松本清張全集2

長編1編(「眼の壁」)と短編集(「絢爛たる流離」)を収録。

「眼の壁」は、いわゆる籠脱け詐欺によって3千万円の手形をだまし取られた電気メーカーの会計課長が責任を感じて自殺してしまい、その無念を晴らすために彼の部下であった主人公が犯人探しに奔走するというミステリイ。会社の信用と体面に傷が付くことを恐れた経営陣は、詐欺があった事実を警察に届けようとしないんだよね。

もちろん、そんな素人探偵一人の力で犯人を追い詰めるのは困難なのだが、学校時代の友人である新聞記者の協力や、事件の関係者が殺されたことによって途中から捜査に参加する警察からの情報のおかげでみごと事件の解明に成功。主人公には、事件の発端から密かに思いを寄せる一人の女性がいるのだが、彼女との会話はたった1度しか実現しないというストイックさは如何にも(本気の)松本清張らしかった。

特に興味を覚えたのは次の2点であり、一つは第2、第3の殺人の舞台となる長野県周辺の地理関係。特に前者は昨年の夏に家族旅行で訪れた木曽路からもそう離れていないということで、文章中に現れる地名を地形図で追いかけながら読んでみたのだが、木曽峠から摺古木山までは尾根伝いに10km程歩かねばならず、犯人がなかなかの健脚であることが分かった。

また、それとの関連で藤村の「夜明け前」への言及もあるのだが、興味を持った二つ目は彼のもう一つの代表作である「破戒」に関係することであり、事件の犯人はどうやら被差別部落の出身らしい。本書の解説を担当した尾崎秀樹は「僕はまず、殺人を犯した人間を取りまく現実にメスを入れる。その現実の底に犯罪を生む不安・動揺の諸相を見きわめる」という清張の言葉を紹介しているのだが、当時、被差別部落在日コリアンの問題を取り上げるのは今よりずっと勇気の要ることだったと思う。

さて、もう一つの「絢爛たる流離」は、3カラットの“ファイネスト・ホワイト”のダイヤの指輪の持ち主となった女性たちをめぐるオムニバス形式の短編集であり、尾崎の指摘と同様、俺もデュヴィヴィエの「舞踏会の手帖(1937年)」や「運命の饗宴(1942年)」を思い出しながら読んでいた。

内容は、発表されたのが「婦人公論」だったせいか、トリックよりも男女の愛憎劇の方にウエイトが置かれており、ストイックな「壁の眼」とは好対照。しかし、各作品には、昭和初期から戦前、戦中を経て高度成長期を迎えようとする時期までの我が国の世相が色濃く反映されており、この殺伐とした雰囲気は今の若者には想像も出来ないだろうなあ。

ということで、「眼の壁」というのは我々の視界から「じっさいの現代の現実」を遮断してしまう壁のことを指しているらしいのだが、俺には社会的弱者を取り囲む世間の冷たい視線を意味しているようにも思える。現在は沈静化しているかに見える被差別部落の問題も、本当に解消されたのか、それとも“寝た子”にすぎないのか、今のうちにきっちり見極めておく必要があると思います。