国家に抗する社会

ピエール・クラストルというフランス人の人類学者が1974年に発表した政治人類学の本。

先日拝読させて頂いた「『文明論之概略』を読む」の最後のところで、丸山真男は「主権国家を主要単位とする世界秩序原理」は決定的な破綻の様相を呈していると指摘していたのだが、それから30余年が過ぎた現在においても「国家」の勢いは衰えを見せず、移民問題を契機にして逆に“自国ファースト”が世界的なブームになりつつある情勢。

また、辺野古への米軍基地移設の問題を見ていても、まずもって優先されるべきなのは「国家」の利益であり、そのためには地方自治基本的人権が犠牲になるのもやむを得ないというのが我が国の現状。そんなことへのモヤモヤ感が募っていたちょうどそのときに目にしたのが本書のタイトルであり、モヤモヤ解消に役立つのならという気持ちで読んでみることにした。

さて、内容は、アメリカ・インディアン(=一般的にはインディオと呼ばれることの多いラテン・アメリカの原住民)の研究者である著者が発表した11の論文を取りまとめたものであり、テーマは多岐にわたっているものの、最初から順番に読んでいくと本書のために書き下ろされたという最終章の「国家に抗する社会」の内容がとても良く理解できるという仕組みになっている。

最初の「コペルニクスと野蛮人」では、まず、アメリカン・インディアンの社会においてはありふれた存在である「権力(=正確には強制的権力)を持たない首長制」の紹介をした後、自民族中心主義や進化主義に捕われた従来の人類学ではその存在を正当に理解することは出来ないと主張する。

何故なら、マルクス主義を含む従来の見解は、「その内部に革新と変化と歴史性の原因を備えた」いわゆる「歴史をもった社会」を前提としているからであり、そういった社会に特有の「強制力、暴力としての政治権力」の存在は説明できても、アメリカン・インディアンのような「歴史なき人々」に見られる「非強制的権力の基礎は何かという問いには、答えは与えられていない」。

ちなみに、こういった主張の根源にあるのは「政治権力こそ、社会における絶対的差異を構成するのではないか…そこにこそ、社会の根源としての根源的分裂、あらゆる運動とあらゆる歴史の始点となる切断、あらゆる差異の母胎としての始源的分割があるのではないだろうか」という著者の強い問題意識であり、それを解き明かすためには「科学」ではなく哲学、すなわち思考することが必要なのだ、というのがここでの結論になる。

続く第2章の「交換と権力」は著者の処女論文であり、そこでは「権力を持たない首長制」の有する三つの基本的特徴、すなわち首長は?(命令によってではなく)彼自身の威信、不偏不党さ、言葉によって、係争を解決し、諍いを鎮めなければならず、?自分の財物について物惜みせず、人が求める物を全て与えなければならず、また?巧みな弁舌によって彼に従う集団を喜ばせなければならない、ことが説明される。

さらに補足的な特徴として?一夫多妻婚という特権が認められていることが挙げられるが、ここで注意すべきなのは、首長が与え得る乏しい財&語と彼が受け取る女性との間に互酬性の関係は成立していないということ。彼ら「の社会は、権力の超越性が集団にとって死命を制する危険を内包していること…を、いち早く感じとった」のであり、この交換に(レヴィ-ストロースが主張するような?)社会契約=権力の萌芽を見ることは間違いである。

第3章と第4章では、アメリカ・インディアンの社会がこれまで考えられていた以上に複雑な構造を有しており、かつ、人口規模も大きかったことが述べられているが、面白さの点では次の「弓と篭」が圧倒的。自分で捕まえた獲物を食べることを禁じられたばかりか、妻も他の男と共有せざるを得ないというグアヤキの狩人たちが、自らの充たされぬ思いを夜ごとの歌声に托すという内容は、まるで良く出来たSFを読んでいるみたいだった。

続く第6章から第9章まででは、インディアンの言葉や神話の問題が取り上げられており、「分離された権力を拒絶する」未開社会では首長の語りは空虚なものにならざるを得ないことが明らかにされると共に、不完全で滅びうるもの(=「一」)に支配された現実(=「悪しき土地」)から逃れるためには、規範を守り、「天界の住人によって悪なき土地への道が開かれる」のを待つべしという、彼らの神話が紹介される。

未開社会における加入儀礼の意味を探った第10章の「未開社会における拷問」も大変興味深い内容であり、加入儀礼によって若者の身体に刻みこまれた痕跡が意味するものは、「お前達はわれわれの仲間である」という社会的帰属の証しと「お前は他の誰かより価値が劣ることもないし、またそれを超えることもない」という不平等禁止の未開の法。

一方の国家の法は「不平等を基礎付け保障する法」に他ならず、彼らは、加入儀礼という「恐るべき残酷さを代償として、より一層恐怖すべき残酷さ(=不平等!)が現出するのを防」いでいた訳であり、この章において初めて「古代的な社会、刻印の社会は、国家なき社会、国家に抗する社会なのだ」という本書の最重要テーマがその全貌を現す。

最後の「国家に抗する社会」では、ここまで様々な形で提出されてきた“「最初の豊かな社会」、すなわち人間が自分の必要を越えて労働する必要のなかったという未開社会から、我々が一歩外に踏み出してしまったのは一体何故なのか”という疑問に対する詳細な検討が行われており、ここだけ読んだのではちょっと戸惑うような記述でも、前章までの予習が済んでいるので割とスッキリ読み進めることが出来る。

著者は、この失楽園の契機となったのは、新石器革命のような経済的変化ではなく、政治革命、すなわち「われわれが『国家』という名で知っているものの顕現」であると主張するのだが、その前提と考えられる私有財産が出現したのは何故か、また、それを保護するための政治権力はどこからやって来たのかという問いに対する回答はなかなか難しい。

何故なら、「未開社会は、首長が専制主に転化するのを許容しない」社会だからであり、例外的に権威の行使が認められる戦争状態の永続化は「決してうまくゆくことはない」し、また、「未開社会を…揺がしうる力をもつ」かもしれない人口密度の増加に対しても、「国家の普遍的本質としての『一』の根源的な拒否によって不幸を廃絶しようとする」予言者群の行為によって対抗してきたはずだからである。

そして、最後の容疑者として著者が名指しするのは、この首長の専制化に歯止めをかけてきた「予言者の言葉」であり、「この言葉の権力。そこには、まさに権力そのものの源泉、『言葉』のうちなる『国家』の始源があるのだろうか」と述べるのだが、まあ、ここは一先ず、政治権力の起源は「おそらく、今しばらくは…神秘的なままであり続けるのだろう」としておいた方が無難だろう。

ということで、著者自身、「未開社会存立の基本条件のひとつとして、その人口規模の相対的小ささというのがあるのは確かだ」と認めており、現状を未開社会の状態に引き戻すのは到底不可能。しかし、不平等こそが国家の最大の弊害であるという本書の主張は重要であり、今こそ「殺した獣を、自ら食べてはならない」というグアヤキの狩人たちのルールを復活させるような政治革命を目指すべきではないでしょうか。