長編小説「審判」のみを収録。
「時間」に次いで読んでみたかったのが、1960年1月から3年余に渡って「世界」に連載されたという本作であり、物語の主な舞台になるのは60年安保闘争に揺れる1959年の東京。しかし、作品の最大のテーマになっているのはその14年前に起った広島・長崎に対する原爆投下であり、その際、爆撃機を誘導する気象偵察機の機長だったポール・リボートなる人物が来日するところから物語は始まる。
「現代おける個人の責任」と題された本書の解説の中で平野謙が言及しているとおり、この米国側の主人公とも言うべき人物には実在のモデルが存在するそうであり、それはWikipediaで「広島・長崎作戦に参加した軍人でほぼただ1人、原爆投下の正当性について疑問視し続け、2つの原爆投下に関わったことに悩んでいた」と紹介されているクロード・イーザリー。(※正しくは、長崎への投下には係わっていない。)
彼は、戦後、長らく精神病院に入院していたそうであり、原爆投下に係わったことに対する責任、後悔といった精神的苦悩を哲学者のギュンター・アンデルスと文通を通して語り合った内容については、「ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙」という書籍にまとめられているらしい。
実際に日本を訪れたことはないようだが、そんな加害者意識を背負った米国人が安保闘争に揺れる東京にやって来たらという本書の思考実験的な試みはとても興味深いところであり、一方、彼を迎え撃つ(?)日本側の主人公は、南京大虐殺に関与してしまったことを忘れられずにやはり精神を病んでしまったという無職の中年男の恭助。
こんな二人の出会いは少々出来過ぎの感もあるが、考えてみれば当時は戦争という名の殺人に関与した人々が世界中に溢れていた訳であり、恭助の言葉を借りれば、戦場での忌まわしい記憶を心の中の「暗い大きな倉庫」の中に仕舞い込んだ男たちが普通に社会の中で暮らしていたことになる。
しかし、問題なのはその倉庫の中の“在庫”をどうやって管理しているかという点であり、恭助のように「二六時中戸がひらき放し」の状態で「倉庫のなかの在庫品にかまけて」いる間に「神経症になったりしている」ような人々はごく僅か。ほとんどの人間は倉庫の扉に封をしてしまい、何事もなかったような顔をして日々の暮らしを送っている。
いや、もう一歩話を進めれば、戦場に行かなかった銃後の人々にしても南京陥落のニュースに歓喜の声を上げていた訳であり、決して倉庫の中が空っぽということにはならない筈。それにもかかわらず、“戦争中は酷かった”と言いながらまるで被害者のような顔をしているのが多くの日本人の姿であり、残念ながらその実態は今も変わらない。
そんなところへ「入れる倉庫もないほどに巨大で莫大な在庫をひっかつがされた新しい奴」が現われたのだから、タダで済まないのは当たり前。おそらく、暖かく彼を迎え入れた出教授は、自分等同様、“悪いのはあなただけではない”という理屈でポールの加害者意識を緩和するつもりだったのだろうが、自分を偽ることの出来ない彼にそんなお為ごかしは無力であり、結局、広島市内の橋の上から身を投げてしまう。
物語はここでやや唐突気味に終わってしまう訳だが、この真面目な米国人の責任の取り方を“愚かな行為”と笑って無視してしまうのはやはり大きな誤りであり、正直、今からでもまだ遅くないから、領土、慰安婦、徴用工、米軍基地等々、我が国の戦後処理における不誠実な対応の数々を加害者の立場から真摯に再点検する必要があると思う。
ちなみに、この作品で最も興味深いキャラクターといえば、出教授の母親で御年90歳になるという郁子刀自。明治の自由民権運動の時代からずーっと負け戦を闘い続けてきたという歴戦の闘士であり、おそらくその負け戦は、人々が理想を失わない限り、今後も永遠に続くことになるのだろうが、まあ、挫けそうになったときには「人ちうもんはね、あんまり深追いしたらいかんがやがいね。お慈悲の方が大事ながやがいね」という彼女の言葉を思い出して頑張るしかないのだろう。
ということで、今回、「時間」と「審判」という2作品を読むために手をつけた堀田善衛全集であるが、ちょっと調べてみたらこれら以外にも面白そうな作品がたくさん収録されていそうな予感。サラッと読み飛ばせるような作品ではないためそれなりに時間は掛かりそうだが、そのうちに別の巻も読んでみようと思います。