今日は、妻&娘と一緒に先週見られなかった話題作「ジョーカー」を見てきた。
公開前から楽しみにしていた作品であり、「ジョン・ウィック:パラベラム」を優先したのはそっちの方が先に終了する可能性が高かったから。この一週間、出来るだけ本作に関する雑音が耳に入ってこないように注意してきたが、“ブルース”なんていう名前がTwitterに流れているってことはバットマンも出るのかなあ、と首を傾げながら映画館へ向かう。
さて、ストーリーは、コメディアン志望の中年男アーサー・フレックが非情な社会の荒波に揉まれた末にジョーカーへと生まれ変わっていく様子が描かれており、少年時代の可愛らしいブルース・ウェインは登場するものの、バットマンの出番はなし。したがって、派手なアクションシーン等は一切出てこない、ある意味、とても真面目な作品だった。
終わりの方でCreamの名曲“White Room”が流れることから、時代設定は1960年代末頃と思われるが、舞台となるゴッサムシティには一足早く新自由主義の嵐が吹き荒れているようであり、ウェイン家をはじめとする裕福な名門が幅を利かせる一方で多くの庶民が貧困に喘いでいる。
さらには市長の独断による“選択と集中”の結果、アーサーの利用していた医療プログラム(=彼はこれによって精神安定剤のような薬を無料で入手していたらしい。)が中止されてしまうという状況は極めて現代的であり、終盤登場するピエロのお面を付けた群衆は香港市民による大規模デモを連想させる。
要するに、本作は1960年代末という時代設定にもかかわらず、“現在”を描いている訳であり、デヴィッド・ハーヴェイの言うように、新自由主義のもたらした悲惨な現状に対する支配階級側の回答が“新保守主義の台頭”であるのなら、大衆側の出した回答の一つが“ジョーカー”ということになるのかもしれない。
勿論、それは新保守主義の台頭と同様に極めて危険な徴候であり、何としても回避しなければならないのだろうが、本作がジョーカーを“理解しがたいモンスター”としてではなく、我々の負の心の延長線上にある“理解しうる人間”として描けてしまっているところが何とも無気味であり、正直、真面目で冴えないアーサーよりもジョーカーの方が何百倍も格好良かった。
ということで、バットマンの生まれた日(=両親が暴漢によって射殺された日)にジョーカーも生まれていたというストーリーは鳥肌モノだが、ブルースとアーサーの年齢差が大き過ぎるところがちょっとだけ引っ掛かる。おそらく(娘の言うとおり)ジョーカーは1人ではなく、アーサーの意思を継いだ別人が、後日、バットマンと死闘を繰り広げることになるのだと思います。