ヨブ記講演

内村鑑三1920年4月から12月にかけて行った21回に及ぶ講演の記録。

ヨブ記というのは、酷い話の多い旧約聖書の中でも飛び抜けて悲惨かつ不条理なエピソードであり、神とサタンによって「神は物質的恩恵の故に崇むべき者にあらず、神は神御自身の故に崇むべきものなり」という主張の真偽を判定するための実験材料に選ばれたヨブが、何の罪も犯していないにもかかわらず、ありとあらゆる災禍に見舞われてしまうという物語。

まあ、俺のような不信心者であれば“苦難続きで何の御利益も得られないユダヤの民の信仰心を繋ぎ止めておくため、苦し紛れにでっち上げたご都合主義的エピソード”とでも考えておけば良いのだろうが、内村のような熱心なキリスト教信者の場合、この話をどのように受容しているのかがかねてから気になっていた。

さて、ヨブ記を「人は何故に艱難に会するか、殊に義者が何故艱難に会するか」という問題を解くための「心霊の実験記」と捉える彼は、苦難には3種類のものがあるとし、「罪の結果として起るもの」及び「神より人に下る懲治(こらしめ)としての苦難」の他に「信仰を試むるために下る苦難」があると説く。

ヨブの被った苦難はこの三番目に該当する訳であるが、その原因になった彼の問題というのは「我の無価値を認めて専ら神に依頼むにあらず、我の信仰と行為に恃みてそこに小なる安心と誇りの泉を穿つ」という当時の「オルソドクシー(いわゆる正統教)」的思考。すなわち、「ヨブの苦闘は、要するにこの誤想より出でて新光明に触れんがための苦闘である」とされる。

内村は「一群の真理を固定の教条として相伝的、非実験的に丸呑にし自ら信条の純正を以て誇り、人に強ゆるにこれを以てし…」と定義されるこのオルソドクシー(=今風に言えば原理主義のことだろう。)なるものを「その信条、その神学の擁護のためには、ある時はいかなる罪をも犯して憚らない」と手厳しく批判しているのだが、その問題点は、ヨブと同様、オルソドクシーに毒されている3人の友人との論争を通じて明らかにされていく。

すなわち、「人の成敗栄辱を以て、人の信仰及び行為の善悪に帰する」のを当然と考える彼らにしてみれば、ヨブの受けている災禍は彼が犯した罪の結果に他ならず、ヨブに対して「その罪を懺悔せしめて禍より救わん」と試みるのだが、罪を犯した自覚の全くないヨブはこれを断固拒否。

最後の拠り所であった友人にも理解してもらえないと悟ったヨブは、遂に「罪なき彼を打つ神の杖の無情」を怨むに至るのだが、「かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦しみ」に他ならず、「かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づく」ものらしい。

そして、内村が「ヨブ記の絶頂」と言う第19章でヨブに訪れる啓示が、「25 われ知る我を贖う者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん、26 わがこの皮この身の朽ちはてん後われ肉を離れて神を見ん」という「贖い主の実在」確信と「来世信仰」であり、「神が彼に堪えがたきほどの災禍痛苦を下せし目的」が「贖い主を示す」にあったことが明らかになる。

まあ、これだけではピンとこないかもしれないが、内村は「ヨブの証者要求はすなわちキリスト出現の予表である」と主張している訳であり、まだキリストを知らないはずのヨブが暗中模索の末に「キリスト(=贖い主)を知り、その贖罪を信じ、その再臨を望み、そして自身の復活永生を信じ得るに至る」ことによって、無事、ハッピーエンドを迎えることになる。

実際にはヨブ記は42章まであるのだが、内村に言わせると20章以後は新たな信仰を得たヨブが「真に友を愛し得るに至った」道程を学ぶためのものであり、そこでのテーマは「我らはなお愛について学ばねばならぬ」。「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない」という名言は、信仰のみならず、いろんな場面で想起されるべき重要な言葉だと思う。

続いて語られるのが「ヨブの見神」であり、「神の著わせし書物に二つある、甲は聖書、乙は自然界(全宇宙)である」と考える内村は、「神の造りし壮大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる。海を制する力に、また黎明の絶美の中に彼は明らかに見ゆる」と言うのだが、時節柄、3.11の津波の映像なんかを見てしまうとちょっと複雑な気分かな。

そして、「神の摂理を認め己を神の僕と信ずる上は、苦難災禍我を襲い来るとも『御心をして成らしめ給え』といいて静かに忍耐すべきである。これ僕たる者の執るべき唯一の道である」というのが内村の結論になるのだろうが、42章の「ヨブは所有物において前の二倍となり…」について「これはなくも宜かったのである」と言っているのは、いかにも彼らしい。

ちなみに、神とサタンの賭け(?)のせいで命を絶たれたヨブの7人の息子と3人の娘について、「誰か子を失いし親にして、新たに子を賜わるも前の悲痛を忘れ得ようか」と親の側からの検討しか行われていないのは少々不満であり、いったい神は犠牲になった10人の子どものことをどう考えているのだろうか。

ということで、おそらく新約聖書福音書の記者たちがヨブ記を徹底的に研究したのは間違いないところであり、「ヨブの証者要求はすなわちキリスト出現の予表である」という内村の主張自体はとても納得できる。ただし、「来世の希望は奈落の縁に咲く花なり」として来世信仰に頼っているところがその致命的な限界であり、それって、結局、来世を恩恵にした必賞必罰のオルソドクシーになってしまうのではないでしょうか。