正義論

ジョン・ロールズが1971年に発表した政治哲学の名著。

この本を購入した経緯は今でもよく覚えており、大学の独占禁止法の講義で一部紹介された内容に興味を抱いたのがそもそもの発端。そのときにはまだ邦訳が出ていなかったのだが、社会人一年生となった1979年にようやく紀伊國屋書店から本書が出版されることになり、喜び勇んで初版本を手にした記憶が残っている。

しかし、問題は、本書の「訳者あとがき」でも触れられている「高度の難渋さ」であり、何度手に取ってみても中途挫折の繰り返し。それでも処分してしまうには惜しい内容なので、ずっと本棚の奥に埋もれさせておいたのだが、今回のコロナ禍の影響で市立図書館が休館になってしまったのを機に何度目かの再挑戦を決意し、2月余の時間をかけてようやく最後まで読み通すことができた。

さて、「序」によると「この本の狙いは、…近代道徳哲学史上概ね主流をなしてきた…功利主義に対抗する、使用に耐え得る体系的な道徳概念をつく」ることであり、そのために著者が採用した作戦は、「ロック、ルソー、カントが提唱した伝統的な社会契約の理論を一般化し、高度に抽象化すること」。

そんな著者の提唱する正義論の「基本的で直観的な考え方」が述べられているのが「第一章 公正としての正義」であり、「社会的協働は、全ての人々に、一人で努力して一人で生活する場合よりもよい生活をもたらすことができる」が、その一方で、「人々は、共同作業によって産み出されるより多くの便益がどのように分配されるかについて、無差別ではいられないから、利害の対立がある」という認識が、本書における議論の出発点になっている。

そのため、「有利性のこの分割を決定するさまざまな社会的取り決めの中から選定を行ない、適正な分配上の取り分についての合意を取り付けるためには、一組の原理が必要とされる。これらの諸原理が、社会正義の諸原理である。…つまり、それらは、社会の基本的諸制度における権利と義務の割り当て方法を提供し、社会的協働の便益と負担の適切な分配を定める」ことになる。

そんな「正義の諸原理」を探るための「純粋に仮説的」な舞台になるのが「原初状態」であり、そこで人々は「誰も社会の中での自分の地位や階級上の地位あるいは社会的身分を知らないばかりでなく、生来の資産や能力、知性、体力その他の分配における自分の運も知らない」という「無知のヴェール」に包まれた状態で、自分にとって最も有利となるルールを選択しなければならない。

そのような状況下では“最大多数の最大幸福”、すなわち「他の人々に享受される有利性の総和がより大きいというただそれだけのために、より少ない人生の見通しを要求することがあるかもしれない原理」(=功利主義の根幹をなす「効用原理」)が選ばれる可能性は「ほとんどありそうもないと思われる」というのが著者の主張であり、その代りに選択されるのが次の「二つのむしろ異なる原理」。

それが「第一の原理は、基本的な権利と義務の割り当ての平等を求め、他方、第二の原理は、社会的、経済的不平等は、例えば、富と権威の不平等は、全ての人、殊に最も不利な立場にある社会構成員の便益を結果として補整するならばその時にのみ、正義に適う」というルールであり、これが著者の主張する「正義の二原理」のプロトタイプになる。

第一章の後半ではそれと古典的功利主義との比較が行われているが、著者は後者を「善は正から独立に定義され、正は善を最大化するものとして定義されるという、目的論的理論」と位置づけており、「功利主義的な正義感の際立った特徴は、…間接的な場合を除き、この満足の総和が、個々人に、どのように分配されるかを問題にしないことである。…功利主義は、個人間の差異を深刻に考えないのである」と述べている。

これに対して著者の主張する「公正としての正義は義務論的理論であって、正から善を独立に定めることも、善を最大化することとして正を解釈することもない。…善に対する正のこの優先性」が「その概念の中心的な特徴であ」り、「正義は、ある人々の自由の喪失が、他の人々によって分かち合われるより多くの善によって正しいとされることを、拒否する」。

次の「第二章 正義の諸原理」では前章での議論がさらに深化されており、「正義の二原理」はここでは次のような形で表現されている。(そのやや難解な最終形については第五章の§46参照)
第一原理:各人は、他の人々の同様な自由の図式と両立する平等な基本的自由の最も広汎な図式に対する平等な権利をもつべきである。
第二原理:社会的、経済的不平等は、それらが、(a)最も不利な立場にある人の期待便益を最大化し、(b)公正な機会の均等という条件の下で、全ての人に開かれている職務や地位に付随する、ように取り決められているべきである。

ここで重要なのは「これらの原理は、逐次的順序で、第二原理に対して第一原理が優先するように取り決められている」ことであり、「この順序づけは、第一原理によって保護される基本的な平等の自由の侵害が、社会的、経済的有利性が大になるからといって、正当化されたり、補償されたりすることはありえないことを意味」している。

また、第二原理の(a)は「格差原理」と呼ばれ、「正義の二原理」のセールスポイントの一つになっているのだが、それが必要とされるのは(b)の「機会の公正な均等という自由主義的原理」だけでは「富と所得の分配が能力と才能の自然の分配によって決定されるのを許して」しまうからに他ならない。

「生来の力量がどの程度まで育成されて実を結ぶかは、あらゆる種類の社会的諸条件や階級の態度に左右される。努力をし、試行し、通常の意味で当然の報いをうけたいという意欲でさえ、それ自身、幸福な家族などの社会的諸環境に依存」している以上、そういった「自然の巡り合せそれ自身の恣意的な影響を緩和する原理」が必要になる訳であり、それが「格差原理」ということになる。

もう一つ、重要な観念が「純粋な手続上の正義」であり、それはケーキの分割(=完全な手続上の正義の例)や刑事裁判(=不完全な手続上の正義の例)の場合のように「どの結果が正義に適うかを決める独立の標準」は存在しないにもかかわらず、「手続が適切に守られてさえいれば、結果がどうであれ、その結果が正しいあるいは公正であるような、正しいあるいは公正な手続き」のことである。

著者はその例として賭事を挙げているが、「正義に適う政治的基本法や経済的、社会的制度に関する正義に適う取り決めを含めた、正義に適う基本構造を背景とした」場合には「純粋な手続上の正義」の観念を分配上の取り分に適用することが可能となり、「環境の際限のない多様性や個個の人々の変化する相対的な地位を辿る」までもなく、その結果を公正なものとして受け入れることができるようになる。

ちなみに、この「正義の二原理」は「自由、平等、博愛という伝統的な観念」に結びつけることも可能であり、「自由を第一原理に対応させ、平等を公正な機会の均等と一緒になった第一原理における平等の観念に対応させ、博愛を格差原理に対応させる」ことによって、「われわれは、二原理の民主的解釈における博愛という概念の位置を見つけ出したことにな」る。

続く「第三章 原初状態」では、様々な正義の概念との比較を通して、原初状態においては著者の「正義の二原理」が選択されるであろうことが改めて主張されており、そこでは「第一段階として、平等な分配を要求する正義の原理を承認することは、賢明なことである」が、「この初期的承認が最終的であるべきいわれはない」と述べている。

すなわち、「もし、所得と富に不平等があり、権限や責任の程度に差があって、それらが平等という基準点に比べてあらゆる人の暮し向きをよりよくするように働くとすれば、なぜ、それを許容しないのであろうか」という疑問が噴出するのは必至であり、「これらの不平等が平等な自由や公正な機会と両立しているとすれば、基本構造は、こうした不平等が最も不利な立場にある人を含めたあらゆる人の状況を改善する限り、これらの不平等を許容すべき」ということになる。

この「最も恩恵に浴していない人々が、いわば、拒否権をもつ」ことが「格差原理」の本質であり、「最低の生活をしている人々の状況を改善するのに必要なやり方でしか、われわれは、有利な立場にある人々の期待を引上げ」ることができないということになる。

こうして条件付きで許容された「不平等が重大なものではないという保証は何もないが、一方、啓発された才能の利用可能性の増大や、機会の拡大による不平等を縮小する持続的傾向が存在する。他の原理によって確立される諸条件は、確かに、結果として予想される格差を、人々がしばしば過去において我慢してきた差よりも、ずっと小さなものとするであろう」と著者は予測している。

続いて、「正義の二原理」の最大のライバルである功利主義の「効用原理」の検討を行っているのだが、結局、それが要求するのは「たとえ、われわれが恵まれていない時でさえ、われわれは、自分の人生の全行路を通じて期待がより低いことには十分な理由があるとして、他人の有利性がより大であることを受け入れるべき」ということであり、「これは、確かに極端な要求である」と言わざるを得ない。

そしてこれこそが「功利主義者が、道徳的学習における共感の役割と道徳的徳目の中の仁愛の中心的な位置とを強調する」理由であり、「彼らの正義の概念は、共感と仁愛とが広くかつ強く養成されているのでないかぎり、不安定の脅威にさらされることになる」。勿論、他人のために犠牲を払うことが尊い場合もあるが、「そうした行動は、正義の内容として、社会の基本構造によって求められ」るべきではない、という著者の反論は素直に納得できる。

さて、ここまでが「訳者あとがき」で「いわば本書の幹になる部分」と言われている「第一部 理論」のほんの概略であるが、ここまででもかなり長くなってしまったため、「第二部 制度論」と「第三部 諸目的」については、読んでいて特に印象に残った箇所についてのみ順不同で書き留めておくことにする。

第二部の冒頭で紹介されるのは、正義の諸原理を適用するための「四段階の系列」についてであり、著者は、正義の諸原理が採用される原初状態を第一段階、その拘束に従って「政府の立憲的権力や市民の基本的権利のための体系を設計する」ためのいわば「基本法の制定集会」を第二段階、それに続く「立法段階」を第三段階、そして最後の「裁判官や行政官による特殊事例へのルールの適用と、市民一般によるルールの遵守という段階」を第四段階として整理している。

この段階に応じて「無知のヴェール」はそのレベルを変えていき、第四段階では「全ての制約が取り払われる」ことになるのだが、ここで重要なのは、第二・三段階では「いくつかの基本法のうちのどれが、あるいはどの経済的社会的取決めが選択されるかは、常に明らかであるとはかぎらない」ということであり、「このような時には、正義は、その程度まで同様に不確定である。許容される範囲内の制度は、等しく正義にかなう」こととされる。

「かくて、社会、経済政策の問題の多くについては、われわれは、擬純粋な手続上の正義という考えまで退却しなければならない」のだが、この「正義論における不確定性はそれ自体、欠点ではない。それこそがわれわれの期待すべきものなのである」というのが著者の主張であり、われわれは慎重な判断によってより良い「制度を選択することができる」ことになる。

そこで重要になってくるのが「多数決ルールという手続き」であり、「社会の様々な部門が互いにかなり信頼し合っていて、共通な正義の概念を共有しているとすれば、単純多数決によるルールは、かなりうまくいく」かもしれないが、「この基底的な合意が欠けている程度に応じて、多数決原理は正当化するのがより難しくなる」ことになる。

「多数派が望むことは正しい、という見解は全く意味がない」し、「一定の環境の下では、多数派(適当に定義され、制限を設けられた)は法を制定する立憲的権利を有する、いうことが正当化されるが、だからといって、このことは制定された法が正義にかなうものであるということを意味しはしない」。

「理想的市場は効率性に関して完全な手続きである」が、今のところそれに「対応する、正義にかなう立法をもたらす手続きとしての正義にかなう基本法の理論は存在していない」以上、「もし実際に議決された法が、まじめに正義の諸原理に従おうとしている合理的な立法者によって合理的に支持されうるような法の範囲内にある(確認されるならばの話しではあるが)ならば、多数派の決定は、決定的なものではないが、実際上権威のあるものである」とせざるを得ない。「かかる状況は疑似純粋な手続上の正義のそれである」。

そこで「市民的不服従の問題」、すなわち「立法上の多数派によって制定される法…を受諾する義務は、自らの自由を守る権利と不正義に反抗する義務とに照らして、どの点で拘束力を失うことになるのか」という問題が浮上してくる。それに関して著者は「三つの条件」を示しており、その一つが「正義の第一原理、すなわち平等な自由の原理に真に反する場合と、第二原理、すなわち公正な機会均等の原理の第二要素にはなはだしく反する場合」。ただし、「格差原理に対する違反は確認がいっそう困難である」ことが予想されるとのこと。

二つ目の条件は、「政治的多数派に対する正常な訴えがすでになされ、そしてその訴えがうまくいかなかった」場合において、「正常な訴えをさらに繰り返」そうとしても、「過去の行動から、多数派が感情に動かされず、冷淡であるということがわかった」ときであるが、多数派が「むやみに正義にもとる」場合には、少数派において「ひたすら合法的な政治的反対手段だけをまず最初に使用するという義務がまったく起こらない」ことも考えられ。

最後の条件は、「もし、ある少数派が市民的不服従に参加することを正当化されるならば、適切に類似した環境の下では、他のどんな少数派も同じように正当化される」というものであるが、それに該当する集団の数があまりにも多い場合には、「正義にかなう基本法の効力を根底から大いにゆさぶる可能性のある、容易ならぬ混乱」を防ぐため、少数派の人々は一定の「拘束を考慮しなければならない」とされる。

このように著者は、「自由で定期的に行なわれる選挙や、基本法(必ずしも成文基本法ではない)を解釈する機能をもった独立の司法官のようなものと並んで、適当な制約と健全な判断をもって行なわれる市民的不服従は、正義にかなう諸制度の維持・強化を助長する」としているが、その主張はそれだけには止まらない。

「もし正当化される市民的不服従が市民の和合を脅かすように思われるならば、その責任は抗議をする人々にかかるのではなく、権威や権力を濫用することによって、そのような反対を正当化している人々にかかるのである。というのは、明らかに正義にもとる制度を維持するために国家の強制的手段を使用することはそれ自体、正当な過程を歩む人々が抵抗する権利をもつ非合法的な暴力の一形態だからである」という主張は、当時の公民権運動等を強く意識したものと思われ、さらに「ある環境の下では、戦闘的行動やその他の種類の抵抗が確かに正当化される」としている。

次に面白かったのが租税に関する議論であり、著者は「分配の正義」の「背景となる制度を確立する際に、政府は、四つの部門に分割されるものと考えられるかもしれない」と主張し、そのうちの「配分部門」(≒公取委?)と「安定部門」(≒職安)の「二部門が一緒になって市場経済全般の効率性を維持することになる」とする。

そして、「移転部門」(≒生活保護)によって適切なソシアル・ミニマムが「準備されるならば、総所得の残りが価格システムによって処理されるということは完全に合理的である。…そこで、正義の諸原理が満たされているか否かは、最も不利な立場にある人々の総所得(賃金プラス移転)が彼らの長期期待を最大化するようになっているかどうかにかかっている」とされている。

そして「租税と財産権の必要な調整という手段によって、分配上の取り分の近似的正義を保持する」のが最後の「分配部門」(≒国税局)であり、「まず、この部門は、多くの相続税および贈与税を課し、遺産の権利に制約を設ける」。「富の不平等な相続は、知性の不平等な相続がそうでないように、それ自体が不正義であるというわけではない」が、「可能な限り、…不平等は格差原理を満たすべきであるということが肝腎」であり、「相続は、結果としての不平等が最も不運な人の有利になり、自由と機会の公正な均等と両立しうるという条件づきで、許容される」。

「機会の公正な均等」を支える諸制度(=教育と文化のチャンスの保証、地位や職務の開放等)は「富の不平等がある限度を越える時に危機に陥る」傾向があり、「分配部門の租税と法制とは、この限界が越えられるのを防ごうとする」が、「この限界をどこにおくかは…政治的判断の問題であり…この種の問題については、正義論は明確に言うべきものをもたない」。

「分配部門の第二の部分は、正義が要求する収入を引上げるための租税の図式」であり、「多くの複雑な点を棚上げにすれば、比例的な支出税が最善の租税の図式の一部である」。これに対して、「累進税率を用いるほうが一層よいとされるのは、正義の第一原理と機会の公正な均等とに関する基本構造の正義を保持し、それに対応する制度を堀り崩すような財産と権力の蓄積の機先を制するような場合のみ」であり、「既存の制度の不正義が与えられたとすれば、累進度の高い所得税さえもが…正当化されないということにはならない」。

このような「分配部門の二つの部分は、正義の二原理から演繹される。相続税と累進税率の所得税(必要な場合)および財産権の立法上の定義とは、私的所有民主主義における平等な自由の制度とそれらが確立する権利の公正な価値とを保証するためにある。比例的支出(所得)税は、第二原理を実行に移すために、公共善や移転部門や教育の機会の公正な均等の確立などに要する収入を準備する」という整理は、とても分かり易いと思う。

さて、続く第三部でまず検討されるのは「善の理論」であり、「目的論的理論」である功利主義を否定し、「公正としての正義においては、正の概念は善の概念に優先する」と主張する著者は、まず、「正と正義の諸原理」に関係づけられる前の「ほとんど本質的なものに限定」された「善の皮相的理論」から検討を開始する。それ故、ここでの「善」は“役に立つ”とか“メリットがある”といった程度の意味であり、「道徳的に中立である」ことに注意する必要がある。

そんな著者が着目するのが「合理性の概念」であり、「善い時計とは、時計に求めることが合理的であるような特徴をもっているものである」という説明から始まって、最終的に「合理的な人生計画を持つある人にとって求めることが合理的であるような特性をある対象が有している、ということが立証されるならば、それは彼にとって善なるものである」という結論にたどり着く。

「要するに、われわれの善は、未来が正確に予見され、的確に想像される場合に、われわれが十分思慮ある合理性をもって採用するような人生計画によって決定されるのである。…あることをすることはわれわれの善と一致するかどうか、ということが問われるとき、その答えは、それが思慮ある合理性をもって選択される計画にどれほど適合するか、ということにかかっている」ということになる。

この合理性の判断で考慮されるべきなのが、「人間は自己の実現された力量(先天的能力、あるいは訓練によって得た能力)の使用を享受する。そして、この喜びは、力量が実現されればされるほど、あるいは、それが複雑になればなるほど、大きくなる」という「アリストテレス的原理」であり、それには「われわれの本性において潜在的と見られる能力を働かせることのできる人々のようになりたいと思う」という姉妹効果がある。

そして、このようにして得られた(皮相的意味における)「善」が「正と正義の諸原理」による規制を受けて得られるのが「善の完全理論」であり、それさえあれば、「善い人間は、秩序ある社会の構成員にとって、その仲間に求めることが合理的であるような、道徳的品性に関する諸特徴をもっている」という具合に、「どんな新しい倫理学的観念をも導入」することなく、「倫理学の…主要な概念である道徳価値について満足のいく説明を与え」られるようになる。

また、「平等」との関連で取り上げられることの多い「家族」に関する考察も興味深いところであり、著者は、「われわれの能力を開花させるための努力を可能にする優れた性格…は、相当に、われわれが何の功績を主張することもできない幼年期における幸運な家族…に依存している」故に、「幸運な人々は、失敗に終わった人々を助けるような方法で便益をうけるべきなのである」としながらも、「正義の二原理の満たされている秩序ある社会においてさえ、家族は、個人間の平等な機会に対する一つの障壁となるかもしれない」ことを認めている。

「公正な機会の原理を首尾一貫して適用しようとすれば、人々を社会的地位の影響から独立に眺める必要がある。しかし、この傾向性をどこまで及ぼすべきなのであろうか。公正な機会が…満たされている時でさえ、家族の中では個々人の機会は平等にはならないであろう。それでは家族は排除されるべきなのであろうか」というジレンマは、“出産、育児の社会化”のような極端な社会主義政策を取らない限り、解消することは困難なのだろう。

さらに、終盤で取り上げられているのは「羨望の問題」であり、実は、第一部では「原初状態にある人々は合理的」であり、「羨望によって動かされない」と仮定されているのだが、「格差原理によって認められる不平等が羨望を社会的に危険な限度にまで喚起してしまうほど大きいものであるかもしれない、という事実」を無視することはできないため、ここで改めて検討されている。

さて、一般的な羨望は「他の人々のいっそう大きな善を敵意をもって見る性向」であり、「他の人を羨む人は、ただ両者の差が十分に縮小されさえすれば、彼ら両者の立場をいっそう悪化させることを喜んで行なおうとする」と定義される。それは「憤慨」のような「道徳的感情」ではないが、「羨望が、ある人に別の感情を期待することが不合理であるような環境において、自尊心の損傷に対する反作用である時には…許されるべきもの」とされる。

そこで「問題は、正義の諸原理を満たす基本構造が、これらの原理の選択を再考しなければならないほど大きな、許される羨望をひき起こしそうであるかどうか、ということ」になるが、「理論では、格差原理はより恵まれない人々の小さな利得に対する見返りとして無限に大きな不平等を認めるが、所得と富の分布は、必要な背景適性度が与えられれば、実際上極端なものではないであろう」という楽観的な推測が再び述べられ、「正義の諸原理は許されるべき一般的な羨望…を手におえないほど喚起しそうにはない」と結論づけている。

ちなみに、「多くの保守的な著者たちは、近代社会運動における平等の風潮は羨望の表れである、と主張してきた。…だが、正義の二原理によって定義されるような平等を主張することは羨望を表現することではない」ことに注意すべきであり、それは正義概念が「仮説によって、誰も恨みや悪意によっては動かされないような条件の下で選択される」ことからも明かだとされている。

さて、これら以外にも興味深い論点は多々あるが、最後に新自由主義との関連で気になった点をまとめておく。

まあ、それへの直接の言及はないものの、功利主義のバケモノのような新自由主義を著者が認める筈はないのだが、正直、「もし、市場が相当に競争的で開放的であれば、純粋な手続上の正義という考えは、それに従うことのできるものである」とか「理論では、格差原理はより恵まれない人々の小さな利得に対する見返りとして無限に大きな不平等を認める」といった文章に出会うと、ちょっと不安になってしまうのも事実。

しかし、「われわれがみてきたように、公正としての正義という観念は、特定の状況の偶然性を処理するために、純粋な手続上の正義という考えを利用する。社会システムは、事がどのように運ばれようとも、結果としての分配が正義に適うように設計されるべきである。この目的を達成するためには、社会的、経済的過程を適切な政治、立法制度の囲いの中におくことが必要である」という文章からも明らかなとおり、著者は“見えざる手”を過信してはいない。

結局、新自由主義の蔓延る現状が著者の主張する「正義」に適うものでないことは明かであり、差し当たり、「累進税率の所得税」の引上げによって“富裕層”の増大に歯止めをかけるとともに、適切な相続税の運用によって現行の格差社会を少しずつ是正していく必要があると思う。

ちなみに、新自由主義と比べた場合、「正義に適う善なる社会が、高い物質的生活水準をともなうにちがいないと信ずるのは誤りである」というのが弱点になるのは明かであり、GNPの比較では分が悪いだろうが、その「格差原理」が「最も不利な立場にある人の期待便益」を基礎にしているのは“正義は弱者の見方”という考えにマッチしており、個人的には賛同できるところが多かった。

ということで、とても全部理解できたとは言い難いが、何はともあれ、購入以来、実に41年ぶりに最後まで読み通すことができたのは大きな喜びであり、(今のところ?)今回のコロナ禍における唯一の恩典。これでようやくサンデル等の著作に手を伸ばすことが許されたような気分であり、そのうち何冊か読んでみようと思います。