大転換

「市場社会の形成と崩壊」という副題が付けられた経済学者カール・ポランニーの代表作。

以前読んで面白かったデヴィッド・ハーヴェイの「新自由主義」でも大きく取り上げられていた作品であり、いつか読んでみたいと思っていたのだが、近くの図書館にあるのは国内で1975年に出版された旧版だけ。「訳者あとがき」でも触れられているとおり決して読みやすい文章ではなかったが、頑張って何とか最後まで読み終えることができた。

さて、R.M.マッキーバーの序文で述べられているとおり、本書の第一の目的は「19世紀に全盛となった市場経済というひとつの特殊な経済システムのもつ社会的意味を明らかにすること」。そして、それに対する著者の回答は「自己調整的市場という考えはまったくのユートピアであった」という単純明快なものであり、この場合のユートピアは“理想郷”ではなく“夢物語”と解さねばならない。

最初の「第一部 国際システム」では、「西ヨーロッパ文明の年代記に前代未聞の現象、すなわち平和の100年(1815―1914年)を生み出した」隠れた要因として「大金融家」の存在にスポットライトを当て、彼らは「列強に援けられてではあるが、列強自身では確立することも維持することもできなかったであろう国際的な平和体制に手だてを提供していた」と説く。

「彼らは平和主義者とはいえなかった。彼らは戦争に融資することで財をなしてきたのであり…短期の小規模な局地戦争がいくら起こっても、これには反対しなかった。しかし、もし列強間での大戦争がこの体制の貨幣的基礎を損なうことになれば、彼らの商売は損害を蒙ること」になるため、大金融家は平和を切望し、「バランス・オブ・パワー・システムはそれに役立てられた」。

著者によれば、「第一次大戦と第二次大戦の相違は明らかであ」り、「前者は…バランス・オブ・パワー・システムが変移する過程に発生する、単純な権力間の衝突」にすぎないのに対し、後者は国際経済システムの崩壊という「世界的激動の一端」と見るべきである。そして、そのシステムの基礎になっていたのが「人類社会史上健全なものとはみなされたことのほとんどなかった…利得動機」であり、「自己調整的市場システムは、ほかならぬこの原理から導出された」訳である。

要するに、自己調整的市場という夢物語は、西ヨーロッパに「平和の100年」をもたらすのに大きく貢献したものの、それは本来、「社会の人間的・自然的な実体を無にしてしまうことなしには、一時たりとも存在しえない」ようなシロモノであり、結局、その行き詰りが第二次大戦という破局を招来したというのが本書の大スジであり、その歴史的経緯を詳述しているのが「第二部 市場経済の興亡」。

そもそも、「われわれの時代より前には、原理的にさえ、市場に統制される経済が存在したことは一度もなかった」というのが著者の出発点であり、「新石器時代からこのかた、市場という制度はかなりありふれた存在ではあったが、その役割は経済生活にとって付随的なものにとどまっていた」。

「大まかに言って…西ヨーロッパで封建制が終焉を迎えるまでの、既知の経済システムは、すべて互恵、再配分、家政、ないしは、この三つの原理の何らかの組合せにもとづいて組織されていた」訳であり、「行動の一般的原理に律せられた種々様々の個人的動機…のなかでは、利得は重きをなしていなかった。」

そんな状況を一変させたのが「精巧で、それゆえに特殊化された機械設備の発明」であり、「精巧な機械設備がひとたび商業社会で生産に用いられるや、自己調整的市場の観念が必然的に姿を現す」。すなわち、「精巧な機械は高価なので、大量の財が生産されるのでなければ引き合わない」ことになり、商人たちは「支払う用意のある人には誰にでも必要なだけそれ(=生産に関係する諸要素)が手に入」るような新たな市場を要求するようになる。

そんな「彼が買うのは原料と労働―すなわち自然と人間―である。商業社会における機械制生産は、実際、社会の自然的人間的実体の商品への転化以外の何ものをも意味しない」。したがって、「市場経済は、労働、土地、貨幣を含むすべての生産要素を包み込んでいなければならない」のだが、その直後に指摘されるのが「だが労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである」という厳粛な事実。

「土地と人間の運命を市場にゆだねるということは結局のところそれらを破壊させるも同然」のことであり、例えば、「機能する労働市場を創出できるのは餓死という刑罰のみであって、高賃金の魅力ではない…そしてこの罰を機能させるためには、個人が餓死することを許しておかない有機的社会を解体することが必要」というような恐ろしい企みを察知すれば、「社会は、自己調整的市場システムに内在するさまざまな危険に対しみずからを防衛した」というのも当然のことと思われる。

もっとも、経済的自由主義者の唱える「自由放任」というのも矛盾だらけの概念であり、「自由放任には、自然なところは何もなかった。自由市場が成行きまかせで生じてくるはずはなかった。…自由放任自体も国家によって実現されたのである」というのが歴史的事実。「もし自動調整的市場の要請が自由放任の要求と矛盾することが明らかになれば、経済的自由主義者は自由放任に逆らい…統制と制限といういわゆる集産主義的手段のほうを選んだ」というのは、現代の新自由主義者たちと何ら変わるところがない。

さて、「1879年から1929年までの50年間に、西ヨーロッパの諸社会は、各々、崩壊への緊張を内に蔵しつつ、緊密に統合した諸単位へと変化していった」。その原因は、社会の自己防衛に起因する「保護主義」の台頭によって「市場経済の自己調整機能がそこなわれてしまった」からであり、自国民には受け入れ難い「自己調整的市場システムに内在するさまざまな危険」を「遠隔地域や半植民地的な地域におけるような、保護的措置をもたない無力な国民」に押し付けようとする帝国主義が勃興する。

また、「どうしても機能しなくなった市場社会」は社会主義のみならず、ファシズムの温床にもなってしまい、「自由主義的資本主義が行きあたった難局に対するファシスト的解決は、経済・政治双方の領域におけるあらゆる民主的諸制度の撤廃という犠牲を払って達成される、ひとつの市場経済改革であるといえよう」。

そして「19世紀文明は…社会が自己調整的市場の働きによってみずからが麻痺せぬために採用した諸措置による結果として崩壊したのである。…市場と組織化された社会生活の基本的要求との衝突は、19世紀展開の原動力を与え、究極的にはその社会を破壊した特徴的な緊張と重圧とを生みだした」というのが本書の結論。

したがって、次の課題は「産業文明を新たな非市場的基礎の上に移行させること」になる訳であるが、1944年に出版された本書には、それがどのような形で実現されるのかについては明言されていない。

しかし、「計画化と管理は自由の否定だ」という自由主義哲学の主張に対し、「権力と強制のない社会などありえないし、力が機能しない世界もまたありえない」と反論し、「市場経済の消滅は、先例をみないほどの自由の時代の幕開けとなりうる」、「社会の発見は、かくして、自由の終焉でもありうるし、あるいはその再生でもある」等と述べていることからすれば、著者が次代の担い手として社会主義に期待していたのは間違いないところだろう。

以上が本書の概要であるが、これ以外にも興味深い内容がぎっしり詰め込まれており、その一つが1795年にイギリスで採用されたというスピーナムランド法の解説。それは「貧民の個々の所得に関係なく最低所得が保証される」という「『生存権』の導入」を意味したが、実際は「規定された額を超えて賃金を引き上げない追加的口実を雇用主に与えた」ことになり、賃金は「底なしに低下することにな」ってしまう。

「彼らがみずからの労働によって生計を立てることができなかったということからすれば、彼は労働者ではなく貧民」であり、「大衆の自尊心が賃金よりも救貧を好むような低水準にまで落ちこ」んでしまう。結局、1834年救貧法修正によって廃止されるのだが、その評価は一筋縄ではいかず、「初期資本主義の人間的・社会的退廃」の要因に挙げられる一方で、「競争的労働市場の確立を妨げるのに効果があ」り、「救貧法がイギリスを革命から救った」とも言える。

著者が繰り返し述べているのは、「統制されておらず速度が速すぎると思われる変化の過程はできることならその速度を落として社会の福祉を守るべきである」という、自由主義哲学によって放棄されてしまった「変化にたいする常識的態度」の重要性であり、最終的には社会に利益をもたらす「進歩」であったとしても、あまりにも性急な変化はそれを「悪魔のひき臼」に変えてしまうという指摘には、今こそ真剣に耳を傾けるべきだろう。

また、資本主義と重商主義の違いを分かりやすく説明してくれているのも本書の大きな利点であり、「重商主義が、商業の拡大を国策として強力に主張しながらも、市場経済とは正反対の方向で市場を考えていたことは、産業に対する政府干渉の広範な拡大に最も明瞭に示されている」。

そこで「支配的であったのは競争という新要素ではなく統制という伝統的特徴」であり、「この点では、重商主義者と封建勢力のあいだにはなんの相違もな」かった。また、「重商主義は、商業拡大を志向したにもかかわらず、これら二つの基本的生産要素―労働と土地―が商業の対象になるのを防いでいるもろもろの安全装置にはけっして攻撃をかけなかった」そうである。

ということで、著者は第12章で「われわれの時代をのちになって回顧すれば、それは自己調整的市場の終焉をまのあたりにしたと記されるであろう」と書いているのだが、残念ながらその予言は新自由主義の登場によって大きくハズレてしまっている。その最大の原因は「社会の自己防衛」のうち「労働」の弱体化(=ナショナリズムにからっきし弱い!)にあるような気がするのだが、一方で最近着実にパワーアップしてきているのが「土地」のそれであり、地球温暖化を食い止めるためには新自由主義の見直しが絶対に必要だと思います。