黒い皮膚・白い仮面

精神科医であり、理論家・革命家としても知られるフランツ・ファノンが1952年に発表した著作。

昨年来のブラック・ライブズ・マター運動の影響もあって読んでみたいと思っていた本の一つなのだが、NHKの「100分de名著」で取り上げられるというニュースを耳にして慌てて市立図書館にリクエスト。幸い、まだ先約はなかったようであり、すんなりと借りることが出来た。

さて、著者自身が「こういう事柄を書くとき、私は、感情の次元で読者をつき動かそうとするのです。…つまり、非合理的に、ほとんど官能的ともいえる仕方で」と言っているとおり、なかなか“わかりやすい”とは言い難い文章であり、抽象的な表現が多いこともあって、正直、いつものやり方で要約するのはちょっと難しそう。

そこで、とりあえず気になったところだけ抜粋してみようと思うのだが、最も興味深かったのは、「殖民地化された民族はすべて―言いかえれば、土着の文化の創造性を葬り去られたために、劣等コンプレックスを植えつけられた民族はすべて―文明を与える国の言語に対し、すなわち本国の文化に対して位置づけられる」という指摘であり、白人社会で暮す黒人は無意識のうちに「黒=醜い、罪、暗黒、不道徳な」という価値観を白人と共有してしまうらしい。

そのため、彼らは「実生活において道徳的な男として振舞えば、私はニグロでなくなる」と考えて必死に努力するのだが、現実的には「本当の白人が私を待ち設けている。最初の出会いから彼は私に言うだろう。志向が白いだけでは足りない、白い全体性を現実化しなければならない、と」という訳で、残念ながら決して報われることはない。

このような心理過程を「なぜなら、あなたがたの心の奥深くに、依存コンプレックスがあるからだ」と説明しようとする学者もいるらしいが、それを著者は「劣等意識化とは、ヨーロッパの優越意識化の土着的相関物である。劣等コンプレックス症を作るのは人種差別主義者であると明言するだけの勇気を持とうではないか」と厳しく批判している。

そして、「彼が、これほどまでに、白人になりたいという欲望に浸されているのは、彼の劣等コンプレックスを可能にする社会、このコンプレックスを維持することから自己の堅固さを引き出している社会、一つの人種の優越性を主張する社会に彼が暮しているからである。…精神分析医として私は、患者が自己の無意識を意識化し、二度と幻覚の乳白化を試みぬよう、そうではなく、まさしく社会構造の変革という方向で行為するように助けなければならない」というのが、本書における結論の一つになっている。

もう一つ興味深かったのは、著者の出身地である仏領マルティニーク島における特殊事情であり、そこに住んでいる「アンティル人はアフリカの黒人に比べて、より『開化』している」と考えているのが一般的で、一方、「ダメオー、あるいはコンゴ生まれで、自分はアンティル人であると称する」アフリカ人も存在するらしい。

しかし、当然、「事実は彼はニグロなのだ。そのことに彼はひとたびヨーロッパに行けば気付くことになるだろう」ということになり、最初はそんな彼らの愚かしさを笑いながら読んでいたのだが、よくよく考えてみれば、「アンティル人は、争うべからざる指揮者として、黒んぼたち全体の上に君臨するのである」という思想は、戦後の我が国における「黄色いバナナ」意識とほとんど同根であり、まあ、我々日本人も決して劣等コンプレックスと無縁ではないのだろう。

そして、ネグリチュードに内在する限界にも気付いてしまった著者の本書における結論は、「人間が人間的世界の理想的存在条件を創造することができるのは、自己回復と自己検討の努力によってである。己の自由の不断の緊張によってである。…私の最後の祈り、おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」というものであり、この問題に安直な解決策は用意されていないようである。

ということで、人種差別の問題だけ取り上げてみても、我が国の人権意識の立ち後れは顕著であり、ブラック・ライブズ・マター運動を対岸の火事と考えている余裕など絶対にない筈。いつまでも「ジャングルの奥の蛮人」気分に浸っていると、そのうち痛い目に遭うことは避けられないでしょう。