太陽を曳く馬

高村薫の「レディ・ジョーカー」に続く合田刑事シリーズ最新作。

本書では2件の事件(殺人と保護責任者遺棄致死)が取り上げられているのだが、両者とも外見的にはとても単純な事件であり、容疑者も最初から特定されている。したがって、普通のミステリイのようにトリックやサスペンスを楽しむ要素は全く無く、もっぱら容疑者を始めとするこれらの事件に関わった人々の心理的な背景が重要な問題となっている。

そして、その容疑者たちの心理を読み解くための鍵として、最初の殺人事件では抽象絵画論が、保護責任者遺棄致死事件の方では(オウム真理教を含む)仏教論が延々と展開される訳であるが、正直、それらの部分を読み続けるのは相当にシンドイ。まあ、抽象絵画論については興味が無いこともないのでまだ良いのだが、仏教に関しては全く基礎知識無しに読んでいたのでおそらく書かれている内容の半分も理解できなかったろう。

それはともかく、本書を読んでいて俺が最も興味深かったのは最初の方の殺人事件における被告の殺意の取扱い。実は、本件の被告には情緒的な障害があり、彼の発言内容は常人の理解の範囲を超えているのだが、弁護側はその“解り辛さ”をそのまま裁判で主張することによって彼の殺意を否定しようとする。

これに対し、検察側は彼の発言や過去の行動を“合理的”に取捨選択することにより、殺意の存在を肯定する内容の解り易いストーリーを作り上げるのだが、裁判で最終的に勝ちを収めるのは検察側の主張の方であり、被告人には求刑どおり死刑の判決が下される。

まあ、人の生命を左右する裁判において“解らない”ことを認めるというのは裁判官にとって非常に困難なことだろうし、それは解り易い報道を売り物にしているマスコミにとっても同じこと。しかし、その“解り易さ”の裏側には様々な事実の切捨てや歪曲が存在する可能性があることに我々は気付くべきなんだろう。

ということで、この殺人事件の裁判が仮に裁判員制度のもとで行われたとしても、おそらく“解らない”ことの不安に耐えきれない裁判員の多くは検察側の説明の“解り易さ”に飛びついてしまうのではないだろうか。事実、裁判員になった方々へのインタビューでも検察側の説明が意外に解り易かったと好意的に評価している声が多いようだが、それって本当はとても恐ろしいことなのかもしれません。