これからの「正義」の話をしよう

マイケル・サンデルが2009年に発表し、我が国でもベストセラーになった哲学書

翻訳が出たときから興味を持っていたのだが、そこで批判的に取り上げられているというジョン・ロールズの「正義論」を完読していないことに引け目を感じてしまい、それから約10年間、本書を読むことが出来ずにいた。しかし、今回のコロナ禍を利用して、先日、「正義論」の読破に成功し、ようやく晴れて本書を手にすることが出来た。

さて、最後の「謝辞」に書かれているとおり、本書は「ハーヴァード大学の学部生に政治哲学を教える」ための「講義から誕生した」ものだそうであり、初心者向けに書かれていることもあって、とにかく“分りやすい”のが最大の特色。例えば、ロールズの「正義論」では“知っていて当たり前”的に扱われていたカントの道徳論も、本書では一章を割いてきちんと説明されており、しかもその内容が驚くほど理解しやすい。

また、難解な概念を具体例に基づいて説明してくれるのも有難いところであり、「第1章 正しいことをする」では、2004年のハリケーン被害の際に行われた便乗値上げの問題を取り上げ、「便乗値上げ禁止法への賛成論と反対論が3つの理念を中心に展開されていることがわかるだろう。つまり、福祉(=本書でいう福祉とは社会的福利の非経済的な面をも含むより幅の広い概念である。)の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。これらの3つの理念はそれぞれ、正義に関して異なる考え方を提示している」とする。

そして、これら3つの理念について、「古代の理論は美徳から出発し、近現代の議論は自由から出発する」と要約しているのが興味深いところであり、特に後者の「自由を起点とする正義へのアプローチからは、幅広い学派が形成される。事実、現代の最も激しい政治的議論のいくつかは、この学派内で対立する二つの陣営、つまり自由放任派(レッセフェール)と公正派によるものだ」というのが、現時点における著者の状況分析になっている。

そんな、早くも脱落してしまった感のある「福祉の最大化」を取り上げているのが「第2章 最大幸福原理―功利主義」であり、その提唱者であるベンサムは「正しい行ないとは『効用』を最大にするあらゆるものだ」と主張し、効用、すなわち「快楽や幸福を生むすべてのもの、苦痛や苦難を防ぐすべてのもの」の原理こそが「道徳をめぐる議論の唯一の足場、唯一の前提、唯一の出発点」であると説く。

しかし、この「最大幸福」原理に対しては有力な二つの反論が用意されており、「一つ目は、最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないというもの、二つ目は、道徳的に重要なすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだというもの」。「父親から相続しベンサムから受け継いだ功利主義哲学を、個人の権利と調和させ」ようと努力したミルの精力的試みも、「効用を超えた道徳的理想―人格や人類の繁栄をいう理想―に訴えている以上…ベンサムの原理を…否定するもの」と言わざるを得ない。

これに対し、次の「第3章 私は私のものか?」で取り上げられているリバタリアニズム自由至上主義)は少々厄介であり、それは「経済効率ではなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対」し、「最小国家―契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持する国家―だけが、リバタリアンの権利の理論と両立する」。

彼らの思想の根本にあるのは「自己所有権という概念」であり、この概念によって「課税(私の稼ぎを取り上げること)から強制労働(私の労働を取り上げること)さらに奴隷制(私が自分自身を所有していることの否定)までが道徳的に連続している」。「自由放任主義の経済を拒否する人の多くが、別の領域では自己所有権の概念に訴える」ことからも、「リバタリアン的な考え方には…捨てがたい魅力があることがわかる」。

次の「第4章 雇われ助っ人―市場と道徳」では、まず、南北戦争当時に採用されていた“徴兵の身代わり制度”が取り上げられるが、「お金持が身代わりを金で雇ったから、南北戦争当時の制度が不公平だったのだとすれば、志願兵制にも同じ理屈が当てはまるのではないだろうか。…兵役に就きたくない人間が、自分たちの戦争のためにほかの人間を雇って戦わせ、彼らの生命を危機にさらしているという状況に変わりはない」という指摘はなかなか刺激的。

リバタリアン功利主義者の双方の観点」からすると、「兵士を集める方法としては志願兵制が最善であり、南北戦争当時の混合制度がその次、最も望ましくないのが徴兵制」ということになるが、これに対しては「限られた選択肢しかない人間にとっては、自由市場はそれほど自由ではない…。社会のなかでほかにましな選択肢がない場合、兵役に就くのを選ぶ者は、実質的には経済的必要性に迫られて徴兵されるようなものだ」という「公正と自由をめぐる」反論や、「アメリカ人が戦争に送り込まれている以上、全員が危険を分かち合うべきだ」という「市民道徳と公益の名における反論」がある。

また、代理出産に関する議論の中で道徳哲学者のエリザベス・アンダーソンは「あらゆるものを効用(もしくは金銭)で評価するのは、もっと高い規範で評価されるのがふさわしいものや社会的営み―たとえば子供、妊娠、子育てなど―を貶めることだ」と主張しているが、「この考え方において強調されるのは、人間(尊敬に値する)と単なる物体(自由に利用できる)との違いであり、これは道徳における根本的な違いだとされる」。

この考え方の最大の擁護者であるイマヌエル・カントの道徳論を紹介しているのが「第5章 重要なのは動機」であり、彼の「理論は、自分の所有者は自分自身であると言う概念にも、人間の生命や自由は神からの贈り物だという意見にも基づいていない。その基盤となっているのは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方」であり、「他者を、そして自分自身を、ただの物」として扱うリバタリアンの自己所有の概念とは対照的なものである。

「カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在だ。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからだ。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある」。「しかし、カントが定義する自由は厳格」であり、「動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ」。

さて、カントの道徳論を理解する上で重要になるのが次の3つの対比である。(「対比その4(観点):英知界 対 感性界」は省略)
対比その1(道徳):義務 対 傾向性
対比その2(自由):自律 対 他律
対比その3(理性):定言命法 対 仮言命法

まず、「カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まる」とされるが、その意図=動機は「有用性や利便性のためではなく、そうすることが正しいから」という「義務の動機」でなければならない。また、「自由な行動とは、自律的に行動すること」、すなわち「自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動すること」に他ならない。

また、「カントは理性が意志を規定する方法として二つの方法、二種類の命法を提示」しているが、仮言命法が「Xが欲しいならば、Yをせよ」という具合に「理性を道具として用い」ているのに対し、「定言命法とはいわば無条件に、つまりほかに考慮すべき目的や依存する目的をいっさい持たずに何らかの行動を命じること」。すなわち、「自律的自由を実践するためには、仮言命法ではなく定言命法に従う必要がある」ということになる。

そして、「自分の意志によって道徳法則を選ぶとき、われわれは自分やあなたといった特定の人格ではなく、理性的な存在、カントの言う『純粋実践理性』にかかわる者として選んでいる。だとすれば、道徳法則が人によって違うと考えるのは誤りだ。…純粋実践理性を用いているかぎり、個人的な利益にとらわれることはない。そのためつねに同じ結論、つまり特定の(普遍的な)定言命法に到達する」ことになり、「カントが支持する政治論は功利主義を退け、社会契約に基づく正義論に味方するものだ。…原始契約は実在のものではなく、仮想上のものだ」ということになる。

そして、「第6章 平等の擁護」でいよいよロールズの正義論が俎上に載せられることになるが、その前提として説明されている「契約の道徳的限界」の内容が興味深い。著者によると「実際の契約が道徳的な圧力を有するのは、自律と互恵性という二つの理想が実現されている場合だけ」であり、同意だけでは不十分。「われわれはすべての道徳的主張に同意を読み取ろうとするが、互恵性そのものが持つ重みを認識しなければ、道徳生活を理解することは難しい」。

そのような観点からすれば、ロールズの考案した「無知のベールをかぶった状態で結ばれる仮説的同意は、実際の契約の劣化版ではなく、したがって道徳的力に劣るわけではないということだ。それはむしろ実際の契約の純粋形であり、道徳的力はさらに増す」と評価される。また、「無知のベールという仕掛けを支えているのは、思考実験とは関係なく提示しうる道徳的な議論」であり、「それは所得や機会は道徳的に恣意的な要素に基づいて分配されるべきではない、という考え方である」とされる。

「所得と富の分配が、才能という生まれ持った資産の分配によって定まるのは、それが歴史的・社会的運命によって定まるのと同じくらい筋が通らない」と考えるロールズは、さらに「努力すら恵まれた育ちの産物だ」と主張する。その考えは努力のすばらしさを称える実力主義の信奉者たち(=おそらくリバタリアンもそれに含まれるのだろう。)には不評のようだが、著者は、「(彼らは)努力したからといって所得や富が得られると考えているわけではない。…実力主義の支持者たちは努力を称賛するが、彼らが報酬に値すると考えているのは、実は貢献度や達成度なのだ」と言ってロールズの主張を擁護する。

そして、「才能の道徳的恣意性をめぐるロールズの議論が正しいとすれば、驚くべき結論が導かれることになる。分配の正義は、道徳的功績に報いるという問題ではないのだ」というのがここでの一応のロールズ評ということになり、「分配の正義とは…ゲームのルールが決まった段階で発生する正当な期待に応えること」であり、「つまり、ゲームのルールによって、自分の才能から利益を得る資格を与えられているからと言って、自分の得意分野が評価してもらえる社会にいることを当然と思うのは誤りであり、思いあがりでもあるのだ」と、ロールズの正義論の意味するところを指摘している。

次の「第7章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争」では、大学入学許可の判定においてマイノリティの出願者を優先することの是非が論じられているが、多様性を根拠とする擁護論の根底にあるのは「入学許可が正当化されるのは、それが大学の目指す社会的目的に資するかぎりにおいてであって、学生の美質や美徳に報いるためではない」という考えであり、「この見解は、所得分配の正義についてのロールズの見解とも一致している。重要なのは、道徳的功績ではないのだ」。

「正義をめぐる論争を、名誉や美徳、そして善の意味をめぐる議論と結びつけるのは、絶望的な意見の不一致を招く行為のように思えるかもしれない。名誉や美徳に対する考えは人それぞれだ。…そのため正義と権利のよりどころを、こうした論争から距離を置いた場所に求めたいと思うのも無理はないだろう」というのが、リベラル派の正義論に対する著者の感想であり、「カントとロールズの哲学は、善い生の定義は人によって違うという現実を前に、中立的な立場から、正義と権利のよりどころを見つけようとする大胆な試みである」ということになる。

「第8章 誰が何に値するか?」では、そんな現代の正義論とは対照的なアリストテレスの思想が取り上げられており、彼の「考えでは、正義をめぐる論争は必然的に、名誉、美徳、善き生をめぐる論争になる」。例えば、「最もよい笛をもらうべきなのは誰だろうか」という問いの答は「笛を最も上手に吹く人」であり、笛はうまく演奏されるために存在するからというのがその(目的論的な)理由になる。

このように「アリストテレスにとって、正義は適性の問題」だが、「リベラル派の正義論では、正義は適性ではなく選択にかかわる。権利の割り当ては、その人の本性に合った役割を割り振ることではない。人びとにみずからの役割を選ばせることだ。…その人の本性にふさわしいと思われる役割を他人が割り振るのではなく、本人みずからの役割を選ばせるべきだというのだ」。

そして、これまでの議論を前提にしてようやく著者自身の考えが明かされるのが「第9章 たがいに負うものは何か?―忠誠のジレンマ」であり、その根本にあるのは「道徳的個人主義者にとって、自由であるとは、みずからの意思で背負った債務のみを引き受けることである。…そうした自由の概念には欠陥があると私は思う」という思想。

カントやロールズは、功利主義を否定するために「正は善に優先すると主張する」が、それでは「アリストテレスの正義の考え方も間違っている」ことになってしまう。「善き生の概念に対して正義は中立的であるべきだという考え方は、人間は自由に選択できる自己であり従前の道徳的束縛から自由であるべきという発想を反映している」が、「選択の自由は―公平な条件の下での選択の自由でさえ―正義にかなう社会に適した基盤ではない」。

「リベラル派の考え方では、責務の生じ方は2種類しかない。人間に本来つきものの自然的義務(=これらの義務は自律的意志(カント)または仮説的社会契約(ロールズ)から生じるため、合意という行為を必要としない。)と、合意の上で受け入れる自発的責務である」。これに対して連帯の責務を加えようというのが著者も属する「コミュニタリアン共同体主義者)」の立場であり、彼らの主張する道徳的責任には次の3つのカテゴリーが存在することになる。
1 自然的義務:普遍的。合意を必要としない。
2 自発的責務:個別的。合意を必要とする。
3 連帯の責務:個別的。合意を必要としない。

この連帯の責務を理解するのに役立つのが、アラスデア・マッキンタイアが「美徳なき時代」という著書の中で提唱している「物語的な考え方」であり、それは「『私はどうすればよいか』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか』という問いに答えられる場合だけだ」というもの。

そこには「目的論と予測不能性が共存」しているために選択が必要になるが、選択とは「私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれている」ところの「私の人生の物語」の解釈から生れるものであって、意志が支配する行為ではない。「私は過去を持って生れる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係をゆがめることなのだ」。

そんな訳で、まあ、ここまでは一応納得しながら読み進めてきたのだが、その後の「連帯の責務」となりうるものの例示のところで激しく困惑。そこで取り上げられている「公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞がたがいに負う特別な責任、仲間との連帯、村やコミュニティや国への忠誠、愛国心、自国や同胞に感じる誇りと恥、兄弟や子としての忠誠心」に関する事例(=特に愛国心や家族愛関係)には、これまで特殊な感情に基づく特例(=緊急避難や親族相盗例的なもの)みたいに考えてきたものが多いので、いきなりそれらを正義の問題として判断しろと言われてもなかなか思考が追い付いていかない。

そんな困惑をよそに、著者は「リベラル派の政治理論は、政治と法律を道徳的・宗教的な賛否両論から切り離すための試みとして生まれた。…だが、この意図が成就することはない。正義と権利をめぐって白熱した議論が繰り広げられている問題の多くは、賛否両論あるいは道徳的・宗教的問題をとりあげられずには論じられない」と断じており、さらに「達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。…リベラル派が恐れて立ち入らないところに、原理主義者がずかずかと入り込んでくるからだ」という脅迫まがいの警告まで発してくる。

最後の「第10章 正義と共通善」では、改めてロールズの「十分な理性を持つ良心的な人格が、自由に討論したあとでさえも、全員が同じ結論に達することは期待できない」という言葉を引用して「道徳的・宗教的不一致に直面した場合の寛容の必要性」について触れているのだが、結局、リベラル派が選択の自由を尊重する中立的な言葉を使うようになった間隙を突いて台頭してきたのはキリスト教右派による道徳的・宗教的言説。

そして、「正義と権利の議論を善き生の議論から切り離すのは、二つの理由で間違っている。第一に、本質的な道徳的問題を解決せずに正義と権利の問題に答を出すのは、つねに可能だとはかぎらない。第二に、たとえそれが可能なときでも、望ましくないかもしれないのだ」として、「妊娠中絶と幹細胞をめぐる論争」や「同性婚」といった具体的な問題を再び投げかけてくる。

確かに、これらの問題を「中立性と選択の自由」だけから判断するのは困難であり、それらの「目的とそれが称える美徳について考え抜かなければならない」のはやむを得ないような気になるが、「そして、そうすることによって、われわれは論争の的である道徳的領域に入り込む」と言われると、何だか著者に上手く丸め込まれてしまったような感じもしてくる。

結局、「正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない」というのが本書の結論であり、最後に、そうして得られた「共通善に基づく新たな政治」のスケッチが紹介されている。

そこに描かれている著者の理想像(=市場に対する道徳的限界の設定や公民的生活基盤の再構築)は大いに賛同しうるものであり、第9章で生じた彼への不信感を一気に払拭してくれる内容になっている。しかし、少々心配なのは新自由主義の信奉者たちとともに「善き生の意味」を考えた結果、本当にそのような共通善にたどり着けるのかという点であり、う~ん、ひとまずコミュニタリアンの考えに対する(戦略的な?)評価についてはしばらく差し控えておこうと思う。

ということで、最後に少々ロールズの擁護をさせて頂けば、彼の正義論はもっぱら富や権力の「分配の正義」をテーマにしたものであり、妊娠中絶や同性婚といった社会問題に対する“正義論の不確定性”については彼自身も認めている。しかし、同時にそれは「欠点ではない。それこそがわれわれの期待すべきものなのである」とも主張しており、われわれは慎重な判断によってより良い「制度を選択することができる」という彼の姿勢は、サンデルの結論にも通じているような気がします。