社会的共通資本

3年前に惜しまれつつこの世を去った宇沢弘文の入門書(?)。

経済学や経営学の類いは、正直、あまり性に合わないのだが、本書は、フリードマン等に代表される新自由主義を「新古典派経済学をもっと極端に反社会的、非倫理的な形にした…反ケインズ経済学」として厳しく批判する立場に立っており、うん、こういった内容なら読んでいても別に腹は立たない。

さて、「あとがき」に記載されているとおり、本書は著者が1972年から2000年の間に発表した書物や論文に加筆・訂正を加えて一冊の本にまとめたものであり、230ページ余の新書版にもかかわらず、農村、都市、教育、医療、金融そして環境と内容は極めて多岐にわたっている。

それらをつなぐキーワードが“社会的共通資本”であり、それは「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のこと。具体的には、大気、水、森林等の自然環境、道路、交通機関上下水道等の社会インフラ、教育、医療、金融等の制度資本の3つに大別される。

そして、こういった社会的共通資本は「分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件」でもあるため、「たとえ私有ないしは私的管理が認められているような希少資源から構成されていたとしても…社会的な基準にしたがって管理・運営」されなければならない、と説く。

まあ、このへんは私的所有権の制限や各種規制の強化へとつながっていく話なんだろうが、依然として新自由主義の嵐が吹き荒れる我が国ではそれと真逆の方向へと突き進んでいる真っ最中。所得格差の拡大は現行の市場経済制度の欠陥に起因するものであるにもかかわらず、それを個人の努力不足のせいにしてしまうのだから呆れ果ててものが言えない。

興味深かったのは、第4章で「学校教育は、社会的、経済的体制が必然的に生み出す不平等を効果的に是正する」という考えに対して大いなる疑問を呈するとともに、「(大学における)学生の教育は、副次的な意味をもつにすぎない」と断言しているところ。どちらも個人的には大賛成なのだが、これらも現政権の唱える「人づくり革命」とは真逆の発想であり、今のところ実現の可能性は皆無と言わざるを得ない。

ということで、全体の論調から感じ取れるのは著者の自然観や人間観が極めて保守的であるということであり、それにもかかわらずその主張が反体制的な色調を帯びてしまうのは現在の新自由主義的な政策がドラスティック過ぎるからなんだろう。憲法9条の問題を含め、現政権(とそれに与する勢力)を“保守”と呼ぶのは大きな間違いだと思います。