キリスト教の創造 ―容認された偽造文書―

バート・D.アーマンという新約聖書・原始キリスト教史の研究者が2011年に発表した本。

新約聖書の歴史的な成立ちについては、以前、加藤隆の「『新約聖書』の誕生」で勉強したのだが、本書はその裏に隠された“偽書”の存在にスポットライトを当てた著作であり、「実はペトロの名を冠した二つの書、すなわち『ペトロの手紙』一、二が新約聖書に収められている。どちらもペトロの作とされているが、彼が作者でないとする揺るがしがたい根拠がある」といった衝撃的(?)なエピソードがぎっしり詰め込まれている。

ここで著者が偽書と呼んでいるのは「別人(著名人)が書いたかのように見せかけている文書」のことであり、例えば「ほとんどの黙示録は、過去の有名な宗教家の名を借りたスーデピグラフィー(=著名人の名を騙った)」であるとのこと。初期キリスト教社会においては、「ユダヤ教徒や異教徒との衝突」に勝利するため、そして「キリスト教教会の頭痛の種だった内部闘争」に生き残るための手段として「文書を偽造するという戦法」が盛んに行われたらしい。

その結果、「新約聖書には、パウロが書いたとされる13通もの書簡が編入されており、実に新約聖書の半分近くを占めている。だが、そのうち6通は、おそらくパウロの作ではない」という異常事態を招来してしまった訳であるが、「驚くほど多くの学者が、聖書には偽書が収められているかもしれないが、それらの偽書は、誰かを欺くために作成されたわけでは決してないと主張している」。

彼らは、「神の精霊から霊感を受けたから…」、「有名な先達の思想を継承しているから…」、「作者として名前が記されている本人が、自分とは文体が違う秘書に書かせたから…」といった様々な理屈をつけて偽書の存在を擁護しようとするのだが、「それを裏づける十分な証拠は、古代資料を隅から隅まで読んでも見当たらない」し、「古代でも、偽造活動に従事した人間は、読者を欺く目的で嘘をついていると厳しく糾弾されていた」というのが著者の主張。

一方、四つの福音書に関しては、「作者として名前を冠された人物が、自分の著作と嘘をついているわけではない。後世の読者が勝手に名前をつけたのだ。つまり偽造ではなく、他人の名目を借用しただけである」として偽書には当たらないとしているのだが、「歴史的事実につき語っていると言われる多くの物語を、新約聖書のなかに見出せるが、しかし実際は作り話が多い」のは否定できない。

例えば、「アウグストゥス帝の時代には、ヨセフとマリアをイエスが生まれる前に、ベツレヘムに行かせるような人口調査は行われなかった。また東方の賢人をイエスのところに赴かせるべく導いた不思議な星も出ていなかった。ベツレヘムのすべての男の子を殺すよう、ヘロデ大王が命じたという事実もなかった。イエスとその家族が数年間エジプトで暮らしたという事実もなかった」。

また、「『ヨハネ』に載っている有名な姦通女の話…『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』。この話は、最も古い写本には出てこない。…この話自体はすばらしく、力強く、また多大の影響力を持ちうるものではあるが、あとから写字生によって付け加えられたという点に関しては、新約聖書の研究者のなかでは異論はない」という話にはちょっと吃驚。

まあ、最終の第8章では「親が子供に自分の信仰について教える場合、実際には信じていなくても、神は存在すると話して聞かせることに問題はないかもしれない…真実を伝えるよりも偽の情報を流すに足る大切な目的のためなら」と述べてはいるのだが、それがウォーターゲート事件モリカケ問題を許容するような“美しい嘘”に繋がりかねないのも事実であり、「恐らく突き詰めれば真実は嘘に勝るのだ」というのが著者の結論と言って良いだろう。

ちなみに、本書で一番印象に残ったのは「初期キリスト教の持つすばらしさの一つは、あまたの教師や集団の主張が、千差万別であることだ」という文章であり、そんな多様性を「使徒の『権威』による裏づけ」を悪用して原理主義化してしまったのが最大の問題。その結果、「イエスの教えのうえに築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。イエスは、言葉通り、本当に剣をもたらしたのだ」ということになった訳だが、これって明治政府による“国家神道の創造”と同じことなんだろう。

ということで、テーマ的にはちょっとスキャンダラスな雰囲気が漂っているものの、内容はいたって真面目であり、そのうち同じ著者の「捏造された聖書」も読んでみようと思う。なお、上記以外にも勉強になるエピソード等が沢山紹介されているので、備忘録的にそれらのいくつかを以下に記録しておこうと思います。

1 古代宗教は、絶対的な何かを信じるよう、人びとに強制しなかった。宗教とは、すなわち正しい手順にのっとって儀式を執り行うことだった。…現代宗教と古代宗教のいま一つの重要な違いは、古代の多神教が来世について大して関心がなかったことである。こうした多神教はもっぱら現世に目を向けていた。

2 黙示録(この言葉は「明らかにする」とか「明かす」という意味のギリシャ語に由来する)は、命に限りのある人びとがこの地上で起こる出来事の意味を理解する助けとなるよう、天国の真実を解き明かした文書だ。

3 パウロ…は、キリストの死と復活を信じることこそ、神の前で義となる唯一の道だと説いた。さらに、イエスの信徒になるにはユダヤ教徒である必要はなく、ユダヤ教徒も異教徒も等しく救済されるとした。…律法を遵守することは、見当違いより質が悪い。なぜならキリストの死が救済には不十分だと考えていることになるからだ。

4 四大福音書によれば、この使徒の本名はシメオン(=一般的にはシモン)である。イエスは、ペトロが教会の礎となる岩(ギリシャ語のpetros)になるだろうという意味を込めてこのように命名した。だから、ペトロは自分自身を「Rocky」(!)あるいはペトロと呼んだ。

5 ユダヤの律法を人びとに与えた神は、律法を破り罪を犯した人びとを救った神たりえない、というのがマルキオンにとっては当然の帰結だった。要するに、旧約聖書の神は、イエス使徒パウロの神ではないのだ。文字通り二体の神がいるのである。…イエスの神は旧約聖書の神ではなく、したがって世界の創造主ではない…

6 前の時代に生きていたイエス同様、パウロは自分たちが終末期に生きていると確信していた。イエスの復活は、世界の終焉がすでに始まっており、死者の復活が目前に迫っている兆しだった。…もしイエスがすぐに―たとえば今月中に―戻ってくると考えているなら、教会を組織化するための階級制度や指導者は大して必要ない。

7 イエスの信者にとって、旧約聖書はイエスの「再」来という強烈な状況だけでなく、彼の「最初」の出現に関わる重要な出来事も予言しているはずだった。そのためキリスト教徒は旧約聖書をひっくり返して、イエスの誕生、人生、死及び復活に言及していると解釈するのに都合のいい文言を、目を皿のようにして探した。…ところが、ほとんどのユダヤ教徒は納得しなかった。というのも、実際にはこれらのくだりはメシアのことを言っているわけではないからだ。

8 この言葉(=マタイによる福音書の「その血の責任は、我々と子孫にある」という台詞)を口にすることで、ユダヤ人の群衆は、イエスを殺す罪を背負うだけでなく、彼らの子孫もその罪を受け継ぐことを表明したのだ。何世紀もの間、ユダヤ教徒と敵対するキリスト教は、イエスの死の責任がユダヤ人にあると糾弾し、その報復として彼らに恐ろしい暴力行為を振るう口実に、この台詞を利用した。

9 ローマ帝国におけるキリスト教…は…厳密に言えば、他の宗教同様、全く禁じられていなかった。(しかし)共同体に紛れ込んでいる集団が正しい崇拝を拒み、神々など存在せず、彼らが邪悪な悪霊だと言い張ったり、最低限の公の礼拝方法を怠ったりしているなら、共同体を襲った災害を招いた張本人はこの集団だという疑惑が生じる。キリスト教教会はまさにそのような集団だった。

10 この浅はかな創造主が旧約聖書の神、すなわちユダヤの神である。したがって、私たちが住む物質世界は善い場所ではなく、牢獄なのだ。…救済の目的は…創造主…の魔の手から逃れることだ。…抜け出すための知識(=gnosis)…を授けるために神の領域から降臨したのがキリストである。したがって…彼は血肉を備えた存在ではなかった。…これがグノーシス派の世界観、キリストの在り方だ。キリストの死はたいした問題ではない。

11 4つの福音書命名された由来は次のとおり。
マタイによる福音書:最もユダヤ的な内容であるため、ユダヤ人であるマタイの名が冠せられた。
マルコによる福音書:ペトロの視点から書かれているため、ペトロの右腕として知られるマルコの名が冠せられた。
ルカによる福音書パウロの視点から書かれているため、同じ人物によって書かれたとされる「使徒言行録」の作者であり、パウロの仲間でもあった非ユダヤ人のルカの名が冠せられた。
ヨハネによる福音書:愛すべき弟子によって書かれたとされるため、イエスに最も近しい弟子の一人であるヨハネの名が冠せられた。