「その歴史的展望と現在」という副題の付けられたデヴィッド・ハーヴェイの著作。
本書の存在についてはかなり早くから気付いてはいたのだが、正直、内容を理解できる自信が無かったこともあって長らく手をこまねいていた。しかし、先日読んだ「資本主義と闘った男」に引用されていた本書の文章がとても論旨明快で読みやすく、これなら何とかなるんじゃなかろうかと思ってようやく手に取ってみた次第。
さて、「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制限に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」。一方、「国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持すること」だけであり、「市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会財は最大化される」ことになる。
「訳者あとがき」によると、このように「従来、『市場か政府か』という対立軸を中心にして語られてきた新自由主義化について、その本質が、1950年代から70年代初頭にかけて浸蝕されてきた資本家階級と政治エリートの、とりわけ金融資本を中心とするそれの権力回復にあるとみなし、そうした基本的観点に立って新自由主義の歴史を総括していること」が「本書の第一の意義」になるらしい。
すなわち、第1章「自由とはこういうこと…」で述べられているとおり、「新自由主義思想の創始者たちは、人間の尊厳や個人的自由という政治理念を根本的なもの、『文明の中核的価値』であるとした」。そして、「市場は、大食や強欲、富と権力への渇望といった人間の本能の最も卑しいものさえも万人の利益のために動員する最良の装置」であるのに対し、「国家が入手可能な情報は、市場のシグナルに含まれている情報にとうてい太刀打ちできない」故に「投資や資本蓄積に関する国家の判断は必ず間違う運命にある」として、市場の政府に対する優位性を主張してきた。
しかし、そうした新自由主義の理論とその実践の間には常に大きな矛盾をはらんでおり、それは「資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクトとして解釈することもできる」。事実、「新自由主義化は、グローバルな資本蓄積を再活性化する上であまり有効ではなかったが、経済エリートの権力を回復させたり、場合によっては(ロシアや中国)それを新たに創出したりする上では、目を見張るような成功を収め」ている。
したがって、「新自由主義的議論に見られる理論的ユートピアニズムは主として、この目標(=経済エリートの権力の回復)を達成するために必要なあらゆることを正当化し権威づける一大体系として機能してきた」というのが著者の結論であり、以下、債務国に債務の返済繰り延べを認める見返りに新自由主義改革を実施させるという手法により、IMFと世界銀行とが中心になって世界中に「『自由市場原理主義』と新自由主義の正統理論を普及し実施」してきた経緯を詳しく紹介している。
また、カール・ポランニーの言葉を借りて、「もし、『権力と強制のない社会などありえないし、力が役割をもたない世界もありえない』ならば(そしていつの世もそうだったのだが)、この自由主義的ユートピアニズムのビジョンを維持する唯一の方法は、力の行使、暴力、権威主義である」とも主張しており、新自由主義のもたらした悲惨な現状に対する支配階級の解決策(?)である「新保守主義の台頭」を強く憂いている。
さて、「本書における二つ目の意義は、この新自由主義的転換に対する(民衆との)同意の形成がどのようにされたかを具体的に考察している点にある」のだが、アメリカにおけるその究極的な原点は「個人的自由の大義」。「『自由』という言葉は、アメリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは…ほとんどあらゆるものを正当化」してしまう。「個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも、新自由主義の囲いに取り込まれやすい」という著者の言葉は良く憶えておいた方が良いだろう。
また、「新自由主義化にとって政治的にも経済的にも必要だったのは、差異化された消費主義と個人的リバタリアニズムの新自由主義的ポピュリズム文化を市場ベースで構築することであった」という説明はやや難解だが、「新自由主義が…『ポストモダニズム』と呼ばれる文化的推進力と少なからぬ親和性があることをはっきりと示している」という文章には、まあ、思い当たる節が無いこともない。
さらに「黒人、女性、環境派等々の特殊集団に便宜を図るために過剰に国家権力を行使する『リベラル』たち」への問題視や「労働市場における大きな自由や行動の自由は、資本家にとっても労働者にとっても利益になる」という宣伝、「キャデラックを乗り回す『福祉の女王』というお話」等々に関しては、我が国でもお馴染みのものばかりであり、「いったん国家機構が新自由主義的なものに転換してしまえば、その権力を用いて、説得や取り込み、買収、脅迫を行ない、その権力を永続化する上で必要な同意の風潮を維持すること」が可能になってしまう。
最悪なのは、レーガンやサッチャーが「つくり上げた遺産と伝統は、次世代の政治家たちを容易には逃れられないさまざまな制約の網の目で絡めとった。クリントンやブレアのような後継者たちは、好むと好まざるとにかかわらず、新自由主義化をよりましな形で継続すること以上のことはほとんどできなかったのである」という第2章「同意の形成」の結論であり、これが本当だとしたら新自由主義からの脱却には相当長い年月を要することになりそうである。
続く第3章「新自由主義国家」では、「新自由主義理論においては、『上げ潮は船をみな持ち上げる』とか、〔上層から下層へと富が〕『したたり落ちる(トリクルダウン)』と想定されており、一国内であろうと世界規模であろうと、自由市場と自由貿易を通じてこそ最も確実に貧困を根絶することができるのだと考えられている」にもかかわらず、現実的には「階級権力の回復」(=格差の拡大)が進んでいるという、その理論と実践の矛盾が数多く紹介されている。
そこで「市場での人格的・個人的自由が保障される一方で、各人には自分自身の行為と福利に対する責任があるとみなされている。この原則は、福祉・教育・医療・年金といった分野にまで拡張される。…各人の成功や失敗は、何らかの社会システム上の問題…のせいであるよりも、むしろ企業家的美徳の欠如とか個人的失敗…といった観点から解釈される」と説明されているのは、我が国でもことあるごとに噴出するようになった「自己責任論」のことであり、う~ん、それも新自由主義化の徴候の一つだったんだなあ。
次の第4章「地理的不均衡発展」と第5章「『中国的特色のある』新自由主義」では、新自由主義化の動きが各国の置かれている状況に応じて様々な変化を見せることが詳しく述べられているが、「新自由主義理論の神髄の一つは、自立、自由、選択、権利などの聞こえのいい言葉に満ちた善意の仮面を提供し、剥き出しの階級権力の各国および国際的な…回復と再構築がもたらす悲惨な現実を隠蔽すること」なのだとすれば、それも当然のこと。
続く第6章「審判を受ける新自由主義」では、著者が「略奪による蓄積」と呼ぶ、下層階級から支配階級への富と収入の「再配分」、「明らかに商品ではない」はずの労働の商品化(の徹底)による「使い捨て労働者」の出現、「短期契約の論理を環境の利用に押しつけたこと」による環境の悪化等、新自由主義化の抱える諸問題が述べられており、それに対する抵抗の動きを模索しているのが最後の第7章「自由の展望」。
そこでは「もしそれが階級闘争に見えたり、階級戦争のような行動に見えるのなら、恥じることなく、ありのままにそう呼ぶこと」によって隠蔽されようとしている階級概念を再構築することや、「新自由主義的政策目標と新保守主義的政策目標とのあいだに利用可能な矛盾が存在することを明らかにする」こと等の必要性が述べられているが、おそらく一番重要なのは「いくつかの異なった自由概念のどれが今日の時代にふさわしいのかについての真剣な討論」を行うこと。
1935年に当時のルーズベルト大統領が述べたとおり、「貧しき人は自由人ではない」ということが再認識されるならば「新自由主義が説く自由よりもはるかに崇高な自由の展望は存在する」ことが明らかになる筈であり、「われわれはそうした自由を獲得し、そうした統治システムを構築するべきなのだ」というのが本書全体の結論になる。
その他、本書には付録として「日本の新自由主義 ―ハーヴェイ『新自由主義』に寄せて」という政治学者の渡辺治氏の論文が収められているのだが、ここでは、1990年代(=「冷戦が終焉しグローバル市場が一気に拡大した結果、世界大の競争に巻き込まれて、その競争力上の優位を喪失」した。)以降の我が国における新自由主義化の動きが分りやすくまとめられている。
それによると、我が国における新自由主義化の阻害要因(?)になっていたのは「一方で大企業の蓄積に効率的な体制づくりに一貫して努力してきたが、同時に、常に、それによって衰退する地場産業や農業部門への手当ても行なってきた」ところの官僚機構と、「周辺部に対する利益誘導型政治によって支えられていた」ところの自民党一党政権。
そして、それらを攻撃する「スローガンこそ、反官僚主義、反パターナリズム、反国家主義であった」そうであり、「日本では、新自由主義への国民の同意調達は、反自民党政治・反開発主義となって現われた」とのこと。う~ん、これが本当だとすると、俺自身も我が国の新自由主義化に少なからず協力してしまっていたことになる。
このことから、我が国の新自由主義化は、「政治改革」という名目で「中選挙区制を小選挙区制に変えて保守二大政党制を構築する」という方向でスタートし、紆余曲折を経た後、小泉政権による「『官邸主導』『首相主導』の名の下」で「ハーヴェイのいう『新自由主義国家』を完成に近づけた」。
また、「新自由主義と並んでの新保守主義の台頭という問題は、日本の新自由主義を検討するうえでも重要である」が、ここで興味深いのは、我が国の「戦後の開発主義保守政治は、保守主義のイデオロギーとは正反対の、開発と成長の理念を掲げ」てきたため、日本の新保守主義のイデオロギーは「狭隘性と脆弱性」を有しており、それは「支配階級内にも、大衆的にも固有の社会的基盤を持ちえていない」という指摘。
それにもかかわらず、我が国でも新保守主義が急伸長した背景には「新自由主義による社会統合の破綻と被害が、福祉国家を経た先進諸国と比較してもはるかに深く顕在化したこと」と「北朝鮮問題や中国脅威論の形で、ナショナリズムの昂揚と結びついていたこと」という2つの理由が存在するのだが、残念ながら、前者の事情は「日本では新自由主義に対抗する社会運動や思想が自動的に成長する可能性が強くなることには結びつかない」というのが渡辺の主張。
「その最大の原因は、日本では新自由主義に対抗する政治的経験が蓄積されていないという点」であり、イギリスやスウェーデンと違って新自由主義へのオルタナティブとしての福祉国家の経験を有さない我が国では、まず、それに代わる何か新しい対抗軸を考え出さなければならないのだろう。
ということで、本書の発表されたのは2005年のことであり、その3年後にはリーマン・ショックが起きているにもかかわらず、大学入試制度改革や水道事業の民営化等々、我が国の新自由主義化の勢いは依然止みそうにない。おそらく道のりは長いのだろうが、ハーヴェイの言うとおり「貧しき人は自由人ではない」という考えを徹底させていくことは新自由主義化に対する有効な抵抗に繋がる筈であり、当面、それに逆行するような憲法改正には強く反対し続けなくてはいけないのでしょう。