昭和史発掘7

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

いよいよここから「二・二六事件」が主題として取り上げられているのだが、この7巻に収められているのは昭和10年8月12日に起った「相沢事件」と、その後の経緯等を取りまとめた「軍閥の暗闘」の2編。二・二六事件が起きた昭和11年2月26日にたどりつくには、いましばらくの我慢が必要らしい。

さて、相沢事件というのは、前巻で取り上げられていた陸軍士官学校事件において「村中・磯部らが停職処分を受け、ついで免官になったのを永田局長の策謀だと信じ、永田に対して怒りをもっていた」とされる相沢三郎中佐が、その永田鉄山軍務局長を陸軍省内で白昼斬殺した事件のこと。

この相沢中佐なる人物、「同期の者がすでに大佐に昇進したときようやく昭和8年に中佐となったのだから、進級は遅いほう」であり、かつ、「陸軍省の要注意人物だったと同時に、ある種の『危険人物』として部内に知れわたっていた」らしい。そんな人物が、軍刀をぶらさげたまま「白昼堂々と陸軍省に乗込んで直属上官を斬殺」してしまったのだから、この事件を知らされた「国民は軍の内紛と下克上とをあますことなく見せられ、軍紀のルーズさに呆れた」というのも当然のことだろう。

一方の永田少将は統制派の中心人物だったエリート中のエリートであり、そんな乱れた陸軍を内部から“粛軍”するためには「中央から皇道派の根を枯らす」しかないと考えて、当時、(少々頼りない)林銑十郎陸相に協力して真崎甚三郎教育総監の罷免(=ただし、「真崎総監の罷免…の張本人は、おそらく閑院宮参謀総長であろう」というのが著者の推理)等に取り組んでいた。

もし、彼が生き長らえて「中央部の皇道派は地方に散らしてしま」い、「青年将校も地方に分散させ、観察を厳にする」ことに成功していれば、ひょっとすると二・二六事件は未然に防げたかもしれないのだが、「戦争のための『統制経済』」を志していた彼と皇道派との「理念の違いはそれほど大きくはない。巨視的にみれば、侵略戦争を企てている点で両派は全く同じである」というのが著者の評価であり、まあ、いずれにしても満州事変へと突入していく我が国の運命を変えることは出来なかったのだろう。

さて、「相沢事件から二・二六事件まではわずか満6ヵ月の時日しかない」のだが、著者によればこの「6ヵ月間は重要」で、「この間の事情を十分に見ておかないと、二・二六事件の本質を誤る」おそれがあるそうであり、そこでのドタバタぶりを詳細に取り上げているのが次の「軍閥の暗闘」。

一般的には、「47歳の相沢が永田を敢然として斬ったことに激しい感動をおぼえた」皇道派青年将校たちが、「第一師団の満州移住」(=「『危険分子』の巣窟の観のあった歩一と歩三とを、その師団ごとそっくり満州に遠ざけようという」のがその目的!)が昭和11年5月頃に予定されていることを知らされ、「この時間的な切迫が二・二六事件発生の心理的な引き金となった」と考えられているのだが、実際にはそれだけでなく、「大小さまざまな要因がからみあい、それが相互に作用しあって発生」したというのが著者の考え。

例えば、「相沢事件をめぐって多くの怪文書が出され…これら怪文書青年将校の統制派に対する激昂を一層煽り立てた」そうであり、一方、頼みの綱の永田を失ってしまった林陸相の迷走によって「粛軍の企図も根本から挫折」してしまう。しかも、彼の後任になった川島義之陸相は「林に輪をかけた優柔不断で、グズであった」。

また、6巻で取り上げられた天皇機関説問題が紛糾していたのもこの頃のことであるが、「天皇機関説であまりに岡田内閣を追詰めると…そのあとに宇垣内閣出現の可能性があること」を嫌った皇道派の判断で方向転換。「陸軍が天皇機関説の攻撃を中止したのは…とくに青年将校には不可解と同時に不満だったにちがいない」。

そして、最後に指摘されているのが「隊付青年将校と幕僚派将校の階級的、体質的な相違」についてであり、後者の大宗を占める天保銭組(=陸大出身者)に対する無天組の「嫉視、反感は、これまた部外者の想像する以上であった」。「天保銭組は現代社会の腐敗に関心をもっているというが、われら平武士はそれ以上に不合理な天保銭制度にはなはだしく不平をもっている」というのが前者の本音であり、「爾後の青年将校運動は幕僚派を排斥し、尉官級の隊付将校の横断的団結によって行われる」という文章で7巻は幕を閉じる。

ということで、今読んでいる全13巻の単行本版でいうと、二・二六事件だけに7巻分が充てられており、このテーマに関する著者の関心の高さがうかがえる。一般的な歴史書とは異なり、不明なところは著者の“推理”が補ってくれているのでとても読みやすく、まあ、いましばらくは“清張流昭和史”を楽しませて頂こうと思います。