21世紀の資本

2013年に公刊され、世界中でベストセラーになった経済学者トマ・ピケティの著書。

名前だけは以前から聞いてはいたのだが、それがドキュメンタリー作品として映画化されたという情報を耳にして吃驚仰天。まあ、上映時間2時間足らずのその映画を見てしまえばピケティの主張の概要が把握できるというのは有り難い話だが、おそらくその後にこの大著を読む気にはなれないだろうということで、急遽、先に読んでみることにした。

さて、最初にネタばらしをしてしまうと、本書のエッセンスは、冒頭の「はじめに」の中の「本研究の主要な結果」、「格差収斂の力、格差拡大の力」そして「格差拡大の根本的な力―r>g」の三つの章に要領よくまとめられており、正直、ここを読むだけで2時間弱の映画を見るよりもお手軽に著者の主張に触れることが出来てしまう。

以下、それを参考にしながら本書の概要を紹介してみると、最初の「第1章 所得と産出」に出てくるのは、著者が「資本主義の第一基本法則」と主張する「α=r×β」という数式であり、αは「国民所得の中で資本からの所得のしめる割合」を、rは「資本収益率」を、βは「資本/所得比率」を表している。

「たとえば、β=600%でr=5%なら、α=r×β=30%」となり、「言い換えると、国富が国民所得6年分で、資本収益率が年5パーセントなら、国民所得における資本のシェアは30パーセントということ」になる。つまり、資本収益率rが一定でも、資本/所得比率βが上昇すれば、国民所得における資本のシェアαは上昇するという訳だ。

この資本/所得比率βの水準を長期的に決定しているのが、「第5章 長期的に見た資本/所得比率」で紹介されている「β=s/g」という数式であり、sは貯蓄率を、gは経済の成長率を表している。「資本主義の第二基本法則ともいえるこの公式は…たくさん蓄えて、ゆっくり成長する国は、長期的には(所得に比べて)莫大なストックを蓄積し、それが社会構造と富の分配に大きな影響を与えるということ」を示している。

このαやβは富の集中=格差の拡大と密接な関係を有しており、ここで過去の資本/所得比率βの状況を振り返ってみると、「19世紀末のヨーロッパにおける民間財産の水準…は、国民所得の6~7年分あたりをうろうろして」おり、これはきわめて高い水準であった。「それが1914~45年期のショックを受けて急落」し、「資本/所得比率は2から3に下がった」ものの、1950年以降回復傾向に転じ、「21世紀初頭には英仏両国で、国民所得5~6年分にもどりそうだ」とされる。

勿論、「1914~45年期のショック」というのは2度の世界大戦のことであり、実際の戦禍による資本の滅失やそれからの復興(=人口増加を含む。)の影響が大きい。しかし、「1950年代の最低水準は、β=s/gの法則で求められる単純な蓄積の論理から予測されるより低かった。20世紀半ばの谷底の低さを理解するためには、第二次世界大戦の影響で、さまざまな理由(地代家賃統制令、金融規制、私有資本主義にとって不利な政治状況)から、不動産と株の価格が過去最低水準に下落した事実を盛り込む必要がある」ことにも留意すべきである。

この影響により、「第二次世界大戦後の数十年では、相続財産がその重要性をほとんど失い、歴史上で恐らく初めて、労働と勤勉がトップに登り詰めるための最も確実なルートとなった」。しかし、「1950年代以降、これらの資産価値は次第に回復へ向かい、1980年以降はその上昇がさらに勢いを増した。私の推計によると、この歴史的なキャッチアップ・プロセスはすでに完了している」そうであり、現在、資本/所得比率は急速な上昇傾向を示している。

すなわち、20世紀半ばまでの資本/所得比率の低下、そしてそれに伴う社会的格差の縮小は「大恐慌第二次世界大戦が引き起こした複数のショックにより生じたものがほとんどであり」、クズネッツ曲線に示されるような「自然または自動的なプロセスによるものはほとんどなかった」。「資本/所得比率βの着実な増加、そして国民所得の資本シェアαの着実な増加を妨げる自己修正的メカニズムは存在しない」というのが本書における重要な結論の一つになる。

一方、そんな例外的な期間を除いて一般的に認められるのは「根本的な不等式r>g」で表される状況であり、それは「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば…富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」という事実。「資本収益率が経済の成長率を大幅に上回ると…論理的にいって相続財産は産出や所得よりも急速に増える。相続財産を持つ人々は、資本からの所得のごく一部を貯蓄するだけで、その資本を経済全体より急速に増やせる。こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富より圧倒的に大きなものとなるし、資本の集積はきわめて高い水準に達する」ことになる。

この「不等式r>g」が成立することについて、著者は「私はこれを論理的必然ではなく、歴史的事実と考えている」と言っており、「r>gという不等式は、第一次世界大戦直前まで、人類の歴史の大半を通じて明らかに事実であり、おそらく21世紀にも再び事実となるだろう」と推測する。

その根拠の一つになるのが、「例外的な時期か、キャッチアップが行われているとき以外には、経済成長というのは常にかなり低かったのだ」という事実であり、著者によると「世界の技術的な最前線にいる国で、1人当たり産出成長率が長期にわたり年率1.5パーセントを上回った国の歴史的事例はひとつもない」らしい。

大陸ヨーロッパ、特にフランスでは1940年代末から1970年代末の30年間は経済成長が異様に高く、今でも「栄光の30年」としてノスタルジーの対象になっているらしいが、「それはごく単純に、1914~1945年の時期にヨーロッパは米国に大きく遅れを取り、栄光の30年でそれに追いついたから」に過ぎない。おそらく我が国の“高度成長期”もこれと同じ例外的な現象だったのだろう。

さて、著者が格差拡大プロセスのもうひとつの原因として指摘しているのが「『スーパー経営者』の出現」であり、「賃金格差が米国とイギリスで急拡大したのは、1970年以降米国とイギリスの企業が、極端に気前のいい報酬パッケージを容認するようになったからだ。…あらゆる兆候から見て、この重役報酬の変化こそが世界中の賃金格差の変遷に重要な役割を果たしてきたのだ」とされる。

一般に、賃金格差の存在は「限界生産性理論や、技術と教育の競合という理論」で説明されることが多いが、「大企業の経営上層部の仕事は再現がむずかしいので、仕事の生産性推計はかなり誤差の大きいものにならざるを得ない」ために、「技能―技術理論の説得力は低下」せざるを得ない。

また、「限界生産性が重役報酬を決定するなら、そのちがいは外部の動向とはほとんど無関係に、『非外部的』な差のみによって、あるいは主にそれによって決まると考えられるはずだ。でも実際に見られるのはその逆だ。役員報酬が最も急上昇するのは、売り上げと利潤が外部要因で増えたときなのだ」という批判も存在するそうであり、そういった現象は「ツキに対する報酬」と呼ばれているらしい。

そんな中で著者が「こちらのほうが私にはもっともらしく思えるし、証拠とも一貫性を持つ」と主張するのが、「トップ経営者たちはおおむね自分の報酬をときには無制限に決める権限を持っており、また多くの場合には自分個人の生産性(どのみち大組織では、これを推計するのはとてもむずかしい)と明確な関連性などまったくなしに報酬を決められるからだ」という説明。

その契機になったのが「1980年以降の英語圏における最高限度所得税率の大幅な引き下げ」であり、かつての「昇級分の80~90パーセントがどのみちまっすぐ政府にいってしまう」という状況から自由になった「最高経営層にとって報酬の大幅な増額を求めるインセンティブは以前よりも強くなってしまった」というのは確かにありそうな話しである。

そして「50歳、あるいは60歳の人が所有する富が相続によるものか、稼いだものかにかかわらず、ある閾値を超えると、資本は自己再生産して指数関数的に蓄積する傾向にあるという事実は変わらない。r>gという論理は、起業家は常に不労所得生活者になりがちだと示唆している」というのが、格差拡大に関する著者の危機感の源泉。なお、この格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは無関係であり、むしろ「資本市場が完全になればなるほど…rがgを上回る可能性も高まる」ことに留意すべきである。

さて、このような格差の拡大に歯止めをかけようというのが「第Ⅳ章 21世紀の資本規制」の検討課題であり、「第14章 累進所得税再考」では「近年の自由な資本フローの世界における税制競争台頭」によって「多くの国で税金は所得階層トップでは逆進的になっている(あるいは間もなくそうなる)。…資本所得は累進課税からほとんど除外されているのだ」という現状が批判的に取り上げられており、その批判のほとんどは我が国の税制にもあてはまりそう。

特に興味深いのは「20世紀の累進課税の歴史を見るとき、イギリスと米国がいかに突出して先んじていたか」という歴史的経緯であり、ルーズベルトによる90パーセントを超える最高税率の引き上げを、著者は、「『過剰な』所得や財産に対する没収的な税を発明した」、「累進課税は、格差削減のかなりリベラルな手法」等と高く評価している。

残念ながら「サッチャー主義とレーガン主義の台頭」により、「1930年代から1970年代までの平等性への大いなる情熱を経験した後で、米国とイギリスは同じくらいの熱意を持って正反対の道へと方向転換」してしまうのだが、前述のとおり、それは「スーパー経営者」を生み出す元凶にもなっている。

それに対する著者の主張は、「最高所得に対して没収的な税率をかけるのは、可能なばかりか目に見える超高給与の増大を阻止する唯一の方法だ」というものであり、「私たちの推計によると、先進国で最適な最高税率はおそらく80パーセント以上だ」と提案している。

また、「そんなことをしたら米国のあらゆる重役たちは即座にカナダやメキシコに逃げだし、経済を運営するだけの能力ややる気を持った人物は誰一人として残らない」というよく耳にする反論に対しては、「歴史的経験にも反しているし、手持ちのあらゆる企業レベルのデータにも反している。また常識的にも馬鹿げた話だ」と一蹴している。

そして、最後に、「民主主義が21世紀のグローバル化金融資本主義に対するコントロールを取り戻すためには、今日の課題に適応した新しい道具を発明しなくてはならない」として著者が提唱するのが「資本に対する世界的な累進課税」であり、「それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせねばならない」と主張する。

保護主義や資本統制とは異なり、「世界的な資本税は、経済の開放性を維持しつつ、世界経済を有効な形で規制し、その便益を各国同士や各国の中で公正に分配できるという長所」があるとされており、その主要な目的は「資本主義を規制すること」。「まず富の格差の果てしない拡大を止め、第二に危機の発生を避けるために金融と銀行のシステムに対して有効な規制をかけること」ができるというのはとても魅力的な制度と言えるだろう。

著者の試算によると、「たとえば100万ユーロ以下の財産には0パーセント、100~500万ユーロなら1パーセント、500万ユーロ以上なら2パーセントという富裕税を考えよう。EU加盟国すべてにこれを適用したら、この税金は人口の2.5パーセントくらいに影響して、ヨーロッパのGDPの2パーセント相当額の税収をもたらす」そうであり、「たとえば富の格差を今日より(そして歴史的に見て成長にとって必要でない水準より)もっと穏やかなところまで引き下げたいなら、大金持ちに対しては10パーセント以上の税率だって考えられる」とのこと。

しかし、「むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度の国際協力と地域的な政治統合を必要とすること」だということは著者も認めているところであり、現状で各国政府が及び腰になっている「銀行データの自動共有をめぐる国際合意の明確化と拡大」を抜きにしては、「世界GDPのおよそ10パーセント」にも相当する富を隠蔽しているというタックス・ヘイブン対策は不可能なことらしい。

したがって、「残念ながらこの問題に対する実際の対応は―これは各種ナショナリズム的な反応も含む―は、実際にははるかに慎ましく効果の薄いものとなるだろう」というのが著者の見通しになっているのだが、いずれにしても格差の解消に関しては累進的な資本税や所得税の導入・強化が有効な手段であることが良く理解できた。

以上が、「はじめに」の内容に沿った本書の概要であるが、勿論、これら以外にも興味深い内容がたくさん含まれており、その一つが著者による新自由主義(=「保守派革命」)批判。19世紀後半には「米国の多くの評論家たちが、自国はますます不平等になって、もともとの建国理念からどんどん離れていると懸念」していたが、さらに1930年代の大恐慌の影響により「多くの人々は私腹を肥やして国を崩壊させた経済金融エリートたちを責めた」そうである。

前述のルーズベルトによる所得税最高税率の「没収的な」引き上げはこのような時代背景の下で行われたものであり、その結果(だけではないのだろうが)、「米国では格差は1950年から1980年の間に最も小さくなった。…これが、ポール・クルーグマンがノスタルジックに『みんなの愛するアメリカ』と呼んでいるもの―かれの子供時代のアメリカだ」というような状況が現出した。

一方、大陸ヨーロッパの「栄光の30年」等の影響により、「1950年から1980年にかけて、英語圏と敗戦国とのギャップは急激に縮まった。1970年代末になると、米国の雑誌はしばしば米国の衰退と日独産業の成功を嘆いた。…この脅かされているという感覚…は『保守派革命』において重要な役割を果たした」そうであり、そんなときに注目を集めたのがフリードマンマネタリズム

大恐慌における「危機は主に金融的なもの」と考える彼にしてみれば、「その解決策も金融的」であるべきであり、「資本主義経済の安定した中断のない成長を確保するためには、物価水準の規則正しい推移を保証しうる適切な金融政策を守ることが必要十分条件なのだ」と主張する一方で、「大量の公共雇用と社会移転プログラムを作り出したニューデールは、お金がかかるだけで役立たずなインチキでしかない」ことにされてしまう。

この主張は、「他国に追いつかれるという感覚」を背景に英米政府に大きな影響を及ぼし、今日の新自由主義の台頭を招いてしまう。しかし、両国の成長率が「再び大陸ヨーロッパや日本と並ぶ水準に戻った」のは単に「栄光の30年」等が終了したからに他ならず、「ざっと言うなら、米国とイギリスの経済自由化政策はこの単純な現実に対してほとんど影響がなかった」というのが著者の評価。後に残ったのは1980年以降の所得格差の急拡大という悲惨な現実だけだった。

また、著者によるマルクス論も興味深い内容であり、それは「実際、マルクスの主要な結論は、『無限蓄積の原理』とでも呼べるものだ。つまり、資本が蓄積してますます少数者の手に集中してしまうという必然的な傾向だ。これがマルクスによる資本主義の破滅的な終末予測の基盤となる」というもの。

ここでいう資本とは機械や工場のような「主に工業用」のものであり、土地不動産とは異なり、「蓄積できる資本の量に原理的には何の制限」もない。そのため無限の蓄積が進み、「資本収益率がだんだん下がってくるか(そうなると蓄積の原動力がなくなり、資本家同士の暴力的な紛争が起る)、国民所得における資本の比率が無限に上昇するか(そうなると遅かれ早かれ労働者たちが団結して反乱を起こす)、いずれにしても、安定した社会経済的、政治的な均衡はあり得ない」ことになる。

このようなマルクスの「暗い予言」が実現しなかったのは、「先人たちと同じく、マルクスもまた持続的な技術進歩と安定的な生産性上昇の可能性を完全に無視していた」からであり、「これはある程度までは、民間資本の蓄積と集積のプロセスに拮抗する力となる」らしい。

しかし、それが永続的なものでないことは明かであり、逆に「低成長だとマルクス主義的な無限蓄積に対して十分に拮抗できなくなる。その結果として生じる均衡は、マルクスが予測したほど暗澹たるものではないにしても、かなり困ったものになるのはたしかだ」という理解は、著者自身による暗い予言を裏付ける内容になっている。

ちなみに、著者は「私有財産市場経済は、自分の労働力しか売るモノがない人々に対する資本の支配を確実にするだけが役割ではなかったということだ。それは何百万もの個人の行動を調整するのに便利な役割を果たすし、それがないとなかなかやっていけないのだ」とも述べており、まあ、当然のことではあるが、決して純粋なマルキストという訳ではなさそうである。

これら以外にも、インフレの話(=効果は絶大だがコントロールが難しく、「慎ましい生活手段しかない人にとって有害となる」)や公的債務の話(=「政府に貸し付けを行うだけの財産持ちの立場からすると、無償で税を納めるよりも、国に貸し付けて数十年にわたって利息を受け取るほうが、当然ながらはるかに有益だ」)等々、有意義な指摘が満載だが、きりがないのでここまでにしておこう。

ということで、「いかに当初の富の格差が正当なものだろうと、そうした財産はあらゆるまともな限界も、社会的効用で見たどんな合理的な正当性も超えて、自律的に増加し、存続してしまうのだ」という危機感が著者の主張の根本であり、それによる格差の拡大を防止するために、まずは(不完全な内容でもかまわないから)税制の累進性を高めるところから取り掛かるべきだと思います。