黒船前夜

“ロシア・アイヌ・日本の三国志”という副題の付けられた渡辺京二の著作。

明治維新の勉強をしているときに興味を惹かれた本の一冊に「逝きし世の面影」という作品があり、本当はそちらを読んでみるつもりだったのだが、ちょっとした気の迷い(?)で本書の方に先に手が伸びてしまう。しかし、その直観は(珍しく)正しかったようであり、ちょうど今、俺が興味を持っている様々な事柄と絶妙な関係性を有する内容であった。

さて、本書は、1771年のベニョフスキーの寄港に始まり、1813年のゴローヴニンの釈放をもって一応の完結をみる日露外交史の“第一段階”をテーマにしているのだが、最初に名前の出てくるベニョフスキー(=和名“はんべんごろう”)なる人物は実はロシア人でも何でもない。しかし、彼の残した好い加減な“忠告”は様々な誤解や思惑の末、「ロシアがアイヌを手なずけて南千島蝦夷島へ及ぼうとしている」と解され、「ロシアの南下を憂える北方問題」の端緒になってしまう。

しかし、この当時のロシアの関心事は主に西方にあったらしく、シベリア方面の開発は毛皮による一攫千金がお目当てのコサックまかせ。啓蒙専制君主であったエカチェリーナ2世の示した方針は「アイヌをロシア主権下に従属させても彼らにしかるべき保護を与えることは至難であり…いまはただ彼らを心服させるにとどめよ」というものであり、彼女は日本が自分たちに対してそんな不信感を抱いているとは思ってもいなかった。

一方、1604年に松前慶広が家康から黒印状を賜って以降、一応、蝦夷地は松前藩の管轄下ということになっていたのだが、他方で「幕府は18世紀の末にいたるまで蝦夷地を日本の正式な領土とは認めて」おらず、「この辺の曖昧さがいわゆる近代国民国家成立以前の主権概念の特徴」らしい。

松前藩蝦夷地のアイヌから高租を徴収したことはなく、人口調査など個別に人身を把握したこともなかった」ことから、「要するにアイヌの住む広大な天地、すなわちアイヌモシリは日本にとってまだ統治の及ばぬ異国なのだった」というのが著者の見解であり、「蝦夷地の経営をまったく場所請負商人に任せっ放し」にし、「アイヌを未開状態に放置した」松前藩に対しても、「アイヌの自立した社会を温存した点で」一定の評価を与えているところがとても興味深い。

しかし、ベニョフスキーの忠告によって火のつけられた北方脅威論の影響は徐々に幕府内に広がって行き、1785、6年に行われた2度の蝦夷地見分の報告では「アイヌを日本国民と認定し、千島・樺太を固有の領土とみな」すようになる。請負商人に酷使される様子を見た幕吏が「アイヌに対する人道的な同情心を抱いていたのは否定できない。その意味では彼らは徳川期の良吏と言ってよかった。だが、彼らは近代ナショナリストのはしりでもあったのである」。

そんなときに起きたのが1792年のラスクマンの来航であり、彼の目的は日本からの漂流者である大黒屋光太夫らの送還とそれを契機にした日本との国交樹立。結局、後者は失敗に終り、“日本との友好条約締結を提案する書簡を「強いて提出したい」のであれば長崎への入港を許可する”という趣旨の「信牌」だけを受領して帰国するが、ロシア側の事情によりそれは「11年間むなしくイルクーツク政庁に眠ることになったのである」。

さて、その後、英国の探検家ブロートンの蝦夷島来航(1796年)の影響もあり、蝦夷地の防衛強化の必要性を痛感した幕府は1799年以降、蝦夷地の直轄化を推進。それと共に実施したのが「夷人を日本国民として同化すること」と「ロシアの千島進出をエトロフ島の先のウルップ島で喰い止める」ためのエトロフ開発であり、「それはロシアの南進という夢魔に脅やかされた防衛本能の発動であり、日本近世ナショナリズムの最初の血の騒ぎだったのである」。

しかし、そんなこととはつゆ知らず、再び日本との通商開始の気運が高まってきた「ロシア帝国のとった方針は平和主義と徹底した低姿勢」。皇帝から遣日特派大使に任命されたレザーノフは、ラスクマンの持ち帰った「長崎入港の信牌」を携えて1804年9月に長崎港外にやってくるが、ようやく幕府から派遣された遠山景晋と面会できたのは翌年3月になってから。

しかも、その回答はけんもほろろの内容であり、レザーノフは最後まで友好的で礼儀正しい態度を変えなかったものの、内心では侮辱されたと感じており、帰国後、部下のフヴォストフらに命じて樺太南千島の日本植民地の襲撃を断行。脅迫をもって日本政府の譲歩を引き出そうとする。

しかし、「初めは強大な軍事力を有する武士集団が支配する兵営国家として出発しながら、19世紀初頭には、武力紛争をできるだけ回避し、平和な談合による解決を重んじる心性が上下ともに浸透する社会を作り出していた」徳川幕府のとった「対露策の根本は意外に和平を旨とし紛争回避を専らとするものだった」。

このとき幕府の内外でロシアとの通商を許すべしという意見が出されるが、「むろん幕閣は通商論を採ることはなく、紛争を避ける慎重な態度を保ちつつ海防を厳にする方針を定め」て「今後ロシア船を見うけたならば厳重に打ち払」うことを指示。「日本はこのとき、幕府主導の開国というもうひとつの近代化の可能性を喪ったのだった」。

そして最後に登場するのが1811年に起きた海軍少佐ゴローヴニンの幽囚であり、海域調査のために南千島を訪れていた彼はそこで松前奉行所の役人に捕らえられてしまい、その後、松前に移されて約2年間の幽囚生活を送ることになる。

結局、親友リコルドの尽力によってゴローヴニンは帰国を許されることになるが、「南進するロシアと北進する日本のせり合いは、リコルドのゴローヴニン釈放交渉によって一段落とし、その後はエトロフ・ウルップ間に境界を置く勢力圏の確定によって、ひとまずの安定をみるに至った」というのが本書の結論。

しかし、本書の中で最も印象的なのは日露外交史の合間に語られるアイヌの歴史であり、「アイヌと日本人はもとをただせばおなじ縄文人であり、弥生時代から古墳時代にかけて流入した新モンゴロイドの影響を受けたか否かによって、身体的形質の差異が生まれた」、「統治も行政も、ましてや国家もアイヌモシリには存在しなかった」等の指摘はとても興味深い。

特に「国家権力に従属しない自立的な生のありかた、あの世とこの世の循環のなかに正しく位置づけられた心の落ち着き、自然の恵みを感謝するにとどまらず、災害すら自然の悪意ではなくて、自分を徳ある人として完成せしめる善意とみなす世界観-このゆたかな精神文化こそアイヌ社会の重要な一面だったのである」という文章には、ピエール・クラストルから内村鑑三まで、最近読んだ何冊かの本のエッセンスがぎっしりと詰まっており、正直、ちょっと驚いてしまった。

ということで、「幕末来日した西洋人たちを感動させることになるわが庶民たちの情愛深い美質」を讃える文章が目立つのがちょっぴり鼻に付くが、北方4島が“我が国固有の領土”と呼ばれる(た?)理由は良く理解できた。それに比べると竹島尖閣諸島との関係はやや根拠薄弱と言わざるを得ないが、領土問題というものは過去の歴史よりも時の政府の意向により強く影響されるものなのでしょう。