国家神道

宗教学者の村上重良が書いた国家神道に関する“古典的名著”。

まあ、発表されてから50年近く経っているため、内容に関してはその後いろんな批判も出て来ているようであるが、日本共産党の出身者(=後に除名された。)らしい小気味よい批判精神に貫かれた筆致は読んでいてなかなか痛快であり、最後まで一気に読み終えることが出来る。

さて、序説の「民族宗教としての神道」では、俺のような宗教学の初心者に対して宗教の分類ごとの性格等について分かり易く解説してくれているのだが、しばしば神道の非宗教性を強調するための根拠として示される「儀礼に主要な機能があり、体系的な宗教イデオロギーを欠いていること」は、神道の属する「民族宗教そのものの特徴」であり、神道の宗教性を否定する根拠にはならないという指摘はとても重要。

続く「I 神道のなりたち」では、国家神道を理解するための前提として「原始段階から幕末にいたる、二千数百年に及ぶ神道の歩み」について要領よく紹介してくれており、正直、読み物としてはこのI章と次のII章の部分が一番面白い。

農耕儀礼を中心として発達した原始神道は、古代天皇制国家の成立に伴い皇室神道として制度化されるのだが、間もなく仏教、儒教道教といった外来宗教の支配的影響下に置かれることになり、これらとの習合を繰り返すことによって苦難の時期を何とか生き延びようとする。

そんな神道界に訪れた千載一遇の好機が「II 国家神道の形成」の序盤に出てくる幕末の攘夷運動であり、天皇の古代的宗教的権威復活の気運に乗って神仏分離を断行。明治政府と結託して神道の国教化を目指すが、国民教化の担い手になるにはあまりにも力不足であり、あえなく挫折。政府は「祭祀と宗教を分離して、(宗教ではないというたてまえの)国家神道を確立する」政策に踏み切ることになる。

「III 国家神道の思想と構造」では、国粋主義高揚のための手段に成り下がってしまった神道界の悲哀が延々と綴られているのだが、一番悲しいのは彼ら自身がそれを侮辱として受け取っていないらしいことであり、政府からの財政的援助を目当てに画一的な神社の統廃合や祭式の統一などを唯々諾々と受け入れてしまう。まあ、このへんの体質は現在の神社本庁にもそのまま受け継がれているんだろうね。

最後は、敗戦に伴う「IV 国家神道の解体」を経て、「結び 国家神道の本質と役割」で幕を閉じるのだが、本書において著者が繰り返し言及しているのが特定の教義を持たないことによる民間神道の多様性であり、国家神道の犯したもう一つの罪は画一的な政策によってこの多様性を奪ってしまったこと。現在、ごく限られた地域に見られる“奇祭”の類いは、昔はもっといろんなところで普通に行われていたに違いない。

ということで、著者の最大の関心は国家神道の復活阻止にあるのだが、いつの間にか靖国問題外交問題になってしまったし、「国家神道の事実上の経典」と指摘された教育勅語復権や年老いた天皇に対する人間性の軽視(≒神格化)等々と、正直、不安なことばかり。神道なんてと馬鹿にしていると、将来、エライ目に遭うかもしれません。