八月の狂詩曲

1991年作品
監督 黒澤明 出演 村瀬幸子、吉岡秀隆
(あらすじ)
長崎市の郊外に一人で住んでいる鉦(村瀬幸子)の家に、夏休みを利用して縦男(吉岡秀隆)等4人の孫たちが泊まりがけで遊びに来る。それというのも、彼女には戦前にハワイに移住したまま長らく音信不通となっていた兄がおり、今や大富豪になった彼からの招きに応じ、縦男等の両親が鉦の代理としてハワイにある彼の邸を訪れていたからである….


かなり間があいてしまったが、今まで見逃していた黒澤作品を見る特集の第2弾。

実は、鉦の夫は終戦間際に長崎に落とされた原爆によって死亡しており、縦男等4人の孫たちは鉦の話や長崎市内に今でも保存されている原爆の爪痕から、当時の悲惨な状況を次第に理解して行く。それに対し、縦男等の親たちは、ハワイに住む鉦の兄とその家族に気兼ねして自分たちの父親が原爆の被害者であるという事実を彼等から隠そうとする。

当然、黒澤はこの親たちの態度に批判的であり、彼等の“気兼ね”の背景に鉦の兄の有する莫大な富のおこぼれに預かろうとする浅ましい気持ちが存在することを指摘することによって、経済面を優先させ、核の問題に対して正面から取り組んでこなかった我が国の対米外交のあり方を痛切に皮肉って見せる。

まあ、大学生という設定の縦男以下、孫たち全員があまりに素直すぎるところなんかは、ストーリー的に不満というより、むしろ不自然だし、また、説明セリフを多用した脚本もあまり良い出来とはいえない。

しかし、リチャード・ギア扮する鉦の兄の息子が来日し、教科書どおりの和解が行われた後に訪れるあの一見悲しくもユーモラスなラストシーン(=映画的もここが一番面白い。)を見てみると、この作品に込められた黒澤自身のある種の開き直りとも取れるメッセージの意味が理解できたような気がする。

おそらく、本作は、ラストシーンのバックに流れる「野ばら」の歌詞のとおり、黒澤の“トゲ”なのではないだろうか。そして、彼はそのトゲで子供たちの心を刺した訳であり、その痛み(=核の恐怖)をいつまで覚えていられるかは、(死にゆく鉦や黒澤たちの世代ではなく)彼ら新しい世代の問題なのであろう。説明セリフを多用した本作の“わかり易さ”は、そんな幼い観客層を意識した彼の配慮なのかもしれない。

ということで、本作は、本来、小中学校の授業の一環として上映されたときにその真価を発揮するはずの作品であり、黒澤の反核にかける願いは、期待ハズレだった俺達の世代を通り越して次の世代へと向けられたという訳である。