知の果てへの旅

数学者のマーカス・デュ・ソートイが2016年に発表した一般向けの科学解説書。

大学は文系だったので、高等学校卒業後における自然科学関係の知識の供給はもっぱらアイザック・アシモフの科学エッセイに頼っていたのだが、彼の惜しまれる死によってその補給路を断たれてしまってから早28年、ようやくその後継者に巡り会うことができたのかもしれない。

さて、本書のテーマは「その本来の性質からいってわたしたちが決して知りえないものがはたして存在するのか」を明らかにすることであり、まず、「その一 カジノで手に入れたサイコロ」で俎上に上げられるのはニュートン力学。彼の微分積分学と運動の法則の発見は「宇宙を数式で制御される決定論的時計仕掛けの装置に変えた」かに思われたが、ポアンカレ不本意にも発見に手を貸してしまった「カオス理論」によって、サイコロ投げの結果予測は、入力データの小数点以下の位をいくつにするかといったほんの些細な変化によって大きな影響を受けることが明らかになる。

「その二 チェロ」で取り上げられるのは原子論であるが、これに関しては「周期表を構成する118個の化学元素が、結局は電子と陽子と中性子の3つの基本構成要素の組み合わせ方ひとつで決まっていたように、宇宙線の衝突で見つかった何百種類もの新たな粒子も、単純な素材の組み合わせによって決まっている」というのが、多くの物理学者たちの現時点における結論。

その「単純な素材」というのは、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムという6種類のクォークと電子であり、これらの粒子は「まったく空間を占有していないらしく、まるで凝縮した一点のように振る舞う」ことからも、著者自身、これ以上「分割できないと信じてよいような気もする」と述べている。

ちなみに「ひも理論」というのは、「わたしたちには関わることのできない隠れた次元が存在する」ということを前提にしている点でクォーク理論とは全くの別物であり、それによると「これらの点粒子は、実は共振周波数で振動している一次元のひもで、周波数の違いが粒子の違いになるという」ことになるらしい。

そして「その三 壺入のウラニウム」に登場するのがお待ちかねの量子力学であり、「粒子の位置を知ることとその運動量を知ることとは、あちらを立てればこちらが立たずの関係にあるらしく、粒子の位置を測定する際の精度を上げていくと、粒子の運動量として考えられる値の幅がどんどん広がる」という「ハイゼルベルクの不確定性原理」は、まさに本書のテーマにピッタリ。

「つまり不確定性原理には、人間が自然を精査する際の固有の限界が含まれているのだ。どうやらある規模を超えると、何が起きているのかを知る術がなくなるらしい。その規模はごく小さく、具体的には約1.616×10のマイナス35乗メートルで、プランク長と呼ばれている」そうであり、「この視点に立つと、空間はアナログではなくデジタルに見える」とのこと。

また、この不確定性原理は「エネルギーの測定と時間の測定とを結びつけて」おり、「一見空っぽに見える空間で起きていることを観察する際に、空間を精査する時間を減らすと、エネルギー容量の不確かさが増える」。これが「エネルギーのゆらぎ」であり、「エネルギーは質量に変わりうるから、結果としては、真空から自発的に粒子が現われる」ことになる。

このことは「重力を負のエネルギー」であると考えればエネルギー保存の法則にも抵触せず、「けっきょくのところ、四次元ではなく三次元の空っぽの空間があるという事実そのものが、無ではなく何かがあるという証拠になる」らしい。正直、ここまで行ってしまうと完全に理解の範囲を超えてしまうのだが、なんだかとっても魅力的であることは間違いない。

この章にはこれら以外にも興味深い話がたくさん詰まっているのだが、読んでいて思わず膝を打ってしまったのは、「不確定性原理を観察という行為が系に及ぼす影響の結果として説明」しようとするときに頻用される「粒子がどこにあるのかが知りたければ、その粒子に向けて光子を発射しなくてはならないが、その光子にぶつかられた粒子がどれくらいの運動量を得るのかはわからない」という説明を、「誤解を招く恐れがある」として否定的に評しているところ。

実は、この「光子にぶつかられた粒子が~」という説明のニュートン力学的イメージが、波動関数の確率論的なイメージと上手く繋がらず、長年違和感を覚えてきたのだが、前者は「渋る編集者をなんとか説得して論文を刊行するために」採用された苦肉の策だったそうであり、それを知って何十年かぶりにスッキリすることが出来た。

さて、「その四 切り貼りの宇宙」で面白いのは「多元宇宙モデル」であり、「自然定数と呼ばれる電子の質量や重力定数、光の速度、陽子の電荷などの約20個の定数が生命を生み出して進化させるのに最適な値になるように微調整されているという事実は、未だにうまく説明できていない」。

そして、その答の一つとして考案されたのが「多元宇宙モデル」であり、我々の周りには「たくさんの宇宙が存在し、そのそれぞれに基本定数がランダムに割り振られ」ているのだが、そのうち「いくつかの宇宙では、たまたま原子が生命へとつながる方向に発展するのに適した定数の値になる」訳であり、我々の宇宙もその一つであるというもの。

これに対する著者の考えは、「多次元宇宙説はただの逃げ口上で、なんだか自分たちの努力が足りないような気がしてくる」というものだが、「別の選択肢として、超越した知性がすべてを微調整した」という主張より「説明が経済的だという魅力がある」ことは認めており、まあ、当面はこのアイデアで行くしかないのではなかろうか。

「その五 腕時計」では、まず、お馴染みのアインシュタイン一般相対性理論に基づく「重力と加速度が時間に及ぼす影響」が説明されるが、正直、何度読んでもそれを感覚的に理解することは困難であり、やはり著者の言うとおり「宇宙や『最果ての地』に至ろうとしたときに頼りになるのは、直観ではなく数学」なのだろう。

また、後半では今年のノーベル物理学賞に輝いたペンローズの“共形サイクリック宇宙論”も紹介されているが、「実は、熱の死による退屈な宇宙の終焉と興奮に満ちたビッグバンから始まる宇宙、この二つの筋書きを、二つの風景の境界をぴたりと合わせて連続する一つの風景を作るように切れ目なしにつなぎ合わせることができる」という彼の主張はなかなか魅力的。

しかし、総じて空間と時間が混じった「時空間」の概念をイメージするは非常に困難であり、「時間は基本的なものではなく、温度などと同じように発現する性質」に過ぎず、「したがって十分深く掘り下げれば、時間は消える」というカルロ・ロヴェッリ等の主張に烈しく同意したくなってしまう。

続く「その六 チャットボットのアプリ」で取り上げられるのは意識の問題であり、その中核をなすのが「何がわたしをわたしたらしめているのか、わたしたちの感情や意識を作り出しているのは、いったい何なのか」等々といった「意識のハードプロブレム」と呼ばれる一連の諸難問。

最先端の学説であるジュリオ・トノーニの「意識の統合情報理論(IIT)」によると意識は数式の形で表わすことが可能だそうであり、ネットワークの統合と既約性を示すΦ値がある閾値を超えたとき「たぶんインターネットもコンピュータも…鏡に映っているのは自分だと、認識できるようになるのだろう」。

これに対し、ウィトゲンシュタインのように「意識の問題は科学の問題ではなく、実は単なる言語の混乱であるということに気づけば、この難問は跡形もなく消え去る」という哲学者の意見も有力であり、う~ん、これって前章の時間の問題と同じような結論になるのかもしれないなあ。

そして、最後の「その七 クリスマス・クラッカー」で取り上げられているのは著者の専門分野である数学の問題であり、「数学者には、『決して知りえないこと』は存在しない」という「数学の確かさ」に関する彼らの信念は、ゲーデルの発見した不完全性原理によって木っ端微塵に吹き飛ばされてしまう。

ゲーデルが証明したのは、どんな数学の公理の枠組みを持ってきても、数学的には正しいのにその枠内では決して正しいと証明することができない言明が必ず存在する、という事実」であり、勿論、その具体的内容を理解するのは不可能だが、結局、他の分野と同様、「おそらく、自分たちがその系の一部であるこの宇宙を、内側から理解することは不可能なのだろう」ということになるらしい。

なお、この章の終わりの方では本書のテーマに対する著者の見解が述べられているのだが、それは「ヒトであるわたしたちにはすべてを知ることはできない」という謙虚さを抱きつつ、一方で「たぶんすべてを知ることができるはずだ」と信じる「精神の分裂状態を維持することが重要なのだろう」というものであり、まあ、無難な結論ということになるのだろう。

ということで、「訳者あとがき」によると、デュ・ソートイ自身、「アイザック・アシモフの啓蒙書に魅了され」た経験があるそうであり、“物事のはじめから説き起こす”というアシモフの科学エッセイにおけるスタイルは本書でもきちんと踏襲されている。ちょっとボリュームのあり過ぎるところが難点だが、次は「素数の音楽」を読んでみようと思います。