人間 -この象徴を操るもの

エルンスト・カッシーラーが1944年に発表した“人間文化”の哲学書

本当は同じ著者の「国家の神話」を読みたかったのだが、近くの図書館に置いてなかったので仕方なく本書を先に読んでみることにした。ユダヤ系ドイツ人である著者が亡命先のアメリカで執筆したということで、痛烈なナチズム批判が大宗を占めているのかと思ったが、実際にはナチスのナの字も出てこない極めて穏当な内容であった。

さて、本書は、第1章から第5章までから成る「第1編 人間とは何か」と、第6章から第12章までの「第2編 人間と文化」の二部構成になっており、冒頭の「第1章 人間の、自己自身の認識における危機」では、“人間とは何か”という困難なテーマと格闘してきたこれまでの哲学の歴史が要領よく紹介されている。

すなわち、ソクラテス以降、「形而上学、神学、数学および生物学は、人間の問題に関する思想の指導性をつぎつぎに握っており、その研究方向を決定し」てきたのだが、現在はこのような「あらゆる個人的努力を指導しうるような、中心的な力が消滅した」時代であり、心理学や民俗学といった比較的新しい学問が提供してくれる豊富な知識を支配し、組織化することが出来ずにいる、というのがここでの問題提起。

これに対する回答として「第2章 人間性への鍵-シンボル」で提唱されるのが、「人間は、ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる」という著者の象徴(シンボル)論であり、「あらゆる動物の『種』に見出されるはずの感受系と反応系の間に、人間においては、シンボリック・システム(象徴系)として記載されうる第三の連結を見出す」とされる。

それは、「第3章 動物的反応から人間の反応へ」で検証されているとおり、人間に特有の能力であるが、我々が空間や時間を真に「抽象的またはシンボル的」に説明し、記述できるようになるまでには「哲学と科学は長い道を歩」まなければならなかったというのが「第4章 空間および時間の人間的世界」の内容。

しかし、こうした「『物』の現実性と可能性の間に、はっきりした区分」を設けようとする「シンボル思考」を人間が会得したことの意義は極めて大きく、例えば「ルッソーの自然状態の記述は、過去の歴史的叙述」ではなく、「人類のために、新しい未来を画き、実現せしめようという意図をもったシンボル的構成物」に他ならない。

すなわち「シンボル思考こそ、人間の自然の慣性を克服し、人間に新しい能力、人間的宇宙を不断に再建する能力を与えるものである」という「第5章 事実と理想」の力強い結びの文章が「第1編 人間とは何か」の結論になる訳であるが、良く考えてみるとこの「新しい人間的宇宙」が常にユートピア(理想郷)になるという保証はどこにも無いんじゃないのかなあ。

さて、続く「第2編 人間と文化」では、「哲学は人間文化の個々の形式を分析するだけでは満足し得ない。それは、あらゆる個々の形式を包含する、普遍的、綜合的な見解を求める」という「第6章 人間文化による人間の定義」での決意表明に引き続き、神話と宗教(7章)、言語(8章)、芸術(9章)、歴史(10章)および科学(11章)の各分野について、それらを結合する「一般的機能」の内容を明らかにしていく。

中でも最も刺戟的なのが「第7章 神話と宗教」であり、「神話は、そのそもそもの発端から、潜在的に宗教である」と主張する著者は、ギリシャ宗教の進歩を例にとり、トーテム信仰(=自然に対する“共感”)にも通じるような原始的宗教が、「任務を持つ神」の段階を経て人格的な神を獲得し、ついには自然の神であったゼウスが正義の守護者になるまでの経緯を要領よく説明してくれる。

そして、その今のところの(?)最終形態が「道徳的な力に由来する」ところの一神教であり、そこでは「自然への接近は、情動的な側面からではなく、合理的側面から行われることにな」り、人間は「ただ、自由により、自己に依存する決意によって」正しい行いを選択することを通してのみ、神に通じることが可能となる。

しかし、そのことは、神話の世界に見られるような「すべての物は、好意か悪意をもつものであり、友情か敵意を抱くものであり…」という「我々の相貌的経験そのものの素材が、破壊され消滅することを意味するものではない」とされており、う~ん、このへんの記述にはやはり著者のナチズムに対する問題意識が反映しているのかも知れない。

最後の「第12章 要約と結論」では、ダメ押し的に「神話的思想は…人間生活の現在の形式を了解し、説明し、また解釈するために、それを遠い過去に帰する」こと、すなわち「大昔からそうであった」というより外に積極的な理由を有しておらず、「それゆえ、原始宗教は個人が自由に思考する余地を全く残していない」と改めて批判しており、まあ、何かというと“万世一系”を持ち出すような方々にとっては耳の痛い話だろう。

ということで、「原著者序」には「本書は学者または哲学者のみに対して書かれたものではない」とされており、確かに文章自体は平易に書かれているのだが、その内容的な密度の高さは尋常ではなく、ちょっと気を抜いて読んでいるとたちまち論旨不明になってしまうくらい。しかし、なかなか面白い内容だったので、本命だった「国家の神話」もそのうち読んでみるつもりです。