谷中村滅亡史

明治40年8月に刊行され(即日発禁にされ)た荒畑寒村20歳の処女作。

先月、妻と一緒に渡良瀬遊水地を訪れたとき、“郷土の偉人”田中正造のことをもっと勉強しなければと思ったのだが、とりあえず本書がその一冊目。明治38年の第二次東北伝道行商(=赤くペンキを塗った箱車を曳いてパンフレットを売り歩いていたらしい。)の途中で谷中村を訪れた寒村は、そこで田中正造と知り合い、後日、彼から本書を書くように懇請されたらしい。

さて、本書は、明治14年足尾鉱毒事件が発覚(=当時の藤川知事が渡良瀬川流域での魚類の販売、食用を禁止し、そのため翌々年に島根県に“左遷”されたらしい。)してから、明治40年7月5日に土地収用法に基づく“強制破壊”(=最後まで買収に応じなかった16戸を県が強制的に解体、消滅させた。)が完了するまでの経過を記録したものであり、もう最初から最後まで寒村の激しい怒りに満ちあふれている。

そもそも谷中村には400年に及ぶ長い歴史があり、「すこぶる水利に富み、かつ天与の肥沃地たるにおいては日本無比、関東の第一位にあり」と評されるほどの恵まれた環境から、一時は450戸、2,700人ほどの村民が暮らしていたらしい。川沿いの立地の故、昔から洪水は多かったのだろうが、それと上手に共生していたことは先月の“現地調査”で確認済み。

そんな状況に変化をもたらしたのが渡良瀬川上流における銅山開発であり、明治10年に政府から足尾銅山を貸与された古河市兵衛は、銅の採掘に伴う鉱屑を河川に投げ入れて清流を毒水に変えたばかりか、低額で払下げを受けた官林の濫伐(=明治21年以降)を繰り返すことによって周囲の森林の保水力を著しく低下させてしまう。

その結果として生じたのが谷中村を含む下流域における大洪水の頻発。度重なる洪水は上流の堆積物を下流に押し流すことによって河床の上昇を招き、明治29年頃にはその被害は当時の東京府にまで及ぶようになってしまう。寒村の推理によると、この洪水を防ぐために谷中村を瀦水池にするという“陰謀”の発案者は、明治23年の洪水発生時の農商務大臣として土地勘のあった陸奥宗光であり、彼は自分の次男を古河家の養子に出していた。

しかし、寒村の偉いのは、一度、そんな陰謀論抜きでこの瀦水池化計画を評価しているところであり、彼の試算によると谷中村を水没させることにより得られる貯水量は「18億余立方尺」で政府の主張している「39億立方尺」の半分にも満たない。事実、隣接の町村も“百害あって一利なし”と谷中村の瀦水池化計画には反対していたらしい。

まあ、さらに百歩譲ってこの瀦水池化計画に合理性があったとしても、「政府の谷中村を買収せんとする口実は、即ち洪水の氾濫にあり、而して故意を以て、洪水氾濫の因を作りしもの、これ実に政府そのものにほかなら」ないというのは厳然たる事実であり、解説の鎌田慧氏が言うとおり「資本家の勝手…を取り締まることなく、村を潰してダムをつくるのは、強盗に遭った被害者を殴りつけて憂さ晴らしをするようなもの」ということになるのだろう。

しかも、その瀦水池化計画を強引に推し進めようとする県の手口は全く酷いものであり、洪水で決壊した堤防の修復を放棄してしまうことによって「実に数年間一村を水浸しとなし、田圃荒廃し、作物実らず、而してこれに因て価格(=地価)下落するを俟ちて、初めて買収せんと企て居たればなり」というのはあんまりというもの。

そのほかにも無頼漢を使った様々な嫌がらせや虚構の村債を理由にした苛税の賦課等、容易に買収に応じない村民に対する行政の対応は極めて卑劣であり、「谷中村を滅亡せしむるにあらざれば、彼ら県庁の官吏の不正行為、歴任県知事の罪悪、否な日本政府と資本家とが、数十年間にわたりて犯し来れる、鉱毒問題てふ大罪悪を、埋没する能はざればなり」と言われても仕方がない。

明治40年6月29日から7日間にわたって断行された土地収用法に基づく強制破壊の様子を描写した文章は、正直、涙無くして読み進められないくらいの悲惨さに満ちており、「あゝ悪虐なる政府と、暴房なる資本家階級とを絶滅せよ、平民の膏血を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭を飾らしめよ」というと凄まじいばかりの呪詛の言葉で本書は幕を閉じる。

まあ、谷中村の滅亡は大日本帝国憲法下で起きた悲劇であり、現憲法下において全く同じことが繰り返されるとは思わないが、戦後に起きた水俣病等に対する行政側の対応がそれからどれくらい進化したのかと問われると、正直、答に窮してしまう。また、森友加計問題に見られる政官の癒着や辺野古埋立てを巡る地方自治軽視の現状は、残念ながら本書の存在価値がいまだ十分に残っていることを示しているのだと思う。

ということで、「谷中村の滅亡は、決して谷中村一個の事件にあらずして、実に多年の宿題たりし鉱毒問題の埋葬を意味す」という一文からも明らかなとおり、足尾鉱毒事件というのは我が国の公害問題の原点であるとともに、いまだに続く“市民運動敗北史”の始まりでもある。そろそろ辺野古の埋立て問題あたりで初勝利をあげておかないと明治の先人に合わせる顔が無くなりそうです。