東京家族

今日は、娘がセンター試験を受けている時間を利用して、妻と一緒に「東京家族」を見に行ってきた。

娘が頑張っているときに少々不謹慎かとも思ったが、まあ、この期に及んで親がジタバタしてもはじまらない。「東京家族」と「テッド」のどちらにしようか迷っていたのだが、娘を試験会場に送り届けてから映画館に向かったところ、後者の初回の上映開始時刻には間に合わず、自然に前者を見ることになった。

さて、本作は小津の「東京物語(1953年)」を“モチーフ”にしているということで、どのへんにその影響が現れているのか注意しながら見ていたのだが、何と基本的な設定やストーリーは「東京物語」そのものであり、これでオリジナル脚本というのはちょっと不思議。何か“リメイク”と言えないような特別な事情でもあったのかなあ。

東京物語」との大きな違いは、次男が生きていることと母親が東京で亡くなることの2点であり、確かに前者については作品のテーマに関わる重要な変更点なのだが、個人的な意見を言わせていただければ、これは改悪以外の何物でもなく、紀子の“他人”としての立場を決定的に変化させてしまっている。

すなわち、原節子の演じた紀子には周吉夫婦の老後の面倒をみる責任は全く存在せず、彼女は他人の気安さ(=これが彼女のズルさの正体である。)からこの老夫婦に親切に接することが出来た訳であるが、これに対し、蒼井優の紀子には(将来的にではあるにしろ)その責任が発生する可能性がある訳であり、映画の終盤において、次男の昌次から周吉との同居の話が出てもおかしくない状況であった。

まあ、実際にはそのようなシーンは登場せず、結局、本作の紀子は“良い人”ということで終わってしまうのだが、それは両作品に共通する“老い(=時間)の残酷さ”という重要なテーマを弱体化しているだけ(=良い人がいれば大丈夫!)であり、見ていてちょっと物足りなかった。

ということで、「東京物語」を見ていない妻の反応が面白く、それは登場人物の年齢設定が不自然であるということ。言われてみれば、確かに吉行和子(=公開当時77歳)が老けを強調して演じてみせた平山とみこはとても現在の68歳のご婦人には見えず、妻夫木聡の昌次の祖母といってもおかしくないくらい。さすがの山田洋次も、この60年間における平均寿命の伸びを上手く誤魔化すことは至難の技だったようです。