昭和史発掘11

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

この巻に収められているのは、戦勝気分に酔う決行部隊とその「討伐」を決定した参謀本部の動きを対照的に記述した「占拠と戒厳令」、形勢逆転を知らされて動揺する青年将校の姿とそれに一喜一憂する老将たちの醜悪さを描いた「奉勅命令」、そして圧倒的な包囲軍の兵力の前になすすべもなく降参するしかなかった決行部隊の末路を記録する「崩壊」の3編。

さて、事件2日目である27日の午前3時には戒厳令が布告されているのだが、「この戒厳令を…自分の望んでいた『天皇の大号令』的なものに解釈」していた青年将校たちは「27日朝から夕方まで…すっかり『戦勝気分』」であり、「26日夕方からは『尊皇義軍』と自称を統一していた」らしい。

あの「桜会」の首謀者である橋本欣五郎大佐の「天皇に大権を仰いで維新を断行する。蹶起部隊は原隊に撤退する」という和解案を一蹴した彼らは、北一輝の「国家人なし、勇将真崎あり」との霊旨を受けて事態の収拾を真崎将軍に依頼するのだが、いち早く「宮中の形勢不利」に気付いていた彼はこれを拒否してしまう。「この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」訳であり、「この時点で真崎を未だ信頼していた決行将校は気の毒である」というのが著者の感想。

これに対し、石原莞爾大佐の率いる参謀本部は、「徹底的に始末せよ」との天皇の強硬意志を受けていち早く「決行部隊に対する武装解除または武力討伐」を内容とする方針を決定。27日午前8時52分には香椎戒厳司令官に対して討伐の奉勅命令が出されるが、「東京の近接師団を動員して討伐準備が完成するには翌日午前5時までかかる」ため、「あれは『内示』だといい、本モノは28日午前5時に出るはずだ」ということになる。

さて、28日になってようやく奉勅命令下達の情報を入手した決行部隊には動揺が走るが、決行部隊の形式上の上官である歩一聯隊長の小藤大佐は、石原の「奉勅命令は下った、降参か殲滅か、この旨を帰って伝えよ」という「言葉をそのまま伝えると決行幹部を昂奮させ、どんな騒動にもなりかねないので、ここは知らぬ顔をしてすませ」ようと考えたため、詳細は不明のまんま。しかし、首謀者の一人である磯部は「一夜の内に逆転して維新軍に不利になってゐる事」に気付く。

続く「奉勅命令」では、まず、28日午前10時頃に行われた「香椎、荒木、林の会見」の様子が記されており、討伐回避を懇願する荒木大将らをさっさと追い出してしまった石原大佐は、それまで決行部隊を支持していた香椎戒厳司令官から「決心変更、討伐を断行せん」との言葉を引き出すことに成功する。

しかし、討伐の主力である堀丈夫第一師団長は決行将校に対して最後まで同情的であり、「現態勢においては攻撃不可能なり」と主張。結局、次章に記されているとおり「戦闘地域内の住民を速かに避難せしむるの困難なるを理由として、…攻撃実行を、29日払暁に延期するの已むなき」ことになってしまう。

一方、追い詰められた青年将校は、一時、栗原中尉の提案に従って自決を決意し、その報告を受けた香椎戒厳司令官は武力鎮定を回避できると「雀躍」するのだが、「磯部の翻意、安藤の反対で中止となり、一転して包囲軍と決戦することに一変」。ちなみに、自決の話を聞いた天皇は「自殺するなら勝手にやれ」と言い捨てたらしい。

「28日夕刻は、決行側に急激な崩壊がはじまったとき」であり、「このように包囲され、明朝5時の攻撃態勢が見えてくると、決行部隊も悲壮な空気が満ち」てくる。北一輝が「憲兵によって自宅から拘引された」のもこの頃であるが、彼が決行将校らの庇護を願ったのは統制派に憎まれている我が身の保身からだと推理する著者の評価は冷淡であり、「54歳の北はすでに直接的な国内革命運動の情熱を失っていた」。

さて、そんな決行部隊の最後の姿を描いているのが次の「崩壊」であり、「軍中央部は『皇軍相撃』までは決断しないだろう、出来るわけがない」との確信が崩れた決行幹部は、約2万4千人の包囲軍の前になすすべもなく立ちすくむ。「入隊後わずか50日足らず、軍隊のことは、まだ西も東も分らない」初年兵たちも、「ただ、絶対服従だけはきびしく教えられていた」ために自らの判断で投降することは出来ない。

それに気付いた戒厳司令部が29日早朝から開始した作戦は、決行将校を黙殺し、直接「決行部隊の下士官兵に向けビラの撒布とラジオ放送をする」こと。「戒厳司令官の名を以て奉勅命令の下令せられたることを明示し、下士官兵に帰営を促し」たところこれが奏功し、「包囲軍の重圧を前にして動揺していた兵」たちは完全に「崩壊」してしまう。

これに最後まで抵抗したのは「決行には最後まで反対したが、ひとたび参加するや、だれよりも闘志をもった」という安藤大尉率いる第六中隊だが、結局、安藤の自決(=未遂)をきっかけにして帰営勧告に応じることになる。こうして「決行部隊の下士官兵の原隊収容は、29日午後2時ごろほぼ終了した」。

一方、残された青年将校たちには「午後3時40分、戒厳司令部から憲兵司令官に対し逮捕命令」が出されるが、「軍首脳部でも『全員自決』を必然的なものと予定し…30余の『棺桶』も準備された」らしい。しかし、「この見えすいた自決強要に将校たちは反撥し、自決をとりやめ、公判闘争にきりかえた」ため、実際に自決したのは井出宣時大佐の説得に応じた野中四郎大尉(=「たまたま野中が上級の先任者であり、年長者でもあるところから蹶起趣意書に代表格で名を書いた」とされる人物)だけだった。

「こうしていよいよ事件は第一師団軍法会議予審官…に送致されることになり」、決行幹部らは「すでに準備されてあった軍用トラックに身柄を載せられて代々木陸軍刑務所に送り出されること」になる。「ただし、官邸の中に押しこめられていたとき、彼らの間に二、三の打合せがあって、その一つに『宮城占拠にはふれない』ことを申合せた」らしい。

ということで、軍事クーデターは本巻までで無事鎮圧されるのだが、その原動力になったのは「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、此ガ鎮定ニ当ラン」という天皇の激しい怒り。それは青年将校らの唱える「昭和維新」が天皇制崩壊に繋がりかねないことへの恐怖に由来するのかもしれないが、この怒りが1年後の盧溝橋事件のときにも発揮されていたら、日中戦争を未然に防ぐことが出来ていたのかもしれません。