海と毒薬

九州大学生体解剖事件」を題材にした遠藤周作の小説。

この本を読んでみようと思ったのは、先日拝読したリチャード・フラナガンの「奥のほそ道」の中でこの事件が取り上げられていたからなのだが、実際に“生体解剖”が行われたのは敗戦間近の1945年5月のこと。Wikipediaによると犠牲になったのは8人の米軍捕虜であり、東京からの「各軍司令部で処理しろ」という指示を受け、彼らの処遇に困っていた西部軍司令部に対して、九州帝国大学関係者から生体解剖の提案があったらしい。

しかし、夏川草介氏による解説に「作品自体きわめて創作性が高く、フィクションとして構築されている」と指摘されているとおり、本作では大学病院や登場人物の名前は全く別のものと差し替えられており、特に軍司令部側にどのような意図や事情があったのかについてはほとんど何も触れられていない。

おそらく、それは“生体解剖という悪魔の如き所業を容認したのは何故か”という問に対し、“戦争だから”というありきたりな回答が出されることを回避するための工夫だったのだろうが、正直、この事件を戦争と切り離して考えるのは困難であり、夏川氏が言うような「日本人の良心のよりどころ」を問うための思考実験の材料として取り上げるのには不適切な事案だと思う。

誰かが言っていたが、“人間は理性的に戦争が出来るほど進化していない”というのは紛れもない事実であり、それは医師だけでなく、本書の冒頭で「中支に行った頃は面白かったなあ。女でもやり放題だからな。抵抗する奴がいれば樹にくくりつけて突撃の練習さ」と述懐するガソリン・スタンドの主人や南京で憲兵をしていたという洋服屋も同じこと。

しかし、この“人間は理性的に戦争が出来るほど進化していない”というのはむしろ我々にとって幸運なことであり、南京大虐殺731部隊による人体実験等の悲劇を繰り返さないためには、戦争をしなければ良いだけのこと。こう考えれば、これらを無かったことにしようとする歴史修正主義者たちの振舞いが、どれだけ平和にとって危険であるのかが良く理解できると思う。

ということで、本書が発表されたのは俺が生まれた頃であり、今になって考えてみれば、その後、小中学生になるくらいまでの間は“戦後”の殺伐とした雰囲気が残っていたような気がする。そんな空気は70年代に入ると急速に和らいでいくのだが、どうも最近、再びその殺伐とした雰囲気が漂い始めたように感じられるのは、気のせいだけなのでしょうか。