飯能アルプス

今日は、休みを取って埼玉県にある“ご当地アルプス”の一つである飯能アルプスを歩いてきた。

このところ楽な山歩きしかしていないため体力の低下がちょっと心配。そんな訳で、持ち越しになっている“正月太りの解消”も兼ねてこのロングコースを選んでみたのだが、途中リタイアの可能性を考えると先に最高峰の伊豆ヶ岳を歩いてしまった方が無難であり、ちょっと早起きをして午前6時前に飯能駅近くのチケパ飯能駅前第3駐車場に到着する。

さて、飯能駅6時1分発の各駅停車に乗って正丸駅へ移動し、身支度を整えてから6時39分に歩き出す。最初は舗装道路を歩いていくのだが、平日にもかかわらず、前後には他の登山者の姿がチラホラ。土日営業の中丸屋(6時50分)通過後、6時58分に着いた分岐ではヤマレコで仕入れたルートどおり正丸峠方面に向かうが、どうやら大蔵山コースを選ぶ人の方が多いみたい。

舗装路が山道に変わると、次の旧正丸峠分岐(7時6分)では左方向を選び、最後は急階段を上るようにして7時23分に正丸峠に着く。ここからようやく稜線歩きが始まる訳であるが、ちょっとしたピークにはきちんと(?)巻き道が付けられており、まあ、若干の罪悪感はあるものの、今日の最大の目標は“完歩”なので有難くそれを使わせて頂く。

最初のピークである小高山(720m。7時38分)を通過して7時49分に五輪山(770m)に着くと、なんと山名板が地面に落ちており、う~ん、コロナウィルスの蔓延により開催が危ぶまれている東京オリンピックの行方を暗示しているのかもしれない。事前学習で調べておいた男坂女坂分岐(7時50分)はそのすぐ先にあった。

男坂の入口には「落石危険」の看板とロープが張られているが、それは立入禁止の趣旨では無いらしく、周囲に登山者の姿は見当たらないので落石の心配も無用だろう。そんなことを考えながら男坂の鎖場に取り付くと、足場はしっかりしているので鎖はお守りみたいな感じでどんどん上っていける。ただし、小石を落としてしまうのは避け難いため、前後に登山者がいる場合には自粛した方が良いかもしれない。

さて、岩場を乗り越えて女坂からのルートと合流すると伊豆ヶ岳(850.9m)の山頂はすぐそこであり、8時3分に到着。ちょっと風は強いものの上空は晴れており、のんびり一休みしたいところではあるが、先は長いのでそのまま歩き続ける。しかし、山頂からの下りは地面が乾燥しているためズルっと滑りそうであり、正直、男坂なんかよりずっと怖い。

その先もややオーバーユース気味ではあるが、登山道はきちんと整備されており、古御岳(830m。8時19分)~高畑山(695m。8時43分)と歩いていく。天目指峠(9時12分)の先からのアップダウンはちょっと大変だが、小さな鳥居(9時41分)を潜るとルートは寺院の敷地内に入ったようであり、9時47分に子の権現の本堂に到着する。

ここは足腰守護のご利益があるらしく、本堂の横には巨大なわらじや下駄が展示されている。それらを見学後、ベンチで一休みしてから再び歩き出すと売店の先で道は二手に分かれており、ちょっと迷った末に山道の方へ進んでみる。しかし、休憩所(?)の先で道は途絶えてしまい、分岐まで引き返して今度は舗装道路を歩いていくと、駐車場のような広場の先に吾野駅方面を示す標識(10時1分)が立っている。ルートはその反対側に続いていた。

道幅は狭くなるが、まあ、山道としては立派なものであり、するぎ(10時17分)~堂平山(10時41分)~板屋ノ頭(11時5分)と歩いていく。採石場付近では左手に視界が広がるが、お地蔵さん(11時15分)を過ぎると舗装された林道(11時20分)に出てしまい、そこをしばらく歩いていくと“前坂へ”の標識(11時24分)のところから再び山道に入る。

その前坂に着いたのは11時35分のことであり、ここから吾野駅方面にエスケープすることも可能だが、ここまで予定を2時間近く上回っているので引き続き先に進む。突如現れた青いフェンスに沿って急な斜面を下っていくと再び林道(11時49分)を横断し、そこから上り返して12時9分に大高山(493m)に到着する。

さすがに疲れてきたので山頂に腰を下ろし、菓子パン等を食べながら空腹を満たす。その先しばらくは見印らしきものが出てこなくなるが、ルートは依然明確であり、やがて「天覚山を守る会」の標識に導かれるようにして天覚山(445.4m。13時15分)に到着。ここまで来てしまえばこれから先に大したピークは存在しないハズであり、数名の登山者と共に山頂のベンチに座ってゆっくり休憩をとる。

さて、気分はすっかり“下山モード”であるが、13時40分に着いた東吾野駅多峯主山方面を示す標識は尾根を90度外れた方向を向いている。GPSに入れてきたデータがちょっと古いのかもしれないが、正面に見えている錆びた鉄塔の下にも明確な踏み跡が認められるためそのまま尾根を直進。しかし、最終的には鎖を使って林道(13時46分)に着地することになってしまい、やはりここは標識に従うべきだった。

その後も釜戸山入口(14時22分)~久須美山(260m。14時44分)と歩いていくが、下山気分でいたにもかかわらず、なかなか終わりが見えてこないので次第に気持ちが荒んでくる。ルートはゴルフ場や住宅地沿いに続いているため山歩きの雰囲気は希薄であり、永田山(277.5m。14時58分)を通過した先の標識(15時13分)には、尾根を外れて階段を下りていくように書いてある。

しかし、下りた先は普通の住宅地であり、その先のルートが不安だったため、ちょうど後ろを歩いていた二人連れに先行をお願いして彼らの後を付いていく。正直、なんでこんな街中の舗装道路を歩かなければならないのかと不満は募る一方だが、しばらく先の左手に多峯主山登山口を示す標識(15時22分)が立っていた。

疲れているのと気分が落ち込んでいるのとで状況は最悪であり、尾根を一つ越えたところ(15時43分)で予定外の大休止。まあ、時間的にはまだ余裕はあるので後はのんびり歩いていけばいいさと自分に言い聞かせ、再び緩やかな斜面を上り続けてようやく多峯主山(270.7m。16時6分)にたどり着く。

しばらくベンチに座って山頂からの見晴らしを楽しんだ後は、公園のように整備された敷地の中を疲れた足を引きずってトボトボ歩いていく。最後は緩やかではあるが長~い階段を上って16時40分に天覧山(195m)に到着すると、そこが長かった飯能アルプスの最終地点であり、たまたま居合わせたご老人に事情を話して一緒に“完歩”を祝ってもらった。

ということで、その先は飯能市内を歩いて17時8分に駐車場まで戻ってくる。本日の総歩行距離は26.8kmだったが、体力の衰えは想像以上であり、まあ、老化の影響もあるのだろうがそれ以上に日頃のトレーニング不足を痛感。日も伸びてきたことだし、どこまでやれるか自信はないが、出来るだけ機会を見つけて体力の維持に努めたいと思います。
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ナショナリズム

「その神話と論理」という副題が付された政治学者である橋川文三の本。

以前から気になっていた思想家の一人なのだが、先日読んだ中島岳志の「親鸞と日本主義」の中で度々言及されていたことが契機となり、ようやく読んでみる気になった。「昭和維新試論」(1984年)とどちらにしようかちょっと迷ったが、とりあえず発表順ということで、1968年に発表された本書を先に読むことにした。

さて、解説を書いている渡辺京二も言うとおり、本書は「標題に対して異様な構成になって」おり、「序章『ナショナリズムの理念』で、近代ナショナリズムの本質が、その語義・淵源も含めて全面的に考察されているのに対して、本文ともいうべき第一章・第二章は日本ナショナリズムの成立のみを扱っており、それも時代的には明治十年代の自由民権運動で終わっている」。

そんな「序章 ナショナリズムの理念-一つの謎」で紹介されているのは、「近代において、何がナショナリズムの大いなる流行をもたらしたのか? 私たちは本当にそれを知らない」というC.G.H.ヘイズの衝撃的な言葉であり、「おそらく、この問題に対する正しい解答は、或いは現代人の知力によっては、当面与えられないかもしれないのである」とされる。

そのような前提に立って近代ナショナリズムの本質が考察されているのだが、まず、取り上げられているのがナショナリズムの概念と混同されやすいという「パトリオティズム」。それは「人間の成長そのものとともに自然に形成されるより根源的な感情」であり、「『世論の力や、教育や、文学作品や新聞雑誌や、唱歌や、史跡や』を通して教えこまれる」ところのナショナリズムとは区別して考えなければならない。

しかし、「この両者の間には、一般に次のような微妙な共棲関係のあることが認められるはず」であり、「人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズムは、ナショナリズムという特定の歴史的段階において形成された一定の政治的教義によって時として利用され、時としては排撃されるという関係におかれている」ことに留意する必要がある。

続いて「ナショナリズムの実践的形態をはじめて展開したのがフランス革命であり、直接にその理念を提示したのがルソーであったという通説」に従い、ルソーの問題が取り上げられるのだが、彼の「一般意志」とは「個人のエゴイズムと公共心との完全な一体化を象徴する理念」であり、カール・シュミットはそれを「主権者の意志であり、国家の一体性を形成するものである」と説く。

そして「一般意志と、個別的な個人的利害関心との間に現実の乖離が生じた場合」には、結局、「一般意志に背反するものへの強制の正当化」が必要になってしまい、「ルソーのいわゆるパトリオティスム(=ナショナリズム)が、個人の意志をこえたある普遍的・絶対的な意志への服従を意味している」という結論に導かれる。

すなわち、「教会を含めた中世的共同生活の様々な秩序が崩壊し、人間の善意という唯一のものしか、新たな共同秩序の形成原理として残されていないことに気づいた人間」が、「伝統的な神にかわる新たな神」として考案したのが一般意志であり、「その新しい教会に当たるものが従来の『キリストの共同体』にかわって、ネーションとよばれるものにほかならなかった」。

この章は、「それは一言でいえば、神を見失ったのち近代人の幸福はいかにして可能であるか? という発想であった。そして、その答えは絶対にあやまることのない『一般意志』、即ちほとんどホッブスの『リヴァイアサン』に似た強力な権威の創出とそれへの忠誠ということであった。ルソーは、近代人の卑小さをあのばら色の啓蒙期において予見していたのである」という美しい文章で締めくくられているのだが、確かに、三島由紀夫から「社会科学者で唯一の文体の保持者」と評されただけのことはある。

さて、続く「第一章 日本におけるネーションの探求」では日本ナショナリズムの黎明期について述べられており、「普通、日本人の前に、ネーションという未知の思想が浮かび上がってきたのは、19世紀の半ばごろ、いわゆる『西洋の衝撃』…がきっかけであったとされている。…この見解は、概括的に見るかぎり、ほとんど疑問の余地はないであろう」。

「しかし…それが果たして真のネーションの意識とよびうるものであったかどうかは、吟味を必要とするはずであ」り、「もしその『皇国』『神州』等々のシンボルが、たんに超藩的な統合を目ざしたというだけならば、それはただ封建支配の全国的な再編成をめざした新しい政策論にすぎないかもしれ」ず、「未だ本来のネーションの登場する余地は認められない」ことになる。

ここで著者は、「黒船のひきおこした衝激とそれへの反応形態」を、「封建諸侯とその家臣団」、「豪農・豪商の名で呼ばれる当時の中間層」、そして「一般民衆―とくに封建社会を実質的に支えていた農民層」の三層それぞれについて検討しているのだが、最初のグループの中で特に注目しているのが吉田松陰の存在。

「一般的に封建的支配者層が形成期のナショナリズムに対して敵意をもつか、冷淡であることは、歴史的にも、理論的にも明らかな事実とされている」そうであり、水戸学にも共通する「民衆不信=愚民観は、彼らのイデオロギーが伝統的な封建教学の枠をこえるものでなかったこと、そのいわゆる『神州』擁護の思想もまた、旧来の封建秩序の維持を眼目とするものにすぎなかったことを示している」。

そんな中で「水戸学の影響範囲から出ながら、ある新しい人間観と忠誠論の立場に到達し、そのことによって、日本人のネーションの意識に、かなり深刻な影響を与えることになった」のが松陰吉田寅次郎その人であり、「その忠誠対象が明確に具体的な天皇の人格に転位したということ、それが藩体制をこえたより一般的な忠誠心の対象として定位されたということは、のちのネーション形成のための突破口を開いたものではあった」。

著者は、女性や部落民に対して差別感を抱かず、当初「士大夫→君主→幕府の序列にしたがって規諫をつくすこと」によって尊王を達成できると信じていた彼の根底にあるのは「人間の善意に対する熱烈な信頼」であり、「日本人によって形成される政治社会の主権が天皇の一身に集中されるとき、他の一切の人間は無差別の『億兆』として一般化される。論理的には、もはや諸侯・士大夫・庶民の身分差はその先天的妥当性を失うこととなる」と述べている。

次の「豪農・豪商の名で呼ばれる当時の中間層」に関する考察において大きく取り上げられているのが「幕末国学の思想」の影響であり、「それは…時の政治体制への従順な服従の心得を説いたものにほかならなかった…にもかかわらず、この国学思想は、とくに幕末期においてかなり広範な政治作用をひきおこしている」。

その理由は、「本来歌学から出発して日本古代の研究へと展開した国学が…古代日本における政治と人間のあり方を一個のユートピアのように、人間の幸福の本来の姿を示すものとして描き出し、それを現実の封建社会に対置させるという意味をもっていたからであ」り、「ここにあらわれている政治的世界は、いわば治者と被治者の一体性が神意にしたがって自然に存在しているような世界であった」。

歌学において宣長の見出した「「『もののあわれ』という人情自然の姿…宣長の描いた古代日本の姿は、そうした『真情』によって動く人間たちが、さながらに調和を保っているような世界」であり、本来、そこでは「いかなる政体が善であり、いかなる政体が悪であるかという発想」は「私意をたてるから心」として存在を許されないものである。

そのような中で生まれた「平田神学の実践性は、前述のような神学を基礎とする現世的日本社会において、もっとも神々の心に近い存在―具体的には神々の後裔としての天皇の心に一体化しようとする衝動から生じている」ものであり、「天皇は、そうした儒教的天理もしくは『王道』思想によって崇拝されたのではなく、その実存そのものが神々の心のあらわれとして、そのまま帰依の対象とされた」らしい。

最後の「一般民衆」で著者が注目しているのは、奇兵隊をはじめとする「長州に組織されたより大規模な農兵隊」についてであるが、そこで「武士についで比率の高い農民出身兵…が果たして封建社会に対しどれだけ徹底した反対者であったか」というと、残念ながら「必ずしもあきらかでないというのが通説のようである」。

著者も「少なくとも『奇兵隊日記』その他の根本史料によって判断するかぎり、諸隊の内情を『革命軍』とみることはおろか、それを封建制度に対する根源的な反抗エネルギーをなんらかの形で組織したものとすることは到底主張しえないという印象が拭いがたい」と述べており、「そこには、決して自由で平等なネーションの意識があったとはいえない」。

「むしろかえって…そこからは実力・能力を価値基準とする新たな階層制への傾向が増幅されてあらわれて」おり、「ネーションは専らそうした『専制』に服従しつつ、自らまた専制の技術を身につけた特権者によって階層的に支配される集団の名となる」しかないという「その後の日本におけるネーション形成の固有の表現(=神島二郎の出世民主主義?)となったものにほかならな」かった。

本章の最後で著者は、「解体期にある封建的社会階層の内部から…新たな統合を求める志向が噴出しつつあったことはたしかであ」り、その収斂する先が「究極的には幕藩体制への忠誠をこえた『神州』『皇国』『天朝』『天皇』等々のシンボルであった」と述べているのだが、F.ハーツの「少なくともその進化途上の一時期に、自己の起源をとくに高貴なものと主張しなかった民族があるかどうかは疑わしい」という言葉のとおり、そうした「神国」思想自体はさして珍しい現象とはいえない。

「しかし…こうした人種中心的ナショナリズムは、古代以来の一般的形態であって、決してそのまま近代的ナショナリズムと同じものではない。それはいわば後者の形成に先立つ過渡的・媒介的な神話の作用をいとなむにとどまり、国民国家というより一般的なナショナリズムにおいて、本質的な意味をもつものではない」というのがこの章の結論になる。

さて、「第二章 国家と人間」では、そんな前章の結びを受けて「日本の近代的ナショナリズムは、ある意味では日本神国思想の巨大な挫折の上にきずかれたものにほかならなかった」というちょっとビックリするような指摘がされており、「そのことをもっともいち早く示しているのが、新政府のとった開国方針そのものに対する幻滅感であろう」。

「開国は日本人のすべてにとって、多かれ少なかれ巨大な挫折を意味していた。尊攘運動の志士にとっては…それは直接的な幻滅であり、一般民衆にとってもまた、そこにひきおこされた生活上の大変動は、それにいかにして対応していいかもわからないような急激なアノミイの展開であった」というのが著者の認識であり、当時の状況を物語る資料として島崎藤村の「夜明け前」が度々引用されている。

そして、当時の民衆の意識を表すものとして紹介されているのが、「国は政府の私有にして人民は国の食客のごとし」という福沢諭吉の言葉であり、「民衆がいまだネーションとしての意識をもつ以前に、すでに宗教的な畏敬の心をもって国家と政府を見るようになった」という福沢の観察を「その後凡そ三世代にわたる日本人の生き方を見とおしたものといえるかもしれない」と評価している。

このような立場からすれば明治維新は「少なくとも『ネーション』の基盤なしに行われた特異な『革命』であった」ということになり、「明治維新によってもたらされた事態は、国家がその必要のためにようやく国民を求めるにいたったということで、その逆ではなかった。それはいわば、国家がその権利の対象として(福沢のことばでいえば『政府の玩具』として!)国民を要求したことにほかならなかった」。

そんな維新の新権力者の「もっとも手ごわい問題は、この民衆をいかにして『国民』化するかということ」であり、それは「外国勢力の浸透からいかにして日本を防衛するかという課題と深く結びついたものであった」。「皮肉な言い方をするならば、住民の全部が喜んで国のために死ぬことのできるような、そうした体制をいかにしてつくり出すかが、板垣の『自由民権運動』の原理」であり、それに共通する思いが福沢にも存在した。

そして、「そのためにとられたのが、社会のタテの座標として旧社会における身分制の転換的利用であり(旧身分制の廃止と華・士族、平民制への再編成)、ヨコの座標として『家』制度の利用という方策であった」。後者に関しては、「家とネーションとは、本来あいいれることのない別個の原理によって形成された集団とみられる」のだが、「日本においては、ナショナリズムを支える中核となるものこそ家の中の家として、その理想型のようにさえ考えられた」。

ここで引用されているのが「要するに、明治民法家族法は、現実の家族秩序をそのまま維持することを目的とするのではなくて、むしろそれを、より権威主義的に変容すること、そうして、それをとおして絶対主義的“臣民”のパーソナリティをつくるための訓練機関をつくること、を目的としたと認められるのである」という川島武宜の考察であり、その際に利用されたのが「主君に対する忠誠義務の担当者であり、逆に封禄受給者でもある武士的家父長の権威主義的性格」。

「明治以前においては、国民の大多数の生活の中には存在しなかった家の理念が外から民衆生活の中にもちこまれ、そのような家を支配することをとおして、明治期のネーションが形成された」訳であり、「これらの操作をとおして、作り出された日本のネーションが、序章に引いたハーツの言葉のように、きわめて『人為的な』作品という意味をもつことはもはや多言を要しないであろう」。

そして、「本来あいいれることのない別個の原理によって形成された」国家と家との間の架橋として考案されたのが「最終的には日本国家を一大家族として擬制すること」であり、皇室や靖国神社といった「古代的神話と近世的伝統の諸要素が、近代的国家の機能に適応しうるネーション形成の契機として利用されたわけである」。

結局、本書の結論は「日本における国家形成が、いわば『上から』の啓蒙的専制によって指導され、民衆はむしろ強制的にナショナライズされた」のだということになり、「日本人は、今にいたるまで、かつて真に自らの『一般意志』を見出したことはなかったといえるかもしれない。…日本人の『一般意志』は、それ(=二・二六事件)以来いまだ宙に浮いたまま、敗戦後の一世代を迎えようとしているというべきかもしれない」という文章で幕を閉じる。

まあ、著者自身があとがきで「どこかで計画と目測を間違った」と言い、解説の渡辺が「著者にはいいたいことが多すぎる」と言っているとおり、様々な要素がごちゃ混ぜになっている印象は否めないものの、一方でとても興味深い指摘があちこちにちりばめられているのも本書の大きな魅力。その続編的な意味合いを持っているのかもしれない「昭和維新試論」もそのうち読んでみようと思う。

ということで、渡辺京二は「ナショナリズムは依然として近代が生んだ怪物であり続けている。グローバリズムによって国民国家の時代は終わったという今日はやりの言説が、とんでもない近視眼であるのは、やがて歴史が証明するだろう」と解説で指摘しているのだが、大は新自由主義から小はレイシズムに至るまで、ナショナリズムは依然猛威を振るっているところであり、その中和剤には一体何が有効なのでしょうか。

松本清張全集5

長編小説の「砂の器」一編のみを収録。

野村芳太郎の監督による映画版「砂の器(1974年)」はビデオか何かで見たことはあるが、丹波哲郎森田健作加藤剛といった出演者の大仰な演技が鼻についてあまり好きにはなれなかった。唯一、ハンセン病患者の本浦千代吉役を演じた加藤嘉の鬼気迫る演技には感心させられたが、この回想シーンが映画の脚本を担当した橋本忍の創作であることは有名な話であり、それが存在しない小説版とは一体どんなものかと思いながら読んでみた。

さて、小説版の柱が何なのかと問われれば、それは間違いなく真犯人を探り当てようとする主人公今西刑事の執念であり、東北弁のような訛りの強い口調で発せられた“カメダ”という言葉を手掛かりにまだ見ぬ殺人犯の素顔に一歩ずつ近づいていく。二段組400ページを超えるページ数のうち、彼が出てこないのはほんの数ページだけであり、ほとんど独力に近い形で難事件を解決に導いてしまう。

しかも、その性格は誠実かつ謙虚であり、おそらく小説版の魅力の90%以上はこの中年男のキャラクターに由来すると言っても過言ではないだろう。警視庁の出張費の予算が少ないことに遠慮して、三重や石川まで自腹を切って捜査に向かうというあたりにもその好ましい性格が滲み出ているが、同時にそれは事件の関係者から情報を聞き出すときの有力な“武器”にもなっている。

正直、この役に丹波哲郎をキャスティングした人の気が知れないくらいなのだが、ひょっとすると加藤嘉の“静”の演技を際立たせるための捨て駒にされたのかもしれない。亭主にお土産として買ってもらった輪島塗の帯留めが嬉しくて、つい隣の奥さんに見せびらかしてしまう妻芳子も良い味を出しているのだが、残念ながら映画版ではカットされてしまっており、う~ん、やはり野村芳太郎橋本忍のコンビは小説とは違った作品を撮りたかったんだろうなあ。

そんな映画版で重要なパートを占めている本浦父子の回想シーンについて、小説が触れているのは、「ある暑い日、この街道を親子連れの遍路乞食があるいてきた。父親は全身に膿を出していた」というたった一文だけであり、ここからあの感動的な回想シーンのイメージを膨らませていった橋本忍の力量には只々感服するしかない。

ということで、本作の主人公である今西刑事のキャラクターは“戦後”という時代背景と強固に結びついており、例えば夜行列車に揺られて全国各地に足を運ぶ描写抜きにそれを表現することは到底無理。また、異様に歯の真っ白な俳優ばかりになってしまった現状では、リメイクするにしても今西刑事役の男優さんを探すのが一苦労だと思います。

竜ヶ岳

今日は、妻と一緒に山梨県にある竜ヶ岳を歩いてきた。

この山は正月にダイヤモンド富士が見られることで有名であり、まあ、その時期は過ぎてしまったものの、雪を纏った富士山を間近から眺めるのはさぞかし気持ちが良いだろう。自宅から遠いため単独で訪れるのは億劫だが、妻を誘ってみたところ幸いOKが貰えたので、少し早起きをお願いして午前8時過ぎに本栖湖の湖岸にある無料駐車場に到着する。

身支度を整えて8時16分に出発。車道を外れて冬季休業中のキャンプ場に入っていくが、そこにあった標識に従って進むと再び車道に出てしまい、そのしばらく先で“竜ヶ岳登山道入口”の標識(8時30分)を発見。そこに入ると間もなく二枚目の“竜ヶ岳登山道入口”の標識(8時32分)が立っており、そこを鋭角的に左折して尾根に取り付く。

今日の天気は快晴ではあるが風が強いという予報であり、オーバーグローブ等、万全の防寒対策を講じてきたのだが、今のところ風は穏やかでとても良いコンディション。9時5分に着いたベンチの所からは富士山や本栖湖の様子を一望することが出来、うん、やっぱり来て良かったなあ。

その先からはいつでも左手に富士山を拝めるようになり、9時33分に着いた見晴らし台からの眺望は壮大そのもの。ちなみに、今歩いているのは「石仏ルート」というところらしいのだが、その見晴らし台のすぐ傍にある犬小屋(?)みたいなものの中に石仏が鎮座しているのを知ったのは、その翌日のことだった。

そんな訳で、“なかなか石仏が出てこないねえ”と妻と話しながら、笹原の中に続く霜解けでぬかるんだジグザグ道を上って行くが、傾斜が緩やかになってもなかなか山頂が見えてこない。結局、湖畔登山口分岐(10時18分)を通過して竜ヶ岳(1485m)の山頂に着いたのは、10時30分のことだった。

広い山頂にはテーブルとベンチが設置されているが、既に先客に占領されていたため、持参した携帯用ザブトンを地面に敷いて腰を下ろす。少々の風はあるが、休憩の邪魔になるようなことはなく、おにぎりとカップラーメンで空腹を癒しながら心行くまで美しい富士山の姿を眺めさせて頂いた。

さて、11時12分に下山に取り掛かると、まずは端足峠(11時50分)まで一部それなりの急斜面を下りていく。しかし、そこを右に入ると想像していたよりずっと緩やかなルートが続いており、泥濘もないためとても歩きやすい。平坦になるまで下りてきたところの分岐(12時28分)を右に進むとやがて車道(12時38分)に出ることが出来、最後はそこをテクテク歩いて13時29分に駐車場に戻ってくる。本日の総歩行距離は11.4kmだった。

ということで、あらかじめ調べておいた「富士眺望の湯 ゆらり」で汗を流そうと思ったが、駐車場が空くのを待つ車が行列を作っている状況を見てあっさり断念。そこに限らず、道の駅もコンビニも大賑わいの様子であり、富士山麓の観光地としての人気の高さに驚かされながら帰途につくことになりました。
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1917 命をかけた伝令

今日は、妻&娘と一緒にアカデミー作品賞にもノミネートされた「1917 命をかけた伝令」を見てきた。

英米では既に1月10日に一般公開されているのだが、アカデミー賞人気を当て込んだと思われる我が国ではそれから一月以上遅れての公開。残念ながら受賞の方は撮影賞、視覚効果賞、音響賞といった裏方部門(?)のみに終わってしまったが、まあ、久しぶりの戦争映画も悪くないかと思い、いま一つ反応の鈍い妻&娘を急かすようにして映画館へ向かう。

さて、ストーリーは、第一次世界大戦西部戦線に参加した若き二人のイギリス兵の物語であり、ある日突然、将軍の前に呼び出された彼らは、ドイツとの最前線にいる第二大隊の指揮官あて攻撃中止の命令を届けるという重大任務を与えられる。どうやらその部隊はドイツ軍が仕掛けたワナに嵌る寸前のようであり、攻撃を中止しないと全滅は必至!

そんな訳で、二人は攻撃が始まる翌朝までに攻撃中止の命令書を届けることになるのだが、ドイツ軍が撤退したばかりの戦場にはワナが仕掛けられていたり、何らかの理由で逃げ遅れた敗残兵が潜んでいたりで危険がいっぱい。観客は、どこから弾が飛んでくるかというドキドキ感と、翌朝までに命令を伝えられるかというハラハラ感の両方を同時に味わうことが出来るという寸法。

まあ、主役が二人しかいないため、そう簡単に弾に当たることはないだろうと自分に言い聞かせながら見ていたのだが、それでもついつい肩や両腕に力が入ってしまう故、見ていてとても疲れる。幸い、ドキドキ感に関しては脚本も手掛けているサム・メンデス監督のご厚意(?)により、あざとい演出は見られなかったが、鑑賞後、妻からは“疲れる映画はもうコリゴリ”と苦情(?)を言われてしまった。

一方のハラハラ感に関しては、時間の経過や主人公の現在地等が見ていてよく分からないため、あまり伝わってこないのが残念。登場人物のセリフによってでも良いから、“あと○時間で○kmを走破しなければならない”という途中経過を観客に伝えてくれていたら、もっとハラハラ感が強まっていたのかもしれない。

ということで、“全編ワンカット”が売りの映像はとても美しくて自然であり、アカデミー撮影賞は納得の出来。ただし、この撮影方法を採用する場合、(おそらく)スタントマンを使えないのが大きな弱点であり、滝つぼへの落下シーンを含めてすべて一人で演じきったジョージ・マッケイ君には、心からお疲れさまとねぎらいの言葉をお掛けしたいと思います。

大転換

「市場社会の形成と崩壊」という副題が付けられた経済学者カール・ポランニーの代表作。

以前読んで面白かったデヴィッド・ハーヴェイの「新自由主義」でも大きく取り上げられていた作品であり、いつか読んでみたいと思っていたのだが、近くの図書館にあるのは国内で1975年に出版された旧版だけ。「訳者あとがき」でも触れられているとおり決して読みやすい文章ではなかったが、頑張って何とか最後まで読み終えることができた。

さて、R.M.マッキーバーの序文で述べられているとおり、本書の第一の目的は「19世紀に全盛となった市場経済というひとつの特殊な経済システムのもつ社会的意味を明らかにすること」。そして、それに対する著者の回答は「自己調整的市場という考えはまったくのユートピアであった」という単純明快なものであり、この場合のユートピアは“理想郷”ではなく“夢物語”と解さねばならない。

最初の「第一部 国際システム」では、「西ヨーロッパ文明の年代記に前代未聞の現象、すなわち平和の100年(1815―1914年)を生み出した」隠れた要因として「大金融家」の存在にスポットライトを当て、彼らは「列強に援けられてではあるが、列強自身では確立することも維持することもできなかったであろう国際的な平和体制に手だてを提供していた」と説く。

「彼らは平和主義者とはいえなかった。彼らは戦争に融資することで財をなしてきたのであり…短期の小規模な局地戦争がいくら起こっても、これには反対しなかった。しかし、もし列強間での大戦争がこの体制の貨幣的基礎を損なうことになれば、彼らの商売は損害を蒙ること」になるため、大金融家は平和を切望し、「バランス・オブ・パワー・システムはそれに役立てられた」。

著者によれば、「第一次大戦と第二次大戦の相違は明らかであ」り、「前者は…バランス・オブ・パワー・システムが変移する過程に発生する、単純な権力間の衝突」にすぎないのに対し、後者は国際経済システムの崩壊という「世界的激動の一端」と見るべきである。そして、そのシステムの基礎になっていたのが「人類社会史上健全なものとはみなされたことのほとんどなかった…利得動機」であり、「自己調整的市場システムは、ほかならぬこの原理から導出された」訳である。

要するに、自己調整的市場という夢物語は、西ヨーロッパに「平和の100年」をもたらすのに大きく貢献したものの、それは本来、「社会の人間的・自然的な実体を無にしてしまうことなしには、一時たりとも存在しえない」ようなシロモノであり、結局、その行き詰りが第二次大戦という破局を招来したというのが本書の大スジであり、その歴史的経緯を詳述しているのが「第二部 市場経済の興亡」。

そもそも、「われわれの時代より前には、原理的にさえ、市場に統制される経済が存在したことは一度もなかった」というのが著者の出発点であり、「新石器時代からこのかた、市場という制度はかなりありふれた存在ではあったが、その役割は経済生活にとって付随的なものにとどまっていた」。

「大まかに言って…西ヨーロッパで封建制が終焉を迎えるまでの、既知の経済システムは、すべて互恵、再配分、家政、ないしは、この三つの原理の何らかの組合せにもとづいて組織されていた」訳であり、「行動の一般的原理に律せられた種々様々の個人的動機…のなかでは、利得は重きをなしていなかった。」

そんな状況を一変させたのが「精巧で、それゆえに特殊化された機械設備の発明」であり、「精巧な機械設備がひとたび商業社会で生産に用いられるや、自己調整的市場の観念が必然的に姿を現す」。すなわち、「精巧な機械は高価なので、大量の財が生産されるのでなければ引き合わない」ことになり、商人たちは「支払う用意のある人には誰にでも必要なだけそれ(=生産に関係する諸要素)が手に入」るような新たな市場を要求するようになる。

そんな「彼が買うのは原料と労働―すなわち自然と人間―である。商業社会における機械制生産は、実際、社会の自然的人間的実体の商品への転化以外の何ものをも意味しない」。したがって、「市場経済は、労働、土地、貨幣を含むすべての生産要素を包み込んでいなければならない」のだが、その直後に指摘されるのが「だが労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである」という厳粛な事実。

「土地と人間の運命を市場にゆだねるということは結局のところそれらを破壊させるも同然」のことであり、例えば、「機能する労働市場を創出できるのは餓死という刑罰のみであって、高賃金の魅力ではない…そしてこの罰を機能させるためには、個人が餓死することを許しておかない有機的社会を解体することが必要」というような恐ろしい企みを察知すれば、「社会は、自己調整的市場システムに内在するさまざまな危険に対しみずからを防衛した」というのも当然のことと思われる。

もっとも、経済的自由主義者の唱える「自由放任」というのも矛盾だらけの概念であり、「自由放任には、自然なところは何もなかった。自由市場が成行きまかせで生じてくるはずはなかった。…自由放任自体も国家によって実現されたのである」というのが歴史的事実。「もし自動調整的市場の要請が自由放任の要求と矛盾することが明らかになれば、経済的自由主義者は自由放任に逆らい…統制と制限といういわゆる集産主義的手段のほうを選んだ」というのは、現代の新自由主義者たちと何ら変わるところがない。

さて、「1879年から1929年までの50年間に、西ヨーロッパの諸社会は、各々、崩壊への緊張を内に蔵しつつ、緊密に統合した諸単位へと変化していった」。その原因は、社会の自己防衛に起因する「保護主義」の台頭によって「市場経済の自己調整機能がそこなわれてしまった」からであり、自国民には受け入れ難い「自己調整的市場システムに内在するさまざまな危険」を「遠隔地域や半植民地的な地域におけるような、保護的措置をもたない無力な国民」に押し付けようとする帝国主義が勃興する。

また、「どうしても機能しなくなった市場社会」は社会主義のみならず、ファシズムの温床にもなってしまい、「自由主義的資本主義が行きあたった難局に対するファシスト的解決は、経済・政治双方の領域におけるあらゆる民主的諸制度の撤廃という犠牲を払って達成される、ひとつの市場経済改革であるといえよう」。

そして「19世紀文明は…社会が自己調整的市場の働きによってみずからが麻痺せぬために採用した諸措置による結果として崩壊したのである。…市場と組織化された社会生活の基本的要求との衝突は、19世紀展開の原動力を与え、究極的にはその社会を破壊した特徴的な緊張と重圧とを生みだした」というのが本書の結論。

したがって、次の課題は「産業文明を新たな非市場的基礎の上に移行させること」になる訳であるが、1944年に出版された本書には、それがどのような形で実現されるのかについては明言されていない。

しかし、「計画化と管理は自由の否定だ」という自由主義哲学の主張に対し、「権力と強制のない社会などありえないし、力が機能しない世界もまたありえない」と反論し、「市場経済の消滅は、先例をみないほどの自由の時代の幕開けとなりうる」、「社会の発見は、かくして、自由の終焉でもありうるし、あるいはその再生でもある」等と述べていることからすれば、著者が次代の担い手として社会主義に期待していたのは間違いないところだろう。

以上が本書の概要であるが、これ以外にも興味深い内容がぎっしり詰め込まれており、その一つが1795年にイギリスで採用されたというスピーナムランド法の解説。それは「貧民の個々の所得に関係なく最低所得が保証される」という「『生存権』の導入」を意味したが、実際は「規定された額を超えて賃金を引き上げない追加的口実を雇用主に与えた」ことになり、賃金は「底なしに低下することにな」ってしまう。

「彼らがみずからの労働によって生計を立てることができなかったということからすれば、彼は労働者ではなく貧民」であり、「大衆の自尊心が賃金よりも救貧を好むような低水準にまで落ちこ」んでしまう。結局、1834年救貧法修正によって廃止されるのだが、その評価は一筋縄ではいかず、「初期資本主義の人間的・社会的退廃」の要因に挙げられる一方で、「競争的労働市場の確立を妨げるのに効果があ」り、「救貧法がイギリスを革命から救った」とも言える。

著者が繰り返し述べているのは、「統制されておらず速度が速すぎると思われる変化の過程はできることならその速度を落として社会の福祉を守るべきである」という、自由主義哲学によって放棄されてしまった「変化にたいする常識的態度」の重要性であり、最終的には社会に利益をもたらす「進歩」であったとしても、あまりにも性急な変化はそれを「悪魔のひき臼」に変えてしまうという指摘には、今こそ真剣に耳を傾けるべきだろう。

また、資本主義と重商主義の違いを分かりやすく説明してくれているのも本書の大きな利点であり、「重商主義が、商業の拡大を国策として強力に主張しながらも、市場経済とは正反対の方向で市場を考えていたことは、産業に対する政府干渉の広範な拡大に最も明瞭に示されている」。

そこで「支配的であったのは競争という新要素ではなく統制という伝統的特徴」であり、「この点では、重商主義者と封建勢力のあいだにはなんの相違もな」かった。また、「重商主義は、商業拡大を志向したにもかかわらず、これら二つの基本的生産要素―労働と土地―が商業の対象になるのを防いでいるもろもろの安全装置にはけっして攻撃をかけなかった」そうである。

ということで、著者は第12章で「われわれの時代をのちになって回顧すれば、それは自己調整的市場の終焉をまのあたりにしたと記されるであろう」と書いているのだが、残念ながらその予言は新自由主義の登場によって大きくハズレてしまっている。その最大の原因は「社会の自己防衛」のうち「労働」の弱体化(=ナショナリズムにからっきし弱い!)にあるような気がするのだが、一方で最近着実にパワーアップしてきているのが「土地」のそれであり、地球温暖化を食い止めるためには新自由主義の見直しが絶対に必要だと思います。

冬の京都旅行(第2日目)

今日は、鞍馬寺貴船神社を観光した後、18時21分発のぞみ44号に乗って帰宅する予定。

他の有名寺院からちょっと離れていることもあって、なかなか訪れる機会の無かった鞍馬寺貴船神社。年末に帰ってきた長男から彼女さんと一緒にお参りしたという話を聴取し、ちょうど興味が再燃していたところだったので、今回の冬の京都旅行のメインイベントに採用させて頂いた。

さて、午前7時前にホテルをチェックアウトし、昨日と同じく四条河原町銀閣寺行の市営バスに乗って出町柳駅に移動。そこから7時45分発の叡山電車(=展望列車になっている!)に乗り込み、窓向きに設置されたシートから車窓の風景を楽しみながら8時15分に終点の鞍馬駅に着く。

まだ早いせいか、新型コロナウィルスの影響かは不明だが、観光客の姿はまばらであり、駅舎前に設置された大きな天狗のお面の前で記念写真を撮ってから観光スタート。最初の目的地である鞍馬寺は駅からすぐであり、8時22分に立派な仁王門を潜る。しかし、本殿金堂まではその先に続く長~い石段を上って行かなければならず、これが一苦労。

“日本一短い鉄道”が売りのケーブルカーも整備されているが、勿論、我々は自分の足で上ってくことを選択し、魔王の瀧や鬼一法眼社を眺めながら8時30分に由岐神社。毎年秋に行われる「鞍馬の火祭」で有名な神社だが、シーズンオフの今は人影も少なく、ひっそりと静かな佇まいを見せている。

さらに斜面を上って行くと貞明皇后の行啓に関係する施設がいくつか出てくるが、それが行われたのは大正13年1924年)のこと。原武史の「昭和天皇」に「貞明皇后は、大正天皇の脳病が悪化する大正末期から、法学者の筧克彦が提唱する『神ながらの道』にのめり込み…」という記述があるが、ちょうどその頃のことなのかもしれない。

そんなことを妻と話しながら歩いていくと、ようやく8時55分に本殿金堂に到着。中にも入れるので順路に従ってゆっくり見て回ったが、昭和46年に再建された“現代建築”ということで有難味は希薄。次は、奥の院魔王殿を目指して「奥の院道」の石柱が立っている石段(9時12分)を上る。

もっと山道っぽいのかと思い、妻も俺もトレラン用の靴を履いてきたのだが、さすがに国際的な観光地ということで参道はきちんと整備されており、9時25分に牛若丸ゆかりの背比べ石に到着。その隣には鞍馬山(584m)の山頂へと続くルートが伸びているのだが、倒木等のせいで今は通行止めになっており、仕方がないので義経堂(9時36分)を経て9時43分に奥の院魔王殿に着く。

これで鞍馬寺は一応コンプリートであり、その先の長~い下り坂を歩いて10時4分に西門まで下りてくる。次の目的地である貴船神社貴船川を渡ってすぐであり、赤い灯篭がきれいな石段を上って10時11分に本宮に着く。縁結びの神として有名なため、カップルを含む若い女性の姿が目立つが、妻も果敢に「水占みくじ」に挑戦したところ、判定は“吉”(=争わぬようにすべし)という無難な結果だった。

その後、貴船川沿いの車道を辿って奥宮(10時36分)のお参りを済ませると、そろそろ空腹を覚えるようになってきたため、「ひろ文」というお店に入って腹ごしらえ。夏場は川床での流しそうめんが名物らしいが、今日は川音を聞きながら「ぼたん御膳(@4000円)」と「手づくり豆腐膳(@3000円)」でちょっぴりリッチな昼食をゆっくり楽しんだ。

さて、ご主人からの“もう少し待ってもらえば車でお送りします”という申し出を丁重にお断りして、食後は川沿いを貴船口駅まで歩いていく。途中にバス停もあったが、まあ、道は下り基調なので大した苦労にもならず、12時8分に駅に到着。鞍馬駅からここまでの総歩行距離は7.4kmだった。

3番目の目的地は上賀茂神社であり、叡山電車市原駅で途中下車して市原駅前から北大路バスターミナル行の京都バスに乗る。上賀茂神社前のバス停で降りると周囲に神社らしきものが見当たらないためちょっとウロウロしてしまうが、人の多そうな方向に歩いていくと間もなく赤い大きな鳥居(12時50分)が目に入る。

そこに入って広い境内を歩いていくと二の鳥居の脇に「第42回式年遷宮」の看板(?)が立っており、へえ~、ここも建替え中なのか。しかし、ちょうど行われていた「国宝・本殿特別参拝とご神宝の拝観」に参加したところ、今の「式年遷宮」というのは移築ではなく、改修の意であるとの説明があり、今回は社殿の桧皮屋根の葺替えがメインとのこと。

そんな説明が終わると、普段は入れない内庭に案内してもらい、そこから国宝の「権殿」を見学した後、現在工事中の社殿に誘導される。ヘルメットをかぶって工事用の足場に上ると、葺き替えたばかりの桧皮葺の屋根を間近に見ることが出来、ちょっと感動。ちなみに工事費総額は23億円だそうであり、う~ん、田舎の社寺ではとても賄えない金額だろう。

さて、最後の目的地は、現在、JR東海のテレビCMに使われている大徳寺。今度は、四条河原町平安神宮行の市営バスに乗って今宮神社前で降車し、そこから歩いて14時23分に大徳寺に着く。恥ずかしながら、テレビCMで見るまで名前も知らなかったのだが、訪れてみるととてもスケールの大きな大寺院であり、やっぱり京都は奥が深いなあ。

最初に案内されるのは国宝の方丈であり、そこに座って白砂が美しい石庭を見学。方丈内の襖絵は狩野探幽の作なのだそうだが、中に入れないので近くから見られないのがちょっと残念。しかし、次の法堂の天井には同じ探幽作の「雲龍図」が力強く描かれており、先ほどの不満はあっという間に解消してしまう。最後の唐門も国宝に指定されているそうであり、日光東照宮の陽明門より気品が感じられるのがちょっと羨ましい。

以上で今日のスケジュールはすべて完了であり、大徳寺付近でちょっと買い物をしてから市営バスに乗って北大路バスターミナルに向かい、そこで地下鉄に乗り換える。まだ時間があるので、欲張ってもう一か所観光しようと五条駅で途中下車してみたが、バスを待っている間に所要時間を計算したところお土産を買う時間が無くなってしまうことが判明。

一人で留守番をしている娘へのお土産は必須であり、観光は諦めて京都駅に向かい、駅ビル内にあるJR京都伊勢丹で甘味類を中心に大量のお買い物。最後は「菓子のTASHINAMI」というお店に入ってコーヒーとケーキ等でのんびり休憩し、二人して“やっぱり最後の観光を諦めたのは正解だったねえ”と自画自賛

ということで、予定どおり18時21分発の新幹線に乗って無事帰宅。とても楽しかったというのが素直な感想であり、今回、誘ってくれた妻には心から感謝申し上げたい。ちなみに、個人的には京都一周トレイルの足跡を比叡山まで伸ばすことが出来たのが大きな成果だが、やはりこれに妻をつき合わせるのはちょっと無理であり、3回目の予定を立てるのはなかなか難しそうです。
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