滝山コミューン一九七四

政治学者の原武史が2008年に発表した第30回講談社ノンフィクション賞受賞作。

前に読んだ國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」の中で、「原武史は『滝山コミューン1974』において、戦後民主主義の『みんな平等』の理念によって小学校のなかに造られた恐るべき秩序を自らの体験を通して見事に描き出した」と紹介されていた作品であり、もっぱら社会科学的な興味から読んでみることにした。

さて、本書の主な舞台になっているのは、「日本住宅公団が66年から久留米町の南西部に広がる無居住地区の雑木林を伐採して土地区画整理を行い、68年から70年にかけて建てられた」という総戸数3,180戸、「西武沿線では最大規模」のマンモス団地である滝山団地と、そこに住む多くの小学生が通っていた東久留米市立第七小学校(略称「七小」)の2箇所。

そして、「1969年から75年まで、小学1年から中学1年までの6年あまりを…滝山団地2街区10号棟で過ごした」という著者は、「私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れを込めて『滝山コミューン』と呼ぶことにする」と書いている。

しかし、著者にとって「『滝山コミューン』の記憶は、暗く苦いもの」だったようであり、その主要な原因として本書で批判的に取り上げられているのが、1959年の「日教組教研第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体」である全国生活指導研究協議会(略称「全生研」)によって提唱されたという「学級集団づくり」。

「そこには一見、憲法教育基本法に保障された『個性の尊重』が、『内外の反動的諸勢力』によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる」ものの、「全生研で強調されたのは、集団主義教育」であり、「『個人』や『自由』は、『集団』の前に否定」されてしまう、というのがこの「学級集団づくり」に対する著者の評価であり、「まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる」。

その根底にあるのは、「集団とは『物理的なちからとしての存在』である。『集団はひとつのちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひらいていき、変更していくことは不可能である。まして、非民主的な力に対抗していくことは不可能である』」という思考であり、「全生研の唱える『学級集団づくり』は、最終的にはその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を『民主的集団』に変革するところまで射程に入っていたのである」とされる。

また、「『学級集団づくり』には、『よりあい的段階』『前期的段階』『後期的段階』という三つの発展段階」があり、最初の「よりあい的段階」では7~10人程度の男女混合で組織される「班が学級に代わる『基礎的集団』となる」。そこで行われるのが係=役割をめぐる「班競争」であり、各班は何の役割も与えられない「ボロ班」「ビリ班」にならないよう「自分たちが希望する係に立候補し」、同級生の前で「自分の班がその係にふさわしいことを訴えなければならない」。

さらに、班の中には、「日直班」や「点検班」のように学級で決めた「目標が達成できているかどうかを注意深く点検する係」も存在する等々、そこにはいかにも旧ソ連的な“左からの全体主義”が垣間見られるところであり、そんな「学級集団づくり」を強力に推し進めようとする片山先生(と彼が3年間担任した4年~6年5組の児童たち)に対して少年時代の著者が抱いていた違和感や反発が、本書の主要テーマになっている。

しかし、実害ベースで見ていくと、少年時代の著者がその「学級集団づくり」から直接被った不利益は意外に少ないようであり、強いて挙げるとすれば、6年生のときに代表児童委員会(=「4年以上の全校児童の投票による直接選挙」で選ばれた児童会)の役員らの前で自己批判することを求められたことくらい。それによって「私はまるで、学校全体を敵に回したような気分に陥り、…受験勉強のためと称して学校を時々休むようになった」ので決して些事とは言えないのだろうが、詳細が記されていないため被害の程度は不明である。

その他にも、6年5組に“支配”された代表児童委員会の主導のもとで運動会や学芸会などの学校行事が頻繁に行われたことに対し、少年時代の著者は大いに不満を抱いていたが、他の多くの同級生たちはそれに違和感を覚えることもなく、それなりに楽しんでいたようであり、卒業後、11年ぶりに再会した元同級生に確認しても「当時の細かな記憶を、中村ら一部を除いてみな喪失」していたらしい。

この「中村」というのは代表児童委員会委員長を務める等、6年5組の中心的存在だった女子であり、後に「この体制はどこかおかしいということは私もわかっていたが、口出しする勇気はなく、精神的に無理を重ねているうちに身体に変調をきたしてしまった」と、当時の体験がトラウマになっていることを著者に告白するのだが、正直、彼女の違和感が著者のそれと同じものであったかどうかは少々疑わしい。

さて、ここからは俺の邪推も多く含まれているのだが、おそらく少年時代の著者が「学級集団づくり」に対して抱いていた違和感や反発には、4年生の頃に始まったという著者の有名進学塾通いが大きく影響していたように思われる。この塾通いに対し、著者は「私はいまでも、この時点で中学受験戦争の権化というべき四谷大塚と関わりをもったことを恥ずかしく思っている」と書いているのだが、正直、本書において塾通いが否定的に扱われているのはそこくらいであり、ほとんどは楽しい思い出として記されている。

一方、当時の「滝山団地では、四谷大塚や日本進学教室に通う児童が少なかったにもかかわらず、塾の存在が本来すべき学習の障害になっているという認識」が広く共有されていたそうであり、著者自身、「このような空気のもとでは、四谷大塚に通っていることなど、とても言い出すことはできなかった」らしい。

この罪悪感(=おそらくこれが國分の言う「みんな平等」の理念に由来しているのだろう。)を軽減するために利用されたのが「学級集団づくり」の怪物化ではなかろうか、というのが俺の邪推の根幹であり、自らの塾通いを「滝山コミューン」からのシェルターと位置づけることにより、それを正当化したかったのではないかと考えてしまうのだが、う~ん、これってほぼ同時代に中学受験とは無縁の小学校に通っていた貧乏人による下衆の勘繰りなんだろうか。

そう考えてしまう理由の一つは、当時の関係者に対する取材が極端に貧弱なところであり、「歴史の生き証人がまだ健在でおられるうちに、戦後思想史の一断面として、ここで何が起ったのかを、テキストはもとより彼らへのインタビューも交えつつ書き留めなければならない」と言いながら、「滝山コミューン」の重要な構成員であるはずの団地やPTA関係者等に対するインタビューは全く出てこない。(テキストベースの記事はいくつか引用されているが、そこに「学級集団づくり」への言及はほとんど見られない。)

さすがに“主犯”である片山先生には33年ぶりに再会し、「全生研の唱える『学級集団づくり』にすっかり魅せられた」という供述を得ているものの、彼が今現在それをどう評価、反省しているかという肝心な疑問に関するやり取りは全く記されておらず、他に取材した当時の教師の人数、内容もかなり限られたものになっているように思われる。

また、「私は当時の七小が、文部省の指導を仰ぐべき公立学校でありながら、国家権力を排除して児童を主人公とする民主的な学園を作ろうとした試みそのものを、決して全否定するものではない」と言いながら、「学級集団づくり」のメリットについては全く触れられていないところも疑問点の一つであり、やはり「国労動労の順法闘争やスト」や日教組ストライキと同様、自らの塾通い=私立中学受験の阻害要素の一つとしてしか認識していなかったのではなかろうか。

実をいうと、本書の中にも「私もまた、七小の同級生を見下していなかったか、特権意識をもっていなかったかと問われれば、それを完全に否定する自信はない」という反省めいた記述も出てくるが、「開成や慶応普通部という中学自体を知ら」ない同級生に対する少年時代の著者の優越感は本書のいたるところに現われており、失礼ながら、「学級集団づくり」とは無関係に相当いけ好かない小学生だったような印象が残ってしまう。

ちなみに、自分の小学生時代を振り返ってみると、田舎育ちのためか日教組の影響は少なく、むしろ戦前的な集団主義教育が顕著だったような記憶があるが、まあ、(俺も決して好きではなかったが)未熟な小学生にとって集団行動の習得はある程度必要なものであり、それは必ずしも個人や自由の否定に繋がるものではないだろう。

ただし、著者の言うとおり「自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚をもたないまま、『民主主義』の名のもとに、『異質的なものの排除ないし絶滅』」が行われてしまうのが大きな問題であることについては、全く異論はない。

ということで、著者の本音は小学生時代の自伝を書きたかっただけなのかもしれないが、残念ながら本書に登場する原少年はほとんど今の著者のミニチュア版であり、両者の人格的な繋がりが強すぎるような気がする。やはり、自伝を書くのは過去の自分をもっと客観的に見つめられるようになってからの方が良さそうです。