暇と退屈の倫理学

哲学者の國分功一郎が2011年に発表した著作の増補新版。

以前読んだ「中動態の世界」がなかなか面白かったので、暇つぶしがてら(?)に読んでみようと思ったのだが、暢気そうなタイトルにもかかわらず、物理的にも内容的にもとてもボリュームのある作品であり、寝転んで読むのには全く適さない。仕方がないので、いつものようにメモを取りながら読むことになってしまった。

さて、「序章 『好きなこと』とは何か?」によれば、本書のテーマは「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」というものであり、「第1章 暇と退屈の原理論」でまず引用されているのが、「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起る」というパスカルの言葉。つまり退屈こそが「人間のすべての不幸の源泉」であり、ニーチェによれば「この退屈の苦しみ…から逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではない」。

そんな退屈の起源を探るのが「第2章 暇と退屈の系譜学」であり、そこで紹介されている西田正規の「定住革命」論によると、気候変動等によって「遊動生活」から「定住生活」への移行を余儀なくされたことにより、人間が「自分の肉体的・心理的な能力を存分に発揮する」機会を奪われてしまったことが今の退屈の源泉になっているらしい。

続く「第3章 暇と退屈の経済史」では、「モデルチェンジによって退屈しのぎ、気晴らしを与えられることに慣れきっている」我々の消費スタイルが、非正規雇用の拡大という「現在のポスト・フォーディズム的生産体制の根幹にある」という指摘が興味深いが、そんな消費社会の検討を行っているのが「第4章 暇と退屈の疎外論」。

ボードリヤールによれば浪費と消費は別の概念であり、物の受け取りには限界があるために「浪費はどこかでストップする」のだが、物に付与された観念や意味を受け取るだけの「消費には限界がない」し、それは「けっして満足をもたらさない」。この「消費は退屈を紛らわすために行われるが、(決して満足をもたらさないが故に)同時に退屈を作り出してしまう」という「消費と退屈との悪循環」こそが「消費社会がもたらした『現代の疎外』」であり、「その疎外は、暇なき退屈をもたらしている」。

そして、続く「第5章 暇と退屈の哲学」で取り上げられるのが、著者が「退屈論の最高峰」と高く評価しているハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」であり、彼はそこで退屈には以下の3つの形式が存在すると主張しているらしい。

退屈の第一形式は「何かによって退屈させられること」であり、事例として、片田舎の駅舎で4時間後にしか来ない列車を待っている状況が挙げられていることからも分るとおり、これが最も一般的な意味での退屈を指している。そして、その「現象の根源には、物(=事例の場合は駅舎)と主体との間の時間のギャップが存在している」そうであり、「それによって〈引きとめ〉が生じ、〈空虚放置〉される」ことになってしまう。

退屈の第二形式は「何かに際して退屈すること」であり、事例として挙げられているのは、行かなければならない訳ではないが、時間が空いていたので招待に応じたパーティー。「ここで私は、パーティーに際して退屈している訳だが、実は同時にそのパーティーが気晴らしであるのだ」というように「退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている」のがその特徴であり、「そこで人が感じているのは、気晴らしと区別のできない退屈である」。

退屈の第三形式は「なんとなく退屈だ」というものであり、「ハイデッガーによれば、先の二つの形式は何らかの具体的な状況と関連している。それに対し、最も深い退屈は状況に関わらず、突発的に現われる」らしい。それが「最も深い退屈」と言われるのは、「この第三形式からこそ、他の二つの形式が発生する」からであり、例えば、「列車をまつことにあれほどの退屈を感じる」のは、この第三形式の退屈から逃げるために我々が自ら進んで「日々の仕事の奴隷」になり、「時間を無駄にしたくない」と考えているからに他ならない。

「第二形式の退屈の発端になっているあの気晴らし(パーティー)」にしても、「そもそものはじめから(この第三形式の)退屈を払いのけるために考案されていた」訳であるが、「第二形式では私たちは自分に時間を与えていた。第一形式のように奴隷になっていない…それ故にこそ、ハイデッガーは、第一形式の方が自己喪失が大きいと言うのである」。

そして、ハイデッガーはこの第三形式の退屈の源泉を自由に求め、「退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよ」と主張し、それが彼の退屈論の結論になっているのだが、「最終的なハイデッガーの解決策はどうも腑に落ちない」というのがそれに対する著者の評価。

その理由を明らかにする前に「ユクスキュルの言う環世界」の概念を紹介しているのが「第6章 暇と退屈の人間学」であり、「たとえばダニは三つのシグナル(=酪酸のにおい、摂氏37度の温度、体毛の少ない皮膚組織)からなる環世界を生きている」ように、「すべての生物は別々の時間と空間を生きている!…あらゆる生物はそれぞれがそれぞれの環世界を生きている」というのがその具体的な内容。

この考え方を利用して、著者は「人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない」のではないか、という結論に至り、その視点から「人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである」として、ハイデッガーの退屈論を修正している。

そして、最終的な著者の考え方が示されるのが最後の「第7章 暇と退屈の倫理学」であり、最初にハイデッガーが「決断した後の人間のこと」を考えていないことを批判した後、「第三形式の退屈を経て決断した人間と、第一形式の退屈のなかにある人間はそっくりなのだ。…その人間はもしかしたら、その仕事を決断によって選び取ったのかもしれないのだ。…決断する人間にも甚大な自己喪失がある」と主張する。

結局、「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡のなかに生きている。しかし、何かが原因で『なんとなく退屈だ』の声が途方もなく大きく感じられるときがある。…そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。…その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る」というのが、ハイデッガーのものを修正した著者の退屈論であり、「第二形式において描かれた気晴らし」を「人間が、人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵」として肯定的に評価しているのが大きな特徴。

そして、「〈暇と退屈の倫理学〉が向かう二つの方向性」として本書の結論的に紹介されているものの一つ目が「贅沢を取り戻すこと」であり、具体的には「退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである」とされる。勿論、そのためには今の消費社会が提供する「消費」はむしろ有害であり、我々は「観念」ではなく「物を受け取れるようになるしかない」。

結論の二つ目は「〈動物になること〉」であり、それは「世界を揺るがすニュースでもいい、身近な出来事でもいい、芸術作品でもいい、新しい考えでもいい」から、「何かによって〈とりさらわれ〉」、「その対象によってもたらされた新しい環世界のなかにひたる」こと。正直、あまり上手いネーミングとは思えないが、おそらく、一つ目の説明に含まれる「人間であること」と対にしたかったのだろう。

以上が本書の概要だが、実際にはこれら以外にもラッセル、ガルブレイス、モリス、ヴェブレン、ホッブス、ルソー、マルクスアレント等々の理論が数多く引用されており、それらを自由自在に操りながら議論を進めていくというアクロバチックな手法が本書の大きな魅力になっている。(増補新版に収録された論文では、さらに「サリエンシー」なる概念を利用して「心の中に沈殿していた痛む記憶…こそが退屈の正体ではないだろうか」と主張している。)

しかし、アクロバチックの華麗さの内側には現実から遊離した論理の危うさも含まれている訳であり、例えば〈動物になること〉の説明で使用されている「その時、人はその対象によって〈とりさらわれ〉、その対象について思考することしかできなくなる」という精神状態と、著者が最も恐れている「奴隷になること」で得られる安寧との違いは、必ずしも明確になっていないような気がする。

また、贅沢を取り戻すことによって「人の生活がバラで飾られるようになれば、人間関係も産業構造もすこしずつ変化していくだろう。非正規雇用を構造的に要請するポスト・フォーディズム的生産体制も見直しを余儀なくされるだろう」というのも楽観的に過ぎる印象であり、少なくともスマホやゲーム機に関する「消費と退屈との悪循環」を断ち切るためには、個人レベルの努力ではなく、過度のバージョンアップを禁じるような法的規制が必要になるだろう。

ちなみに「贅沢を取り戻すこと」の行動内容が具体性に欠けるところが気になったが、第4章の注26によると「消費社会がもたらす新しい社会的強制には『新しい型の解放の要求でしか対応できない』」と主張したボードリヤール自身、「この『新しい型の解放』が何なのかを…十分に示せなかった」そうであり、そのようなものを本書の結論として紹介するのはちょっと無責任ではなかろうか。

ということで、読んでいて疑問に思うところも少なくないのだが、それも著者が重要視している「論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく」ことの現われの一つなのだろう。とにかく、読んでいてとても楽しいし、勉強になることは間違いなさそうなので、今度は以前から興味のあったスピノザ関係の著作を読んでみようと思います。