“意志と責任の考古学”という副題の付けられた國分功一郎の哲学書。
タイトルからして何やら難しそうだが、2014年に「精神看護」という雑誌に連載された文章がベースになっており、一般向けに書かれているため決して“難解”ではない。勿論、内容をどこまで深く、正確に理解できるかは読み手の力量にかかってくるのだろうが、取り上げられている題材はバラエティに富んでおり、正直、とても面白かった。
さて、タイトルにある“中動態”というのは、現在、常識として考えられている能動態と受動態の区別が確立する前に存在していた動詞の態であり、フランスの言語学者であるエミール・バンヴェニストの指摘によれば「もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった」らしい。
ここで注意すべきなのは、この「『中動態』という名称は、中動態が表舞台から追いやられた後の、このパースペクティヴよりつくられたものである」という点であり、「能動態と受動態の対立を大前提としたうえで、それに収まらない第三項として中動態を取り上げるやり方」は適当とは言えない。
「中動態を定義するためには、中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはず」であり、それを考慮したバンヴェニストによる定義は、「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座〔siege〕となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」というもの。
すなわち、「能動と受動との対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」のであり、そこでの「『能動性』とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば『主体性』といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している」。
そして、これを“意志”の観点から見てみると、前者の対立が「意志の概念を強く想起させる」のに対し、後者では「主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」ことになる。
さて、「あとがき」で述べているとおり、以上のようにして「中動態の漠然としたイメージに概念的な枠組みを与え」た後、いよいよ著者は「それを高次のイメージへともたらすこと。いわば、中動態の『概念的イメージ』とでも呼ぶべきものを提示する」ことに取り掛かるのだが、ここからの奔放な筆の走りこそが本書の真骨頂。
内容は、アレント、ハイデッガー、ドゥールズ、スピノザ等々、極めて多岐に渡るためとても全部は記憶できないが、一番面白かったのは第6章の「言語の歴史」で紹介されている「出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語への移行」に関する説明であり、それによると「実は動詞は言語のなかにずいぶんと遅れて生じてきた要素であることが分っている」らしい。
「動詞とは発達した名詞である」という言葉が示すとおり、「動作を表す抽象名詞によって、名詞文という形で構文が形成される時代がまずあった」そうであり、その人称をもたない動作名詞から「行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示」す動詞が生まれる。「つまり、動詞の歴史のなかで人称の概念はずいぶんと後になって発生したもの」であり、一人称や二人称は非人称形態(≒三人称)より後になってから登場したものである。
そして、人称や態を獲得してからも「動詞と行為者との関係については、(能動と中動の区別によって)動作プロセスの内側に行為者がいるのか、それともその外側にいるのかが問われるに留まっていた」のだが、その後、「能動と受動の区別によって、行為者が自分でやったのかどうかが問われるようにな」ってしまう。
これが著者の説く「出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行」であり、「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない」。この前の章で著者は「純粋で絶対的な始まり」としての意志の存在に対し強い疑念を呈しており、このような現在の言語を「いわば尋問する言語である」と評している。
さらに、著者は「憶測」と断った上で「非人称として生まれた動詞はまず、中動態へと承継される意味を獲得し、その後、能動態を生み出していったのではないか」という自説を披露しており、勿論、当方にその当否を判断する能力はないのだが、こういった発想は、例えばアニミズムから一神教(さらには原理主義)へ、原始共産から私的所有(さらには新自由主義)へといった歴史観と何か共通する“思想”を有しているような気がした。
また、スピノザを取り上げた第8章「中動態と自由の哲学」の内容も興味深いものであり、「スピノザにおいて能動と受動は、変化の二つの有り様を指す。変状は、その変状を被る物体の本性だけでそれが説明されるときに能動と言われ、その変状を被る物体の本性だけではそれが説明されないときに受動と言われる」とのこと。
「われわれは外部の原因から刺戟を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを決定するのではな」く、それを受けて開始される「中動態(内態)によって指示される、様態の自閉的・内向的な過程」が重要なのであり、それ故、外部から「同じ刺戟を受けたとしても、個体ごとに変状の仕方が異なり、また同じ個体であっても時と場合によっては別の仕方で変状しうる」ことになる。
そして、「その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現して」いないことから受動(=斥けるべき状態)と判断され、逆に「われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき」は能動(=目指すべき状態)となる。(したがって、能動と受動は二者択一のものではなく、度合いを持つものであることに注意が必要である。)
このように「能動と受動を行為の方向性として捉える一般的な考え方を斥け、行為として現れた変状の質をその代りに置いた」ところがスピノザ説の利点であり、この能動と受動を自由と強制に置き換えれば、それが彼の自由論になる。「すなわち、自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由であ」り、「自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状況に陥る」という訳である。
そして、最後の第9章「ビリーたちの物語」で取り上げられているのがお待ちかねの「ビリー・バッド」。そこでは「ビリー、クラッガート、ヴィアをそれぞれ、善、悪、徳として捉えるアレントの読解」が紹介されており、その結論は「徳は犯罪を阻止するだけでなく、善が行使する暴力をも罰せねばならない。徳は法をもってこれを遂行する。…悲劇は、法律は人間のためにつくられているのであって、天使や悪魔のためにつくられたのではないという点にあった」というもの。
著者はこれを「われわれをとてもつらい気持ちにさせる真理」と評価しながらも、この三人を「善と悪と徳を体現するアレゴリカルな形象であるのみならず、何気ない日常生活のなかで不自由を感じつつもなんとか生きているわれわれを映し出す存在であるとしたら、彼らがかかわった法は、われわれのようなありふれた人間を裁くものとしても実はうまくできていないのではなかろうか」と述べて、中動態の世界(=人々が自由と強制の間をフラフラと彷徨っている。)を前提としていない法の不備についても言及しており、なかなか勉強になる内容であった。
ということで、雑誌の連載だったせいか、学術書的なお堅い雰囲気は希薄であり、最後までとても楽しく読み終えることができた。残念だったのは“意志”に関してはそれなりのページ数が割かれているのに対し、“責任”に関する記述が物足りないところであり、新自由主義に由来する自己責任論が横行する中、是非とも中動態の世界を前提とした著者の責任論を聞かせて欲しいと思います。