松本清張全集5

長編小説の「砂の器」一編のみを収録。

野村芳太郎の監督による映画版「砂の器(1974年)」はビデオか何かで見たことはあるが、丹波哲郎森田健作加藤剛といった出演者の大仰な演技が鼻についてあまり好きにはなれなかった。唯一、ハンセン病患者の本浦千代吉役を演じた加藤嘉の鬼気迫る演技には感心させられたが、この回想シーンが映画の脚本を担当した橋本忍の創作であることは有名な話であり、それが存在しない小説版とは一体どんなものかと思いながら読んでみた。

さて、小説版の柱が何なのかと問われれば、それは間違いなく真犯人を探り当てようとする主人公今西刑事の執念であり、東北弁のような訛りの強い口調で発せられた“カメダ”という言葉を手掛かりにまだ見ぬ殺人犯の素顔に一歩ずつ近づいていく。二段組400ページを超えるページ数のうち、彼が出てこないのはほんの数ページだけであり、ほとんど独力に近い形で難事件を解決に導いてしまう。

しかも、その性格は誠実かつ謙虚であり、おそらく小説版の魅力の90%以上はこの中年男のキャラクターに由来すると言っても過言ではないだろう。警視庁の出張費の予算が少ないことに遠慮して、三重や石川まで自腹を切って捜査に向かうというあたりにもその好ましい性格が滲み出ているが、同時にそれは事件の関係者から情報を聞き出すときの有力な“武器”にもなっている。

正直、この役に丹波哲郎をキャスティングした人の気が知れないくらいなのだが、ひょっとすると加藤嘉の“静”の演技を際立たせるための捨て駒にされたのかもしれない。亭主にお土産として買ってもらった輪島塗の帯留めが嬉しくて、つい隣の奥さんに見せびらかしてしまう妻芳子も良い味を出しているのだが、残念ながら映画版ではカットされてしまっており、う~ん、やはり野村芳太郎橋本忍のコンビは小説とは違った作品を撮りたかったんだろうなあ。

そんな映画版で重要なパートを占めている本浦父子の回想シーンについて、小説が触れているのは、「ある暑い日、この街道を親子連れの遍路乞食があるいてきた。父親は全身に膿を出していた」というたった一文だけであり、ここからあの感動的な回想シーンのイメージを膨らませていった橋本忍の力量には只々感服するしかない。

ということで、本作の主人公である今西刑事のキャラクターは“戦後”という時代背景と強固に結びついており、例えば夜行列車に揺られて全国各地に足を運ぶ描写抜きにそれを表現することは到底無理。また、異様に歯の真っ白な俳優ばかりになってしまった現状では、リメイクするにしても今西刑事役の男優さんを探すのが一苦労だと思います。