石裂山を南尾根から

今日は、お手頃なロングコースの第36弾ということで、石裂山の南東に続く尾根を一人で歩いてきた。

県内に出されていたコロナの緊急事態宣言も昨日で解除となり、ようやく“お散歩”以上の山歩きも大目に見てもらえそうな雰囲気。そこで選択させて頂いたのが、7年前に歩いた三峰山の先から石裂山へと続くルートであり、まあ、ここなら他の登山者に会う心配も少ないだろうと思いながら、午前7時半頃に林道西の入線への入口付近の路肩に車を止める。

7年前に訪れたときとは異なり、周辺では南摩ダムの建設工事が進められているようであり、近くにいた関係者の方の指示に従って駐車場所を移動してから7時43分に出発。しばらく林道西の入線を歩いていくと支線への分岐(7時58分)があり、その先に現われた作業道(8時9分)を使って山中へと入っていく。

放置されたままの作業道は荒れており、最初の頃は倒木に悩まされるが、適当にショートカットを繰り返して8時26分に尾根筋にたどり着く。ここからが本日の尾根繋ぎの始まりだが、コロナ禍のせいで(?)すっかり勘が鈍ってしまったようであり、開始して間もなく大きな軌道修正を強いられる。

これではイカンと気合いを入れ直してから鉄塔(9時16分)~石の祠(=石仏あり)のあるピーク(9時27分)と進み、次の長~い急斜面を喘ぎながら上って10時4分に石の祠(=石仏なし)のあるピーク。そこから先は東電の巡視路になっているようであり、それを辿って10時12分に鉄塔の立つ694.9Pに着くと、そこには「点名 日向倉」の表示があった。

さて、小休止の後に歩き出すとその先にも巡視路は続いており、左手に鉄塔(10時48分)を見ながら地形図上に破線が描かれている鞍部へと下りていく。その先からは右手に明確な作業道が見られるようになるが、ここは例によって尾根筋にこだわることとし、762Pへと続く長い斜面を一歩ずつ上っていく。

その762P(11時44分)の前後にある岩場がちょっとイヤらしいが、そこは事前学習(=「みつまんの山歩きメモ3」の管理人さんのタイムリーなレポートがとても参考になった。)どおり右→直→右→右の要領で無事通過。これで一安心かと思いきや、その先に続く岩まじりの尾根もなかなかの手強さであり、12時17分に一般登山道と合流したときには、正直、ホッとした。

ここから月山までの尾根は過去にも2度ほど歩いているので、これで下山しても良かったのだが、今日はまだ名前のあるピークを踏んでいない故、そのまま石裂山を目指す。しかし、既に4時間以上歩き続けてからの石裂山は過去2回とは比べものにならないくらいタフであり、何度か後悔をしながらようやく山頂(879.5m。12時47分)にたどり着く。

平日のせいもあって山頂は無人であり、小休止の後、再び歩き出して13時3分に月山(890m)に着く。ここからはずっと下りが続くことになるが、決して歩きやすい訳ではないので、ケガをしないよう慎重に歩を進める。麓の加蘇山神社まで下りてきたのは14時1分のことであり、その後は舗装道路をテクテク歩いて15時41分に駐車地に戻ってくる。本日の総歩行距離は21.8kmだった。

ということで、予想していたよりもちょっと時間はかかったが、とりあえず計画どおり20km以上の距離を歩き通すことが出来たので一安心。結局、山中では誰とも出会わなかったのでコロナ感染対策は満点であり、次は月山から大滝山(1070.3m)までの尾根を歩いてみようと思います。
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処女の泉

1960年
監督 イングマール・ベルイマン 出演 マックス・フォン・シドー、ビルギッタ・ペテルスン
(あらすじ)
16世紀のスウェーデン。片田舎の農場主(マックス・フォン・シドー)の一人娘であるカーリン(ビルギッタ・ペテルスン)は、教会にお供え物のロウソクを届けに行く途中、三人組のヒツジ飼いの男たちに暴行され、無残にも撲殺されてしまう。彼女の身ぐるみを剥いで逃走した男たちは、ある農家に立ち寄って一夜の宿を乞うが、偶然にもそこはカーリンの父親である農場主の家だった…


イングマール・ベルイマンの代表作の一つとして知られる名作。

最近はネット配信の映画やアニメ、ドラマばかり見ていて肝心のDVDの方はすっかりご無沙汰になっていたのだが、ふと思い出して積み残しになっていた未見の作品を鑑賞。最初に手に取ったのは本作であり、昔はビデオやDVDがとても高価で手が出せなかったベルイマンの代表作をようやく見ることが出来た。

さて、スウェーデンに古くから伝わる“バラッド”が原案になっているということで、ストーリーは意外に単純であり、男たちが所持していた血に染まったカーリンの衣服を見て事実を知った農場主は、作法に従って禊ぎを済ませてから一人で男たちの寝込みを襲い、見事、愛する娘の復讐を果たすことに成功する。

その後、妻や使用人を連れて娘が殺害された現場に向かうのだが、その亡骸を目にした農場主が思わず口にする呪いの言葉(?)がとても興味深い内容であり、まず、娘の死や自らの復讐=殺人を止められなかった“神の不在”を嘆いた後、その地に教会を建てることを誓う。つまり、神=キリストに対する感謝からではなく、単に自分が犯した殺人の罪滅ぼし(=罪悪感の軽減)のためだけに教会を建てるというのだ。

このキリストの無力さは、不幸な娘インゲリの願い(=カーリンの不幸)を叶え、そして(おそらくは)農場主の復讐の手助けをした土着の神オーディンの有能さとは極めて対照的に描かれているのだが、その直後、農場主が娘の亡骸を抱え起そうとしたときに出現するある出来事が本作のタイトルの由来であり、それを神の奇跡ととるか、または単なる皮肉(=どうせなら娘を生き返らせろ!)ととるかは観客の判断に委ねられているのだろう。

ということで、普通のバラッド≒昔話なら娘の仇を討った時点でメデタシメデタシになるのだろうが、そうはいかないところがとても面白い。新たにデジタル処理されたらしい硬質の白黒映像はとても美しく、厳しい自然に対峙しながら暮している北欧の人々の信仰心のあり方に思いを馳せながら楽しく(?)鑑賞することが出来ました。

ピグマリオン

1938年
監督 アンソニー・アスクィスレスリー・ハワード 出演 レスリー・ハワード、ウェンディ・ヒラー
(あらすじ)
ロンドンの街中で市民の訛りの調査をしていた言語学者のヒギンズ教授(レスリー・ハワード)は、たまたま居合わせたピカリング大佐の前で、“自分ならそこにいる花売り娘のイライザ(ウェンディ・ヒラー)を半年間でレディに生まれ変わらせてみせる”と大見得を切ってしまう。しかし、その話を真に受けたイライザが、翌日、話し方を習いたいとヒギンズ教授の屋敷に押し掛けて来たから、さあ大変…


神話をモチーフにしたジョージ・バーナード・ショーの戯曲を映画化した作品。

言うまでもなく、オードリー・ヘップバーンの「マイ・フェア・レディ(1964年)」の元ネタであり、以前から興味はあったのだが、ミュージカル映画ではないこともあって、長らく放置。しかし、こちらの上演時間は96分とかなりお手軽であり、ちょっとした空き時間を利用して見てみることにした。

さて、当然ながらストーリーはほとんどオードリーの「マイ・フェア・レディ」と同じであり、特に冒頭のイライザとヒギンズ教授が初めてコヴェントガーデンで出会うシーンは、ほぼ丸写し(=まあ、コピーしているのはミュージカル版の方なのだが。)と言っても過言ではないくらい良く似ている。

おそらくより戯曲に忠実な故、アスコット競馬場の名シーンが出てこないのは少々寂しいが、発声のみならず、ダンスやエチケット等に関する厳しいレッスンの様子が描かれているのは興味深いところであり、大喧嘩の末の仲直りというやや唐突なハッピーエンド(=戯曲では仲直りのシーンは出てこないらしい。)もほとんど同じだった。

しかし、主演俳優が異なることによる印象の違いは顕著であり、監督も務めているレスリー・ハワードが演じているヒギンズは、レックス・ハリソンのものよりも相当偏執狂的。Wikipediaによると、バーナード・ショーの戯曲には「当時のイギリスにおける厳密な階級社会に対する辛辣な諷刺」が込められていたそうであり、ヒギンズには元々悪役としての役割が課せられていたのだろう。

ということで、本作がデビュー作となるウェンディ・ヒラーのイライザは、正直、貴婦人に変身する前の方が似合っており、これはオードリーのイライザとは真逆の印象。なかなか面白い作品だったが、また見直すとすれば間違いなくオードリーの「マイ・フェア・レディ」の方を選んでしまうと思います。

中上健次全集3

「岬」、「枯木灘」、「覇王の七日」の3編の他に短編集「化粧」を収録。

当然、お目当ては作者の代表作である「枯木灘」なのだが、その前・後日潭とも言うべき作品が含まれている故、全集の方で読んでみることにした。ちなみに最後の「覇王の七日」は10ページ余の短編であり、「枯木灘」の本格的な続編である「地の果て 至上の時」は全集の第6巻に収められている。

さて、最初に収録されているのは「化粧」の方であり、作者の出身地である熊野を舞台にした12の短編が収められている。そのうち「修験」、「欣求」、「草木」、「天鼓」、「蓬莱」、「楽土」、「化粧」そして「三月」の8編の主人公はどうやら同一人物のようであり、現在は東京郊外の建売住宅で小鳥を飼いながら妻の両親と同居している。(ただし、夫婦仲は良好とは言い難い。)

しかも、彼の家族関係(=自殺した兄、義父と同居している母親等々)から推測すると、「枯木灘」の主人公(そして、作者自身)との共通点も顕著であり、それのもう一つの後日譚として読むことも可能。特に「草木」に登場する手負いの武士は織田信長に敗れたという伝説の武将、浜村孫一に相違なく、「枯木灘」の読了後に読み返してみるとまた別の面白さを発見することができる。

残りの「浮島」、「穢土」、「伏拝」、「紅の滝」の4編はもう少し古い時代を扱った作品であり、後三者泉鏡花の「高野聖」に似た幻想的な味わいが魅力的。ちなみに、「浮島」の舞台となった浮島の森や「欣求」の湯の峯温泉、「伏拝」の伏拝は、いずれも一昨年の熊野古道巡りの際、妻と一緒に足を運んだ場所であり、先にこの短編集を読んでいれば訪問時の印象もちょっと変わっていたのかもしれない。

次の中編「岬」は第74回芥川賞に輝いた作者の出世作であり、「枯木灘」の2年前に起きたエピソードが綴られている。主人公は、和歌山県の熊野に住んでいる秋幸という24歳の若者なのだが、多淫な血筋の故か、家族関係はとても複雑であり、4人の異父兄弟の他に、実父が二人の女に生ませた(4人の)異母兄弟や母親の再婚相手の連れ子である義兄がいる。

まあ、これだけ“家族”が揃っていれば自殺に近親相姦、殺人と話のネタに事欠かないだろうが、そんな中で「枯木灘」へと引き継がれる本作のメインテーマになるのは主人公の“自分探し”であり、家族の中でおそらく彼が一番愛着を抱いているのは母親代わりに自分を育ててくれた姉の美恵。

しかし、そんな主人公の前に立ちふさがるのは長兄の郁男であり、主人公だけを連れて再婚相手の元へ走った(=すなわち郁男と美恵を裏切った)母親と郁男の間で繰り広げられた修羅場の数々を、幼かった主人公はしっかり覚えている。しかもその郁男は恨みを抱いたまま24歳のときに自殺しており、今では家族の中で伝説的な存在になっている。

一方、そんな主人公が実父との絆を探ろうとしたのが次の長編「枯木灘」であり、「岬」の設定を引き継ぎながらその2年後の出来事を描いている。「岬」では「あの男」としてしか登場しなかった主人公の実父、浜村龍造は風来坊から成り上がったゴロツキであり、地元での評判も最悪。当然、主人公も理性的には彼を父親として受け入れることが出来ない。

しかし、龍造に饐えたような奇妙な魅力(?)があるのも事実であり、そんな父親に対する反発として、主人公は自身のある秘密を暴露するのだが、龍造はそれをいとも簡単に受け入れてしまう。そして突発的に起きた第二の反発の犠牲になったのが龍造の次男(=主人公の異母弟)である秀雄であり、ちょっとした喧嘩が引き金になって主人公に撲殺されてしまう。

そして愛する息子を2人同時に失った(=1人は死に、1人はその殺人犯になった。)龍造の悲嘆を取り上げているのが、最後の短編「覇王の七日」。「枯木灘」の最後では、秀雄の葬儀の後、龍造が自分の部屋に7日間閉じ籠もったというのは単なる噂に過ぎないと否定されているのだが、どうやらもう一つの並行世界では事実だったようである。

ということで、作者自身をモデルにして始まった秋幸の“自分探し”の旅は、次第にそのスケールを増していき、浜村孫一の伝説を超えて遂には神話の域にまで達してしまったらしい。正直、出てくるエピソードには粗野で暴力的なものが多いため、読んでいて決して楽しくはないのだが、もうここまで来れば次の「地の果て 至上の時」を読まないという選択はあり得ないでしょう。

お散歩気分で男抱山

今日は、妻と一緒に宇都宮市内にある男抱山を歩いてきた。

強風との天気予報を聞いてコタツでゴロゴロしていたのだが、妻からの散歩のお誘いにようやく重い腰を上げる。しかし、いつもの多気山はちょっぴり飽きてきたので、今日は目的地を男抱山に変更し、午前11時頃に墓地の手前にある駐車スペースに到着。既に10台くらいの車が止まっていたが、まだ2、3台分の余裕は残っていた。

身支度を整えて11時3分に歩き出す。ここを歩くのは2年前に男抱山~半蔵山~羽黒山と歩いたとき以来のことであるが、最初の杉林はまだ間伐が施されたばかりのようであり、スッキリと明るくなった中を分岐(11時10分)~祠(11時25分)と歩いて11時32分に山頂(338m)に着く。

天気予報のとおり風は少々冷たいが、見晴らしが良いのはいつものとおりであり、この山が関東平野の北端に位置していることを再確認。その後、双耳のもう一つのピークである富士山(11時53分)を経由して下山すると、駐車スペースに戻ってきたのは12時25分過ぎのことであり、う~ん、やっぱりちょっと物足りなかったなあ。

ということで、途中、新しく出来たイチゴ屋さんや、たまにしか営業していない焼き芋屋さんに立ち寄ってから無事帰宅。正直、近場のお散歩的山歩きはそろそろネタ切れ感が強いが、幸い県内のコロナ新規感染者数は減少傾向にあるようであり、まあ、あと少しの辛抱と考えて引き続き自粛に努めたいと思います。

滝山コミューン一九七四

政治学者の原武史が2008年に発表した第30回講談社ノンフィクション賞受賞作。

前に読んだ國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」の中で、「原武史は『滝山コミューン1974』において、戦後民主主義の『みんな平等』の理念によって小学校のなかに造られた恐るべき秩序を自らの体験を通して見事に描き出した」と紹介されていた作品であり、もっぱら社会科学的な興味から読んでみることにした。

さて、本書の主な舞台になっているのは、「日本住宅公団が66年から久留米町の南西部に広がる無居住地区の雑木林を伐採して土地区画整理を行い、68年から70年にかけて建てられた」という総戸数3,180戸、「西武沿線では最大規模」のマンモス団地である滝山団地と、そこに住む多くの小学生が通っていた東久留米市立第七小学校(略称「七小」)の2箇所。

そして、「1969年から75年まで、小学1年から中学1年までの6年あまりを…滝山団地2街区10号棟で過ごした」という著者は、「私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶことにする」と書いている。

しかし、著者にとって「『滝山コミューン』の記憶は、暗く苦いもの」だったようであり、その主要な原因として本書で批判的に取り上げられているのが、1959年の「日教組教研第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体」である全国生活指導研究協議会(略称「全生研」)によって提唱されたという「学級集団づくり」。

「そこには一見、憲法教育基本法に保障された『個性の尊重』が、『内外の反動的諸勢力』によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる」ものの、「全生研で強調されたのは、集団主義教育」であり、「『個人』や『自由』は、『集団』の前に否定」されてしまう、というのがこの「学級集団づくり」に対する著者の評価であり、「まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる」。

その根底にあるのは、「集団とは『物理的なちからとしての存在』である。『集団はひとつのちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひらいていき、変更していくことは不可能である。まして、非民主的な力に対抗していくことは不可能である』」という思考であり、「全生研の唱える『学級集団づくり』は、最終的にはその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を『民主的集団』に変革するところまで射程に入っていたのである」とされる。

また、「『学級集団づくり』には、『よりあい的段階』『前期的段階』『後期的段階』という三つの発展段階」があり、最初の「よりあい的段階」では7~10人程度の男女混合で組織される「班が学級に代わる『基礎的集団』となる」。そこで行われるのが係=役割をめぐる「班競争」であり、各班は何の役割も与えられない「ボロ班」「ビリ班」にならないよう「自分たちが希望する係に立候補し」、同級生の前で「自分の班がその係にふさわしいことを訴えなければならない」。

さらに、班の中には、「日直班」や「点検班」のように学級で決めた「目標が達成できているかどうかを注意深く点検する係」も存在する等々、そこにはいかにも旧ソ連的な“左からの全体主義”が垣間見られるところであり、そんな「学級集団づくり」を強力に推し進めようとする片山先生(と彼が3年間担任した4年~6年5組の児童たち)に対して少年時代の著者が抱いていた違和感や反発が、本書の主要テーマになっている。

しかし、実害ベースで見ていくと、少年時代の著者がその「学級集団づくり」から直接被った不利益は意外に少ないようであり、強いて挙げるとすれば、6年生のときに代表児童委員会(=「4年以上の全校児童の投票による直接選挙」で選ばれた児童会)の役員らの前で自己批判することを求められたことくらい。それによって「私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、…受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった」ので決して些事とは言えないのだろうが、詳細が記されていないため被害の程度は不明である。

その他にも、6年5組に“支配”された代表児童委員会の主導のもとで運動会や学芸会などの学校行事が頻繁に行われたことに対し、少年時代の著者は大いに不満を抱いていたが、他の多くの同級生たちはそれに違和感を覚えることもなく、それなりに楽しんでいたようであり、卒業後、11年ぶりに再会した元同級生に確認しても「当時の細かな記憶を、中村ら一部を除いてみな喪失」していたらしい。

この「中村」というのは代表児童委員会委員長を務める等、6年5組の中心的存在だった女子であり、後に「この体制はどこかおかしいということは私もわかっていたが、口出しする勇気はなく、精神的に無理を重ねているうちに身体に変調をきたしてしまった」と、当時の体験がトラウマになっていることを著者に告白するのだが、正直、彼女の違和感が著者のそれと同じものであったかどうかは少々疑わしい。

さて、ここからは俺の邪推も多く含まれているのだが、おそらく少年時代の著者が「学級集団づくり」に対して抱いていた違和感や反発には、4年生の頃に始まったという著者の有名進学塾通いが大きく影響していたように思われる。この塾通いに対し、著者は「私はいまでも、この時点で中学受験戦争の権化というべき四谷大塚と関わりをもったことを恥ずかしく思っている」と書いているのだが、正直、本書において塾通いが否定的に扱われているのはそこくらいであり、ほとんどは楽しい思い出として記されている。

一方、当時の「滝山団地では、四谷大塚や日本進学教室に通う児童が少なかったにもかかわらず、塾の存在が本来すべき学習の障害になっているという認識」が広く共有されていたそうであり、著者自身、「このような空気のもとでは、四谷大塚に通っていることなど、とても言い出すことはできなかった」らしい。

この罪悪感(=おそらくこれが國分の言う「みんな平等」の理念に由来しているのだろう。)を軽減するために利用されたのが「学級集団づくり」の怪物化ではなかろうか、というのが俺の邪推の根幹であり、自らの塾通いを「滝山コミューン」からのシェルターと位置づけることにより、それを正当化したかったのではないかと考えてしまうのだが、う~ん、これってほぼ同時代に中学受験とは無縁の小学校に通っていた貧乏人による下衆の勘繰りなんだろうか。

そう考えてしまう理由の一つは、当時の関係者に対する取材が極端に貧弱なところであり、「歴史の生き証人がまだ健在でおられるうちに、戦後思想史の一断面として、ここで何が起ったのかを、テキストはもとより彼らへのインタビューも交えつつ書き留めなければならない」と言いながら、「滝山コミューン」の重要な構成員であるはずの団地やPTA関係者等に対するインタビューは全く出てこない。(テキストベースの記事はいくつか引用されているが、そこに「学級集団づくり」への言及はほとんど見られない。)

さすがに“主犯”である片山先生には33年ぶりに再会し、「全生研の唱える『学級集団づくり』にすっかり魅せられた」という供述を得ているものの、彼が今現在それをどう評価、反省しているかという肝心な疑問に関するやり取りは全く記されておらず、他に取材した当時の教師の人数、内容もかなり限られたものになっているように思われる。

また、「私は当時の七小が、文部省の指導を仰ぐべき公立学校でありながら、国家権力を排除して児童を主人公とする民主的な学園を作ろうとした試みそのものを、決して全否定するものではない」と言いながら、「学級集団づくり」のメリットについては全く触れられていないところも疑問点の一つであり、やはり「国労動労の順法闘争やスト」や日教組ストライキと同様、自らの塾通い=私立中学受験の阻害要素の一つとしてしか認識していなかったのではなかろうか。

実をいうと、本書の中にも「私もまた、七小の同級生を見下していなかったか、特権意識をもっていなかったかと問われれば、それを完全に否定する自信はない」という反省めいた記述も出てくるが、「開成や慶応普通部という中学自体を知ら」ない同級生に対する少年時代の著者の優越感は本書のいたるところに現われており、失礼ながら、「学級集団づくり」とは無関係に相当いけ好かない小学生だったような印象が残ってしまう。

ちなみに、自分の小学生時代を振り返ってみると、田舎育ちのためか日教組の影響は少なく、むしろ戦前的な集団主義教育が顕著だったような記憶があるが、まあ、(俺も決して好きではなかったが)未熟な小学生にとって集団行動の習得はある程度必要なものであり、それは必ずしも個人や自由の否定に繋がるものではないだろう。

ただし、著者の言うとおり「自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚をもたないまま、『民主主義』の名のもとに、『異質的なものの排除ないし絶滅』」が行われてしまうのが大きな問題であることについては、全く異論はない。

ということで、著者の本音は小学生時代の自伝を書きたかっただけなのかもしれないが、残念ながら本書に登場する原少年はほとんど今の著者のミニチュア版であり、両者の人格的な繋がりが強すぎるような気がする。やはり、自伝を書くのは過去の自分をもっと客観的に見つめられるようになってからの方が良さそうです。

羽黒山の蝋梅はまだ咲き始め

今日は、妻と一緒に宇都宮市の北部に位置する羽黒山を歩いてきた。

とうとう県内にもコロナの緊急事態宣言が発令されてしまったが、まあ、我が家の山歩きは昨年末から既に自粛モードに入っており、今後もしばらくの間は“散歩”の延長線上にあるような山歩きで我慢しなければならない。そんな訳で、今回選択したのは5年前にやはり妻と二人で歩いた羽黒山であり、午前8時半頃にユッピーの森の駐車場に着く。

身支度を整えて8時27分に歩き出す。俺の知る限り、この山には前回歩いたコース以外に一般の登山者が歩けるようなコースは存在しないはずであり、前回同様、“だいだら・ユッピー”の標識に従って階段状のルートを上って行く。すると、だいだら坊の岩への分岐に到着したのは8時56分のこと。

大した岩ではない故、妻が憶えていたらパスしてしまおうと思っていたが、記憶は曖昧との回答に再びだいだら坊の岩方面へ進む。しかし、9時1分に着いただいだら坊の岩は、俺の記憶にあったものより巨大であり、人間の記憶っていうのは当てにならないもんだなあと変な感心をしながら分岐まで引き返す。

さて、9時14分に参道と合流し、その先のカラッソ坂(9時23分)を上って行くと、上り切ったところの左手にお目当ての蝋梅(9時29分)が咲いている。5年前に比べると開花状況はやや遅れ気味のようであり、まだほんの2、3分咲き程度だが、可愛らしい蕾も結構目立つので見応えは十分。

その後、羽黒山神社(9時40分)~羽黒山頂(457.9m、9時51分)とルーティンを済ませてから再び蝋梅のところへと引き返し、そこのベンチに座って本格的なお花見のスタート。温かいコーヒーを飲んだ後、お互いにスマホで撮った花の写真を見せ合ったのだが、おそらく、両者とも自分のほうが上手いと思っているのだろう。

期待したより気温は上がらず、ポカポカ陽気にはならなかったが、10時32分に下山に取り掛かると、ルートはやはり前回と同じであり、だいだら坊の岩分岐(10時43分)~参道入口(11時1分)と歩いて、11時20分に駐車場まで戻ってくる。本日の総歩行距離は5.9kmだった。

ということで、途中、モスバーガーに寄って本日の昼食を購入してから無事帰宅。久しぶりのお花見は楽しいものであり、6年前に訪れた宝登山の蝋梅もまた見てみたいが、とりあえずはコロナの収束を待つしかない。仕方がないので、しばらくは鞍掛尾根でも散歩して体力維持に努めたいと思います。