出ないと思っていた」そうであり、裁判長を務めた吉田悳少将も、当時、「今事変の最大の責任者は軍自体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、国民として断じて許し難きところ」と考えていたらしいのだが、結局、陸軍省の意志を覆すことは出来ず、「磯部、村中、北、西田は12年8月19日正午前までに死刑を執行され」てしまう。

これに対し、同年9月25日に出された真崎甚三郎被告に対する判決では、「ことごとく真崎被告の行動を犯罪事実と認定し」ているにもかかわらず、「然るにこれが叛乱軍を利せむとするの意志より出でたる行為なりと認定すべき証憑十分ならず」という理由で一転無罪になってしまう。

これに関して著者は、「なんといっても真崎が決定的な言質(青年将校らとの共同謀議、指示や指令など)を彼らに与えていないのが決め手を欠くことになった」と述べているが、それに加えて皇道派の実力を継承した平沼騏一郎一派が近衛内閣に圧力をかけた結果だろうと推理している。

さて、「この真崎判決文こそは、法的な上でも実際の上でも、『二・二六事件終結』を意味する」のだが、ここまで「この叙述に当たっては、わたしは自分の意見はあまり挿入していない」ように心掛けてきたという著者は、最後のところで「叛乱青年将校らの蹶起がなぜ失敗したか」という問題に関する私見を述べている。

その戦略面における敗因は「決行部隊に最高指揮官が存在しなかった弱さ」であり、やはり「中橋がとった宮城占拠の不徹底さ」を盛んに悔いている。また、「国民の支持をまったく得られなかった」ことも決定的な要因の一つであり、著者はその理由を「決行将校の社会情勢に対する認識不足と、独善的な思い上がり」に求めている。

しかし、個人的に一番興味を惹かれたのはやはり天皇制との関係であり、青年将校らが「政治体制の改革を具体的に要求すること」が出来なかったのは、それが「天皇の統治親裁の大権を侵犯する」恐れがあると考えたからだという指摘は、致命的ともいえる彼らの限界を如実に物語っている。

そんな彼らは「ただ天皇個人の『聖断』にのみ頼り、その『聖断』を動かすことの出来るシンパサイザーの将軍にのみ頼」るしかなかった訳だが、「天皇個人の古代神権の絶対性が発揮される」のはそれが「国家体制に利益する場合のみ」であり、「もしそれに反した場合は天皇制のもとにそれは封じ込められ」てしまう。

著者自身も「かれらの最大の挫折の原因は天皇の激怒にある」と書いているにもかかわらず、天皇は、その怒りの鉾先が向けられた一人である「『真崎無罪』判決文に対し一言の不満も洩らせずに謄写を手もとに保存する」しかなかった訳であり、う~ん、仮に中橋中尉による宮城占拠が成功していた場合、事件はどんな方向に進んで行ったのであろうか。

ということで、長かった「昭和史発掘」も遂に本巻で終了。最後の「二・二六事件」の印象が強すぎるものの、それがごく限られた少人数のメンバーによって計画されたこと、戦争回避の観点からすると蹶起側にも鎮圧側にも「正義」は存在しないこと、天皇制は常に強い者の味方であること等々を理解できたのは有意義なことであり、天皇制に関してはもう少し勉強を続けてみようと思います。