昭和史発掘4・5

1964年から1971年にかけて「週刊文春」に連載された松本清張のノンフィクション作品。

松本清張全集32」収録の「昭和史発掘」から“割愛”されてしまった長編「二・二六事件」を読むために、近くの図書館から単行本の方を借用。全13巻のうち「二・二六事件」が収められているのは7巻以降なのだが、他にちょっと気になる作品があったので先に4巻と5巻を読んでみることにした。

さて、両巻あわせると5編の作品が収録されているのだが、そのうち全集に掲載されていないのは「『桜会』の野望」、「五・一五事件」それに「小林多喜二の死」の3編であり、最初の「『桜会』の野望」では、昭和6年に起きた“三月事件”と“十月事件”という二つのクーデター未遂事件が取り上げられている。

桜会”というのは、後に東京裁判の被告になった橋本欣五郎が中心になって昭和5年7月に結成した秘密結社であり、「昭和6年2月ごろには会員がほぼ50数名に達し…その大部分は中央関係の在京佐官以下の将校で、陸大出身者が大部分をしめていた」他、民間の大川周明らが加わっていた。

彼らはロンドン条約批准問題を巡って議会が紛糾する中、「まず大川周明に民間の各種の謀略を講じさせ、東京を騒乱に陥れる。その混乱の最中に陸相宇垣一成をして大命降下を図らせ、宇垣内閣の組織によって政界の粛正に乗り出させる」というクーデターを企画。しかし、最終的に宇垣陸相の協力が得られずに計画は頓挫してしまう(三月事件)。

その半年後である9月18日に満州事変が勃発すると、政府の「事件不拡大」方針に納得のいかない橋本は「内地の一大革新を断行して、政府を更迭しなければ、満州事変は成功せぬ」と考えて再びクーデターを企画するが、情報管理が杜撰だったため事前に計画が上層部に漏れてしまい、これまた不発に終ってしまう(十月事件)。

著者は「橋本のドン・キホーテぶり」、「橋本の思いあがり」、「彼らの小児病的憂国行動派」というように橋本の軽挙妄動ぶりを厳しく批判しているのだが、事件当時、陸軍中佐でしかなかった彼の上官に対する自由過ぎる物言いを見ていると「すでに上部の統率が佐官クラスに及ばなかった」という情況は、関東軍だけに止まらず、軍隊全体に広がっていたことが良く分かる。まさに「弾丸(たま)を握っている者くらい強いものはない」ということなんだろう。

これを現代に置き換えて考えてみると“今はシビリアン・コントロールがあるから大丈夫”というのが一般的な回答になるのだろうが、橋本のクーデターはいずれも“政治の腐敗”を憂いたものであり、そんなときにシビリアン・コントロールが正常に機能するとはちょっと信じられない。

さて、両事件の起きた翌年である昭和7年に「十月事件のプランをもとに実行された」軍事クーデターを扱っているのが次の「五・一五事件」であり、まあ、事件の概要は既に知られているとおりだが、著者の評価は「五・一五事件は、そのクーデターの方法がいかにも幼稚だ。彼らはただ重臣や首相を仆し、政党本部を襲い、発電所を破壊して帝都を暗黒にすれば、革命は自然に到来するものと信じていた」とこれまたいたって手厳しい。

しかし、その首謀者らの裁判の結果は「これを判決文にみても…動機同情論が強く占めている」ものばかりであり、結局、彼らに対する処罰は重くても禁固刑止まり。これによって「軍人側は大きな自信を得た」のは間違いないところであり、「この事件によって軍部が強力に政治に発言権をもつようになった」のだから、まあ、結果的にクーデターは一定の成果を収めたといっても良いのだろう。

ちなみに、ここで興味深かったのは、「五・一五事件に最も影響を与えた3人の人物」の一人である北一輝の思想の要約が紹介されていることであり、「一家の私有財産の限度を百万円までと制限」する彼の考えは、「一切の私有財産を否定する共産主義でもなく、また私有財産形体を最後的のものとする資本主義のそれでもなく、私有財産の量に一定の限界を加え、その余剰を国家の帰属にするという国家社会主義的な考えに近い」とのこと。

「日本の人口膨張の処理を他国(=中国)の侵略に求めようとする」彼の国家権論はいただけないが、この「限定私有財産論」はなかなか興味深いものであり、前章で紹介されていた「職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れやすき境遇にあり」とか、「これを右翼というも可、左翼というも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり」という近衛文麿の言葉は、おそらくそのあたりを懸念していたものと思われる。

また、五・一五事件に参加した人々の「天皇絶対主義、あるいは天皇尊厳主義」、「殉国精神」、「維新烈士…に対する崇拝」等々を見ていると、明治維新当時、「玉を抱く」、「玉を奪ふ」という程度に思われていた天皇制が60年余のうちに“信仰”の対象へと変質していったことが良く分かり、う~ん、やはり天皇制の孕む問題に関しては一度良く考えてみないといけないなあ。

そんな当時の「天皇絶対主義」の影響は最後の作品である「小林多喜二の死」にも色濃く現われており、「天皇制に反対する彼らには、どのような暴力を加えようと、官憲は『天皇陛下の命令』という『使命感』によってその凶暴性を倫理化すること」が出来た。そして、そんな使命感に駆られて行われた警察の“拷問”によって、小林は30歳の若さでこの世を去ってしまう。

ここでは、彼が二十歳過ぎの頃に出会った5歳年下の恋人、田口タキとの恋愛の様子も詳しく描かれているのだが、その初々しさ、健気さと、官憲による拷問の残酷さとのギャップがもの凄く、若い二人が可哀想で読み進めるのがだんだん辛くなる。このへんは悲恋の物語としても一級品だと思うが、我が国の映画界にはこれを映画化しようと考える人材は誰もいないのだろうか。

ということで、官憲による拷問の問題については、当時、国会でも追求されているのだが、それに対する答弁は「政府としては、存在せざる事実を前提として、これに対して所見を述べる必要はありませぬ」という木で鼻をくくったような酷い内容。現政府が多用する「仮定の質問には答えられない」という答弁のルーツは、このへんにあるのかもしれません。