バーディ

1984
監督 アラン・パーカー 出演 マシュー・モディーンニコラス・ケイジ
(あらすじ)
ベトナム戦争で負った顔面の火傷の治療を受けていたアル(ニコラス・ケイジ)は、軍の精神病院で働いている軍医の招きに応じ、顔に包帯を巻いたままの状態でその精神病院を訪れる。そこに収容されていたのはやはり戦争で心を病んでしまったかつての親友バーディ(マシュー・モディーン)であり、誰からの呼びかけにも反応しない彼を現実に呼び戻すため、アルはその傍らで楽しかった高校時代の思い出を語り始める…


アラン・パーカーが「ピンク・フロイド/ザ・ウォール(1982年)」の次に発表した作品。

アラン・パーカーの訃報を耳にして見てみようと思った作品であり、昨夏はついお気に入りの「ザ・コミットメンツ(1991年)」を見てしまったが、それから約半年、ようやく本作を見ることが出来た。ちなみに、今回も「フェーム(1980年)」を見たいという強い欲求に駆られたが、何とか踏み止まることができた。

さて、おそらく本作の上映時間の2/3以上はアルとバーディの高校生時代の回想シーンで占められており、そこでは鳥に対して異常な興味を示すバーディに振り回されるアルの様子が生き生きとコミカルなタッチで描かれている。それに対して、ベトナム戦争で身体や心に傷を負った後の二人の若者の姿は実に哀れであり、この両者の落差の大きさが本作の主張のベースになっている。

鳥になりたいと考えているバーディは、今なら即“自閉症”というレッテルを貼られてしまうのかもしれないが、自分で決めたことは最後まできちんとやり遂げるという信念と自分の弱さを決して隠さないという勇気を併せ持ったキャラクターであり、おそらく一見すると自信家のように見えるアルも、この自分の弱さを堂々と引き受けることができるというバーディの“強さ”に惹かれていったのではなかろうか。

本作のラストは、戦争によってプライドをズタズタにされてしまったアルに寄り添うために、“鳥”になっていたバーディが現実の世界に戻ってくるというハッピーエンドで締めくくられているのだが、おそらくあの30分後には再び非情な現実が二人の前に立ちはだかる訳であり、人間のままその壁を乗り越えるのはなかなか難しいことなのかもしれない。

ということで、もっと他のアラン・パーカー作品も見てみたいのだが、U-NEXTのラインアップに上がっている未見の作品はこれで最後。正直、今のネット配信サービスはどれもこれも同じようなものばかりであり、もっと洋画をはじめとする特定のジャンルに特化したサービスが充実することを強く望みます。

プリティ・プリンセス

2001年
監督 ゲイリー・マーシャル 出演 ジュリー・アンドリュースアン・ハサウェイ
(あらすじ)
サンフランシスコの高校に通っているミア(アン・ハサウェイ)は画家の母親と二人暮らし。目立つことが大嫌いという内気な性格が災いし、話し相手は親友のリリーだけという彼女だったが、そんなある日、渡米してきた父方の祖母クラリスジュリー・アンドリュース)から、“あなたはジェノヴィア国のプリンセスで唯一の王位継承者である”という衝撃的な事実を告げられる…


アン・ハサウェイの映画デビュー作となったロマンチック・コメディ映画。

ディズニープラスというのは、いわゆるディズニー映画以外にも、ピクサー、マーベル、そしてスターウォーズ作品が見放題という我が家の嗜好にピッタリな配信サービスなのだが、その主要作品はほとんど全て映画館で鑑賞済みのため、逆に利用する機会があまりないのが困りもの。

そんな中でようやく見つけ出した未見の映画が本作であり、鑑賞済みだったらしい娘も加わって家族揃って拝見させて頂いた訳であるが、まあ、ストーリーは邦題からも十分予想できる内容であり、ラストのハッピーエンドに至るまで意外性というものを見出すことはほとんどできない。

主人公のミアは髪の毛がボサボサで眼鏡をかけている頃から既に十分美人であり、「プラダを着た悪魔(2006年)」のアン・ハサウェイを知っている我々にとっては、本作における変身後の主人公の容姿を見せられても、正直、何の驚きも感じない。(まあ、これに関しては誰のせいでもないのだが…)

しかし、結局、最後まで楽しく見てしまうのはベテラン監督ゲイリー・マーシャルのいぶし銀のような演出力の故であり、細かいギャグを適度に織り交ぜながら観客の興味を決して離さない。ちなみに、中盤に主人公が足を滑らせて尻餅をつくシーンがあるのだが、あれは演出じゃないよね?

ということで、単純なストーリーではあるが、コロナ禍の影響でちょっぴり陰鬱なムードになりがちな今見るのには最適の作品であり、アン・ハサウェイはデビュー当時からアン・ハサウェイであったことがよく分る。続編もあるようなので、機会があればそちらも見てみようと思います。

21世紀の資本

2013年に公刊され、世界中でベストセラーになった経済学者トマ・ピケティの著書。

名前だけは以前から聞いてはいたのだが、それがドキュメンタリー作品として映画化されたという情報を耳にして吃驚仰天。まあ、上映時間2時間足らずのその映画を見てしまえばピケティの主張の概要が把握できるというのは有り難い話だが、おそらくその後にこの大著を読む気にはなれないだろうということで、急遽、先に読んでみることにした。

さて、最初にネタばらしをしてしまうと、本書のエッセンスは、冒頭の「はじめに」の中の「本研究の主要な結果」、「格差収斂の力、格差拡大の力」そして「格差拡大の根本的な力―r>g」の三つの章に要領よくまとめられており、正直、ここを読むだけで2時間弱の映画を見るよりもお手軽に著者の主張に触れることが出来てしまう。

以下、それを参考にしながら本書の概要を紹介してみると、最初の「第1章 所得と産出」に出てくるのは、著者が「資本主義の第一基本法則」と主張する「α=r×β」という数式であり、αは「国民所得の中で資本からの所得のしめる割合」を、rは「資本収益率」を、βは「資本/所得比率」を表している。

「たとえば、β=600%でr=5%なら、α=r×β=30%」となり、「言い換えると、国富が国民所得6年分で、資本収益率が年5パーセントなら、国民所得における資本のシェアは30パーセントということ」になる。つまり、資本収益率rが一定でも、資本/所得比率βが上昇すれば、国民所得における資本のシェアαは上昇するという訳だ。

この資本/所得比率βの水準を長期的に決定しているのが、「第5章 長期的に見た資本/所得比率」で紹介されている「β=s/g」という数式であり、sは貯蓄率を、gは経済の成長率を表している。「資本主義の第二基本法則ともいえるこの公式は…たくさん蓄えて、ゆっくり成長する国は、長期的には(所得に比べて)莫大なストックを蓄積し、それが社会構造と富の分配に大きな影響を与えるということ」を示している。

このαやβは富の集中=格差の拡大と密接な関係を有しており、ここで過去の資本/所得比率βの状況を振り返ってみると、「19世紀末のヨーロッパにおける民間財産の水準…は、国民所得の6~7年分あたりをうろうろして」おり、これはきわめて高い水準であった。「それが1914~45年期のショックを受けて急落」し、「資本/所得比率は2から3に下がった」ものの、1950年以降回復傾向に転じ、「21世紀初頭には英仏両国で、国民所得5~6年分にもどりそうだ」とされる。

勿論、「1914~45年期のショック」というのは2度の世界大戦のことであり、実際の戦禍による資本の滅失やそれからの復興(=人口増加を含む。)の影響が大きい。しかし、「1950年代の最低水準は、β=s/gの法則で求められる単純な蓄積の論理から予測されるより低かった。20世紀半ばの谷底の低さを理解するためには、第二次世界大戦の影響で、さまざまな理由(地代家賃統制令、金融規制、私有資本主義にとって不利な政治状況)から、不動産と株の価格が過去最低水準に下落した事実を盛り込む必要がある」ことにも留意すべきである。

この影響により、「第二次世界大戦後の数十年では、相続財産がその重要性をほとんど失い、歴史上で恐らく初めて、労働と勤勉がトップに登り詰めるための最も確実なルートとなった」。しかし、「1950年代以降、これらの資産価値は次第に回復へ向かい、1980年以降はその上昇がさらに勢いを増した。私の推計によると、この歴史的なキャッチアップ・プロセスはすでに完了している」そうであり、現在、資本/所得比率は急速な上昇傾向を示している。

すなわち、20世紀半ばまでの資本/所得比率の低下、そしてそれに伴う社会的格差の縮小は「大恐慌第二次世界大戦が引き起こした複数のショックにより生じたものがほとんどであり」、クズネッツ曲線に示されるような「自然または自動的なプロセスによるものはほとんどなかった」。「資本/所得比率βの着実な増加、そして国民所得の資本シェアαの着実な増加を妨げる自己修正的メカニズムは存在しない」というのが本書における重要な結論の一つになる。

一方、そんな例外的な期間を除いて一般的に認められるのは「根本的な不等式r>g」で表される状況であり、それは「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば…富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」という事実。「資本収益率が経済の成長率を大幅に上回ると…論理的にいって相続財産は産出や所得よりも急速に増える。相続財産を持つ人々は、資本からの所得のごく一部を貯蓄するだけで、その資本を経済全体より急速に増やせる。こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富より圧倒的に大きなものとなるし、資本の集積はきわめて高い水準に達する」ことになる。

この「不等式r>g」が成立することについて、著者は「私はこれを論理的必然ではなく、歴史的事実と考えている」と言っており、「r>gという不等式は、第一次世界大戦直前まで、人類の歴史の大半を通じて明らかに事実であり、おそらく21世紀にも再び事実となるだろう」と推測する。

その根拠の一つになるのが、「例外的な時期か、キャッチアップが行われているとき以外には、経済成長というのは常にかなり低かったのだ」という事実であり、著者によると「世界の技術的な最前線にいる国で、1人当たり産出成長率が長期にわたり年率1.5パーセントを上回った国の歴史的事例はひとつもない」らしい。

大陸ヨーロッパ、特にフランスでは1940年代末から1970年代末の30年間は経済成長が異様に高く、今でも「栄光の30年」としてノスタルジーの対象になっているらしいが、「それはごく単純に、1914~1945年の時期にヨーロッパは米国に大きく遅れを取り、栄光の30年でそれに追いついたから」に過ぎない。おそらく我が国の“高度成長期”もこれと同じ例外的な現象だったのだろう。

さて、著者が格差拡大プロセスのもうひとつの原因として指摘しているのが「『スーパー経営者』の出現」であり、「賃金格差が米国とイギリスで急拡大したのは、1970年以降米国とイギリスの企業が、極端に気前のいい報酬パッケージを容認するようになったからだ。…あらゆる兆候から見て、この重役報酬の変化こそが世界中の賃金格差の変遷に重要な役割を果たしてきたのだ」とされる。

一般に、賃金格差の存在は「限界生産性理論や、技術と教育の競合という理論」で説明されることが多いが、「大企業の経営上層部の仕事は再現がむずかしいので、仕事の生産性推計はかなり誤差の大きいものにならざるを得ない」ために、「技能―技術理論の説得力は低下」せざるを得ない。

また、「限界生産性が重役報酬を決定するなら、そのちがいは外部の動向とはほとんど無関係に、『非外部的』な差のみによって、あるいは主にそれによって決まると考えられるはずだ。でも実際に見られるのはその逆だ。役員報酬が最も急上昇するのは、売り上げと利潤が外部要因で増えたときなのだ」という批判も存在するそうであり、そういった現象は「ツキに対する報酬」と呼ばれているらしい。

そんな中で著者が「こちらのほうが私にはもっともらしく思えるし、証拠とも一貫性を持つ」と主張するのが、「トップ経営者たちはおおむね自分の報酬をときには無制限に決める権限を持っており、また多くの場合には自分個人の生産性(どのみち大組織では、これを推計するのはとてもむずかしい)と明確な関連性などまったくなしに報酬を決められるからだ」という説明。

その契機になったのが「1980年以降の英語圏における最高限度所得税率の大幅な引き下げ」であり、かつての「昇級分の80~90パーセントがどのみちまっすぐ政府にいってしまう」という状況から自由になった「最高経営層にとって報酬の大幅な増額を求めるインセンティブは以前よりも強くなってしまった」というのは確かにありそうな話しである。

そして「50歳、あるいは60歳の人が所有する富が相続によるものか、稼いだものかにかかわらず、ある閾値を超えると、資本は自己再生産して指数関数的に蓄積する傾向にあるという事実は変わらない。r>gという論理は、起業家は常に不労所得生活者になりがちだと示唆している」というのが、格差拡大に関する著者の危機感の源泉。なお、この格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは無関係であり、むしろ「資本市場が完全になればなるほど…rがgを上回る可能性も高まる」ことに留意すべきである。

さて、このような格差の拡大に歯止めをかけようというのが「第Ⅳ章 21世紀の資本規制」の検討課題であり、「第14章 累進所得税再考」では「近年の自由な資本フローの世界における税制競争台頭」によって「多くの国で税金は所得階層トップでは逆進的になっている(あるいは間もなくそうなる)。…資本所得は累進課税からほとんど除外されているのだ」という現状が批判的に取り上げられており、その批判のほとんどは我が国の税制にもあてはまりそう。

特に興味深いのは「20世紀の累進課税の歴史を見るとき、イギリスと米国がいかに突出して先んじていたか」という歴史的経緯であり、ルーズベルトによる90パーセントを超える最高税率の引き上げを、著者は、「『過剰な』所得や財産に対する没収的な税を発明した」、「累進課税は、格差削減のかなりリベラルな手法」等と高く評価している。

残念ながら「サッチャー主義とレーガン主義の台頭」により、「1930年代から1970年代までの平等性への大いなる情熱を経験した後で、米国とイギリスは同じくらいの熱意を持って正反対の道へと方向転換」してしまうのだが、前述のとおり、それは「スーパー経営者」を生み出す元凶にもなっている。

それに対する著者の主張は、「最高所得に対して没収的な税率をかけるのは、可能なばかりか目に見える超高給与の増大を阻止する唯一の方法だ」というものであり、「私たちの推計によると、先進国で最適な最高税率はおそらく80パーセント以上だ」と提案している。

また、「そんなことをしたら米国のあらゆる重役たちは即座にカナダやメキシコに逃げだし、経済を運営するだけの能力ややる気を持った人物は誰一人として残らない」というよく耳にする反論に対しては、「歴史的経験にも反しているし、手持ちのあらゆる企業レベルのデータにも反している。また常識的にも馬鹿げた話だ」と一蹴している。

そして、最後に、「民主主義が21世紀のグローバル化金融資本主義に対するコントロールを取り戻すためには、今日の課題に適応した新しい道具を発明しなくてはならない」として著者が提唱するのが「資本に対する世界的な累進課税」であり、「それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせねばならない」と主張する。

保護主義や資本統制とは異なり、「世界的な資本税は、経済の開放性を維持しつつ、世界経済を有効な形で規制し、その便益を各国同士や各国の中で公正に分配できるという長所」があるとされており、その主要な目的は「資本主義を規制すること」。「まず富の格差の果てしない拡大を止め、第二に危機の発生を避けるために金融と銀行のシステムに対して有効な規制をかけること」ができるというのはとても魅力的な制度と言えるだろう。

著者の試算によると、「たとえば100万ユーロ以下の財産には0パーセント、100~500万ユーロなら1パーセント、500万ユーロ以上なら2パーセントという富裕税を考えよう。EU加盟国すべてにこれを適用したら、この税金は人口の2.5パーセントくらいに影響して、ヨーロッパのGDPの2パーセント相当額の税収をもたらす」そうであり、「たとえば富の格差を今日より(そして歴史的に見て成長にとって必要でない水準より)もっと穏やかなところまで引き下げたいなら、大金持ちに対しては10パーセント以上の税率だって考えられる」とのこと。

しかし、「むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度の国際協力と地域的な政治統合を必要とすること」だということは著者も認めているところであり、現状で各国政府が及び腰になっている「銀行データの自動共有をめぐる国際合意の明確化と拡大」を抜きにしては、「世界GDPのおよそ10パーセント」にも相当する富を隠蔽しているというタックス・ヘイブン対策は不可能なことらしい。

したがって、「残念ながらこの問題に対する実際の対応は―これは各種ナショナリズム的な反応も含む―は、実際にははるかに慎ましく効果の薄いものとなるだろう」というのが著者の見通しになっているのだが、いずれにしても格差の解消に関しては累進的な資本税や所得税の導入・強化が有効な手段であることが良く理解できた。

以上が、「はじめに」の内容に沿った本書の概要であるが、勿論、これら以外にも興味深い内容がたくさん含まれており、その一つが著者による新自由主義(=「保守派革命」)批判。19世紀後半には「米国の多くの評論家たちが、自国はますます不平等になって、もともとの建国理念からどんどん離れていると懸念」していたが、さらに1930年代の大恐慌の影響により「多くの人々は私腹を肥やして国を崩壊させた経済金融エリートたちを責めた」そうである。

前述のルーズベルトによる所得税最高税率の「没収的な」引き上げはこのような時代背景の下で行われたものであり、その結果(だけではないのだろうが)、「米国では格差は1950年から1980年の間に最も小さくなった。…これが、ポール・クルーグマンがノスタルジックに『みんなの愛するアメリカ』と呼んでいるもの―かれの子供時代のアメリカだ」というような状況が現出した。

一方、大陸ヨーロッパの「栄光の30年」等の影響により、「1950年から1980年にかけて、英語圏と敗戦国とのギャップは急激に縮まった。1970年代末になると、米国の雑誌はしばしば米国の衰退と日独産業の成功を嘆いた。…この脅かされているという感覚…は『保守派革命』において重要な役割を果たした」そうであり、そんなときに注目を集めたのがフリードマンマネタリズム

大恐慌における「危機は主に金融的なもの」と考える彼にしてみれば、「その解決策も金融的」であるべきであり、「資本主義経済の安定した中断のない成長を確保するためには、物価水準の規則正しい推移を保証しうる適切な金融政策を守ることが必要十分条件なのだ」と主張する一方で、「大量の公共雇用と社会移転プログラムを作り出したニューデールは、お金がかかるだけで役立たずなインチキでしかない」ことにされてしまう。

この主張は、「他国に追いつかれるという感覚」を背景に英米政府に大きな影響を及ぼし、今日の新自由主義の台頭を招いてしまう。しかし、両国の成長率が「再び大陸ヨーロッパや日本と並ぶ水準に戻った」のは単に「栄光の30年」等が終了したからに他ならず、「ざっと言うなら、米国とイギリスの経済自由化政策はこの単純な現実に対してほとんど影響がなかった」というのが著者の評価。後に残ったのは1980年以降の所得格差の急拡大という悲惨な現実だけだった。

また、著者によるマルクス論も興味深い内容であり、それは「実際、マルクスの主要な結論は、『無限蓄積の原理』とでも呼べるものだ。つまり、資本が蓄積してますます少数者の手に集中してしまうという必然的な傾向だ。これがマルクスによる資本主義の破滅的な終末予測の基盤となる」というもの。

ここでいう資本とは機械や工場のような「主に工業用」のものであり、土地不動産とは異なり、「蓄積できる資本の量に原理的には何の制限」もない。そのため無限の蓄積が進み、「資本収益率がだんだん下がってくるか(そうなると蓄積の原動力がなくなり、資本家同士の暴力的な紛争が起る)、国民所得における資本の比率が無限に上昇するか(そうなると遅かれ早かれ労働者たちが団結して反乱を起こす)、いずれにしても、安定した社会経済的、政治的な均衡はあり得ない」ことになる。

このようなマルクスの「暗い予言」が実現しなかったのは、「先人たちと同じく、マルクスもまた持続的な技術進歩と安定的な生産性上昇の可能性を完全に無視していた」からであり、「これはある程度までは、民間資本の蓄積と集積のプロセスに拮抗する力となる」らしい。

しかし、それが永続的なものでないことは明かであり、逆に「低成長だとマルクス主義的な無限蓄積に対して十分に拮抗できなくなる。その結果として生じる均衡は、マルクスが予測したほど暗澹たるものではないにしても、かなり困ったものになるのはたしかだ」という理解は、著者自身による暗い予言を裏付ける内容になっている。

ちなみに、著者は「私有財産市場経済は、自分の労働力しか売るモノがない人々に対する資本の支配を確実にするだけが役割ではなかったということだ。それは何百万もの個人の行動を調整するのに便利な役割を果たすし、それがないとなかなかやっていけないのだ」とも述べており、まあ、当然のことではあるが、決して純粋なマルキストという訳ではなさそうである。

これら以外にも、インフレの話(=効果は絶大だがコントロールが難しく、「慎ましい生活手段しかない人にとって有害となる」)や公的債務の話(=「政府に貸し付けを行うだけの財産持ちの立場からすると、無償で税を納めるよりも、国に貸し付けて数十年にわたって利息を受け取るほうが、当然ながらはるかに有益だ」)等々、有意義な指摘が満載だが、きりがないのでここまでにしておこう。

ということで、「いかに当初の富の格差が正当なものだろうと、そうした財産はあらゆるまともな限界も、社会的効用で見たどんな合理的な正当性も超えて、自律的に増加し、存続してしまうのだ」という危機感が著者の主張の根本であり、それによる格差の拡大を防止するために、まずは(不完全な内容でもかまわないから)税制の累進性を高めるところから取り掛かるべきだと思います。

男山から本山へ

今日は、妻と一緒に宇都宮市内にある本山周辺を歩いてきた。

正月休みも本日が最終日であり、何処か歩いてこようと考えていたのだが、コロナ感染が広がっている状況下では遠出は控えた方が無難だろう。そこで白羽の矢を立てたのが宇都宮アルプスであり、まあ、ここなら早出をする必要もないということで、午前10時過ぎにこどものもり公園の駐車場に到着する。

身支度を整えて10時15分に出発。妻とこの山を歩くのは2回目であり、最初はそのときと同じルートでイイヤと思っていたのだが、歩き出してすぐ男山方面を示す標識を目にして急遽方針変更。最初に男山を目指すこのルートは10年前に一人で歩いたことはあるが、その時の記憶はほとんど残っておらず、しばらくの間、林道区間がこんなに長かったかなあと訝しみながらテクテク歩いて行く。

すると、伐採地のような場所の道端に左折を促す標識(10時42分)が立っており、そこを曲がるとその先に“男山”方面を示す標識の立った三叉路(10時44分)が出てくる。標識が示しているのはその真ん中の尾根道であり、ここからようやく山歩きらしくなってくるのだが、傾斜はなかなか急であり、最後はちょっと岩っぽいところを通過して11時13分に男山(527m)に着く。

しばらく山頂で呼吸を整えてから先に進むが、面倒なので榛名山へのピストンは省略してしまい、そのまま尾根伝いに進んで11時47分に本山(561.5m)到着。先着の2人組が場所を譲ってくれたので何の気兼ねもなしに山頂を独占させて頂き、コーヒーを飲みながら妻と二人で今年の山歩き計画を練る。

さて、12時14分に下山に取り掛かると、そこから先は前回と同じルートを進み、12時48分に現われた分岐で飯盛山方面に別れを告げた後、キャンプ場の敷地を横断するようにして駐車場(13時28分)に戻ってくる。本日の総歩行距離は5.6kmだった。

ということで、今年の“歩き始め”としては少々物足りなかったが、まあ、今のコロナ禍の状況ではやむを得ないところだろう。おそらくあと一月もすれば少しは事態も改善するだろうし、そのときを楽しみにして、しばらくの間は近場の山歩きで体力の維持に努めたいと思います。
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2021年の初日の出

今日は、新年の恒例ということで、妻と一緒に戸室山から初日の出を拝んできた。

ネット配信で見た「This is 嵐 LIVE 2020.12.31」の衝撃(?)のせいか、昨晩は“起きられるかどうか分らない”と言っていた妻も午前6時頃に起きてきたので、予定どおり戸室山に向かう。コロナ禍の影響でガラガラかと思ったが、いつもの展望ポイントのところにはそれなりの数の見物客がスタンバっているようであり、ひょっとすると古賀志山や多気山の混雑を敬遠した方々も含まれているのかもしれない。

いつもならその後ろに並ぶのだが、今年は混雑回避ということで、そこより少し後ろの一段高くなったところにある石の上に腰を下ろして東方の地平線を眺める。木の枝が少し邪魔になるのが難点だが、上空のコンディションは上々のようであり、地平線上に張り付いた帯状の雲も見えない。

これならいつもより早めに太陽が顔を出してくれるかもしれないね、と妻と話しながら眺めていると、予報による本日の日の出時刻を2分過ぎた6時54分にきれいな初日の出。とりあえずスマホのカメラで2、3枚写真を撮ってから、家族一同の健康と一日も早いコロナ禍の収束を祈願した。

ということで、山頂の反対側にある岩場からはきれいな富士山を眺めることも出来、コロナ禍にもかかわらず、初日の出見物としてはここ数年で一番良いコンディションだったのではなかろうか。山歩き関係では、本年4月に長年暖めてきた計画を実行に移す予定であり、引き続き無理をしない範囲内で楽しませて頂こうと思います。

年末の雨巻山

今日は、妻と一緒に益子町にある雨巻山を歩いてきた。

一応、昨日のうちに大掃除は済ませておいたので、今日は今年の“歩き納め”として何処か歩いてこようと妻に相談。コロナ禍の故、あまり遠出はできないので太平山あたりにしようかと考えていたが、彼女の提案は雨巻山であり、特に異論を唱える理由もないので午前7時半過ぎに大川戸登山口にある駐車場に到着する。

身支度を整えて7時43分に出発。6年前に妻と歩いたときには舗装された林道を歩いて行ったのだが、今回は「登山ガイドブック」に記されている“足尾山尾根コース”を選択し、営業準備中らしいピザ屋さんの裏手から山中へと入っていく。そこは3年前に娘と一緒に3人で下山するときに使用したルートでもあるが、そのときの記憶はもはや曖昧。

さて、8時26分に尾根上にたどり着くと、峠(8時46分)~猪ころげ坂(9時3分)と稜線上を歩いて9時41分に山頂(533.3m)に着く。先客は2人連れの一組だけだったが、ベンチに座って休憩しているうちにどんどん人数が増えていき、う~ん、そろそろ席を譲らないとマズいかな。

折角なので、これまで行ったことのない展望塔を見に行こうと妻を誘い、ザックを背負って再出発。しかし、10時12分に着いた展望塔は何故か木立の中に建てられており、見晴らしもあまり芳しくない。仕方がないのでサッサと山頂まで引き返し、三登谷山(433m。11時10分)経由で駐車場(12時00分)まで戻ってくる。本日の総歩行距離は7.4kmだった。

ということで、段差の少ないこの山は妻にとって“歩きやすい山”だそうであり、これからも何度か訪れることになりそう。しかし、今回、彼女がこの山を指名した理由は“イチゴを買うため”だそうであり、「道の家ましこ」に立ち寄ってその目的を果たしてから無事帰宅しました。
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ソウルフル・ワールド

2020年
監督 ピート・ドクター
(あらすじ)
非常勤の音楽教師をしているジョー・ガードナーは、未だジャズ・ミュージシャンになる夢を諦めきれないでいる中年男。ある日のこと、かつての教え子の紹介によって一流サックスプレイヤーのドロシアの前でピアノの腕前を披露するチャンスをつかんだ彼は、見事合格して彼女のグループに加わることが決定! 大喜びのジョーであったが、その直後、誤ってマンホールに墜落してしまい、“ソウルの世界”へ迷い込むことに…


「2分の1の魔法(2020年)」に続くピクサーの新作アニメ映画。

ご多分に漏れず、本作もコロナ禍の影響によって劇場公開が見送りになってしまい、今月25日からディズニープラス での配信が始まったところであるが、「ムーラン(2020年)」とは異なり、最初から追加料金なしで見られるのが有り難い。しかし、妻&娘の関心は低調のようであり、一人寂しくTVの前で鑑賞することになってしまった。

さて、“ソウルの世界”というのは、人間として生まれる前のソウル(魂)たちが暮らしている世界のことであり、彼らはそこで各々の個性を獲得してから人間世界へと旅立っていくらしい。その個性の一つが“スパーク(きらめき)”であり、ソウルたちは、ガンジーリンカーンマザーテレサといった偉大なメンターたちの辿った人生に感動することを通して、自分なりのスパークを発見するという仕組みになっている。

しかし、中にはなかなか自分のやりたいことが見つからないソウルも存在する訳であり、“こじらせソウル”の異名を持つ22番は、人間になることを拒んで“ソウルの世界”に何百年も居座り続けている問題児。ひょんなことから、そんな22番のメンターを務めることになったジョーは、22番のスパーク探しを手伝いながら現世への復活を目指すことになるのだが、その過程で明らかになっていく本作のテーマは“生きることの意味”。

結局、スパークが意味するのは“人生の目的”というような大それたものではなく、“何にときめきを感じるか”みたいなものであることが判明し、美味しいピザや色付いた落ち葉の美しさといったささやかな日常の中に喜びを見出していくことこそが“生きることの意味”なんだという結論にたどり着く。勿論、このシンプルな結論に何の異論もないのだが、その割りには設定が少しややこしかったかなあ、というのが偽らざる感想。

ということで、脚本・監督を務めているピート・ドクターは、以前「インサイド・ヘッド(2015年)」を手掛けた人物であり、こういった哲学的思考をそのままストレートにキャラクター化して表現するのがお得意のようである。しかし、その内容を本当に子供が理解できているのかと言えば、正直、大いに疑問であり、対象年齢が非常に限られる作品(=個人差はあるだろうが、だいたい10代半ばくらい?)になっているような気がします。