冷血

高村薫が、トルーマン・カポーティの同名のノンフィクションノベルに触発されて書いた作品。

家族4人を惨殺した二人組みの犯人の犯行動機等を明らかにするというテーマ自体は、カポーティの作品と同じなのだが、カポーティの作品が、それに関する合理的な説明を放棄し、“冷血”という受け入れにくい理由を敢えて受け入れることに主眼を置いていたのに対し、本作はこの“冷血”という事実から出発しようとしている、っていう感じかなあ。

この二人の容疑者に対する取調べの内容が延々と記録されているのだが、(殺人という行為自体は認めているにもかかわらず)明確な殺意は無かったという彼等に対し、いくら殺した理由を尋ねても世間的に納得が得られるような説明が期待できるハズもなく、結局、最後までドーナツの穴は塞がらないまんま。

しかし、捜査中は彼等を尋問するでもなく、狂言回し的なポジションに甘んじていた主人公の合田雄一郎が、捜査終了後に彼等と通わせる儚い“心の交流”こそが本作の醍醐味であり、虚無的な空洞のように思われていた彼等の心の中にも豊かな詩情のようなものが溢れていることが判明する。

ということで、この交流があと十数年も続けられれば、“冷血”以上の、人間を理解する上で貴重な手掛かりが得られるかもしれないのだが、そうは問屋が卸さないのが死刑制度の野蛮なところであり、我が国の刑事制度はまずはそれを見直すところから始めなければならないのでしょう。