逝きし世の面影

 江戸末期から明治の初めにかけて日本を訪れた欧米人が残した訪日記を題材にした渡辺京二の代表作。

「第一章 ある文明の幻影」によると、本書における著者の「意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある」そうであり、その「滅んだ文明」というのは「江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式」のこと。

そして、それを知るための資料として目をつけたのが、初代駐日英国公使のオールコックや高名な日本研究家のチェンバレン、探検家イザベラ・バード、動物学者のモース等が残した数多くの訪日記。「第二章 陽気な人びと」によると、彼らが日本に対して「最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった」らしい。

もちろん、西欧諸国に比べれば暮らしぶりはいたって貧しいのだが、「この貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態」にあったそうであり、「これほど原始的で容易に満足する住民」を見たのは初めてと驚く外国人もいたそうである。

その理由として挙げられているのが「日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルだということ」であり、事実、「非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるもの」であったらしい。「福井の町は…西洋の都市を印象づける金色の風見のある尖塔とか、どっしりした破風やファサード、それに大きな建物などまったく見受けられなかった」というのは、要するにそこが“ピラミッドのない社会”であったということであり、“不幸なのは貧困ではなくて格差”というのは現代にも通じる真理なのだろう。

このような状況を著者が「当時の日本の貧しさは、工業化社会の到来以前の貧しさであり、初期工業化社会の特徴であった陰惨な社会問題としての貧困とはまったく異質だった」と分析しているのは至極納得のいくところであり、まあ、そんな訳で「第三章 簡素とゆたかさ」まで読み終えた時点では本書の内容に特に大きな違和感は覚えなかった。

残念なのは、その後、章を追うごとに訪日記に出てくるエピソードの分析が疎かになっていくところであり、特に「第七章 自由と身分」の「身分制は専制と奴隷的屈従を意味するものではなかった」とか、「第九章 女の位相」の「家制度とは男性本位のように見えて、その実、女性を主軸とする一種の幸福の保証システムではなかったのか」等々の評価は明らかに不用意と言わざるを得ない。

確かに、「上級者への一見屈辱的な儀礼は身分制の潤滑油にほかならなかった。その儀礼さえ守っておけば、下級者はあとは自己の人格的独立を確保することができた」のは事実なのかもしれないが、革命はおろか、参政権などという言葉にさえ全く縁のなかった当時の民衆の自由は、結局のところ“奴隷の自由”に他ならない。

それを「近代的観念からすれば民主的でも平等でもありえないはずの身分制のうちに、まさに民主的と評せざるをえない気風がはぐくまれ、平等としかいいようのない現実が形づくられた」と評価してしまうのは、「風と共に去りぬ(1939年)」のスカーレットとマミーの関係を見て、黒人奴隷の「一生は…そう窮屈なものではなく、人と生れて過ごすに値する一生であったようだ」と結論づけるのと同じことではなかろうか。

勿論、そういった記述が“日本人スゴイ論”に繋がりかねない危険性については著者も十分承知しており、「第十二章 生類とコスモス」では「私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある」と明確に述べている。

しかし、「第十四章 心の垣根」で「ダークサイドのない文明はない」と認めておきながら、それに重きを置かない理由を「なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから」という情緒的な回答で済ませてしまっているのは、学問的には不誠実と批判されても仕方ないところ。やはり「不運や不幸は生きることのつきものとして甘受された」という当時の日本人を支配していた「独特な諦念」の由来等に関して、もっと詳細に論じておく必要があったと思う。

ちなみに、フランス人ブスケによる「日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、『内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動』が欠けており、おなじく芸術にも『霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動』が欠けている」という批判をそのまま受け入れてしまっているのは少々疑問であり、まあ、江戸文明とは関係ないからなのかもしれないが、少なくとも鎌倉時代の仏教芸術には優れた精神主義が認められると思う。

ということで、著者は、「日本がポジティヴに評価されることに拒否感を抱き、一方日本に対するネガティヴな評価には共感する心的機制を植えこまれている」現在の日本人に対する強い不信感をお持ちのようであり、他方、「私の関心は『祖国』を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった」と改めて“あとがき”で述べている。しかし、本書の解説によれば「石原慎太郎氏が本書を高く評価」しているそうであり、また、そう書いている平川祐弘自身、“安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会”の発起人であったことを考えれば、正直、心配無用とは言い難い状況だと思います。