資本主義と闘った男

宇沢弘文と経済学の世界」という副題の付けられたフリージャーナリスト佐々木実による宇沢弘文の伝記。

「この最後の者にも」を読んでいて、やっぱりジョン・ラスキンはちょっと古すぎたかなあと思っていたときに目に入ったのがこの本であり、内容を理解できる自信はなかったものの、とりあえず読んでみることにした。その結果は大成功であり、以前読んだ「社会的共通資本」やラスキンの著作の経済学史的な意義を(俺なりのレベルで)理解することが出来たと思う。

さて、本書の最大の魅力は、宇沢の波瀾万丈の生涯を著者と一緒にたどりながら、ついでに経済学の歴史を難解な数式やグラフ抜きで理解できるようになっているところであり、600ページを越える文量のうちの相当部分を後者の説明に費やしているのだが、その大ざっぱな概略は次のとおり。

1 1776年、アダム・スミスの「国富論」により古典派経済学が誕生
・ 資本家、労働者、地主の3階級からなる階級社会が前提
・モノの価値は投下された労働量にとって決まる。=労働価値論
リカードの悲観論やマルクスの階級間対立激化の思想を生む。→社会主義の台頭へ

2 1870年代の分析手法の革新(=限界革命)を経て新古典派経済学
微積分学を用いる「科学的装いをまとった学問」へ変貌
・ 階級ではなく「一定の主観的価値基準のもとで合理的に行動する」個人が前提
・ モノの価値は「モノとモノをくらべたときの希少性」によって決定される。
ワルラス一般均衡理論がマーシャルの部分均衡理論より優位に立つ。→数理経済学の発展

3 大恐慌を契機にして1936年にケインズ革命が起きる。
・ 自由放任主義を否定し、政府による経済の適切な管理の必要性を主張
・ 「供給はそれ自身の需要をつくりだす」というセイの法則の否定

4 1947年、サミュエルソン新古典派総合経済学を提唱
・ 「経済の数学化」によりケインズ経済学と新古典派経済学との整合性を維持
アメリカ・ケインジアンの隆盛→ロビンソンとの資本論

5 1970年代後半以降、フリードマンの主張する新自由主義の台頭
マネタリズム大恐慌は市場システムの失敗ではなく、政府による金融システムの運用ミスが原因→ケインズ経済学の否定
・ 経済学にとっては「予測の正確性」が最も重要であり、前提の現実性は問わない。
・ 1980年代、サッチャーレーガンによって新自由主義が全盛となる。
・ 2008年のリーマン・ショックを機に新自由主義への批判が強まる。

さて、東大数学科の特別研究生に選ばれた宇沢がマルクス主義に傾倒し、大学院をやめてしまったのが1953年なので、上の区分によるとサミュエルソンの提唱した「経済の数学化」が推しすすめられている真っ最中。「数学的思考は封印したまま、マルクス経済学を学んでいた」彼は、ケネス・アローらの数理「経済学に高度な数学が使用されていることにショックを受け」、「ひとつは数学、もうひとつは市場社会主義への関心」からそれに惹きつけられてしまう。

そんな彼が1956年に渡米してからの活躍は「第4章 輝ける日々」以降に詳しく紹介されているのだが、ポール・サミュエルソンをはじめ、ロバート・ソロー、ジョーン・ロビンソン、そしてミルトン・フリードマンといった経済学の超大物たちと臆することなく議論を戦わせる様子は正に痛快。

その最大の武器になったのは宇沢の卓越した数学の能力だったのだろうが、もう一つ、彼の個性を際立たせていたのがマルクス経済学や社会主義に対する“こだわり”であり、初期の功績の一つである「2部門モデル」も(新古典派経済学が無視しようとしていた)資本家と労働者の階級対立を意識したものらしい。

最終的に彼は、「歴史的な実際のプロセスとしてわれわれ経験したことがない」し、「論理的に検証できない」という理由で、資本主義国が社会主義体制へ移行する可能性を明確に否定しているのだが、多くの社会主義者の“現実から目を反らさずに困っている人々を救いたい”という問題意識だけは亡くなるまで共有し続けていたのだと思う。

さて、1968年に帰国した宇沢を待っていたのは、我が国の「高度経済成長の陰に隠れた領域にたたずむ人々」を取り巻く厳しい現実の姿であり、最初は躊躇しながらも、水俣病三里塚闘争地球温暖化、そして最後は沖縄の基地問題といった様々な社会問題に取り組んでいくようになる。

そんな彼の学問上の転機になったのが1974年に出版された「自動車の社会的費用」であり、それを萌芽とする「社会的共通資本の経済学」は、これまで顧みられることの無かった「大気、水、土壌などの自然的環境と交通、保健、教育などのサービスを生みだす社会的環境」を「シャドウ・プライス」の技法を駆使して主流派経済学の分析に取り込もうとするものであった。

この理論は「新古典派経済学が描く資本主義像を否定してしまうほどの根本的な発想の転換」であり、その政治的な狙いは「経済成長を追い求める政策からの転換を促す…高度経済成長後の福祉経済制度構想」であった。しかし、世界はスタグフレーションを巡る論争でケインジアンに勝利し、「現実の政治における自由放任主義市場原理主義に正当性を与え、力強く支援」するフリードマン新自由主義の時代へと変化しており、そんな「時代思潮の保守化」の前に「宇沢弘文は、敗れたのである」。

それでも彼の思索と行動は止まるところを知らず、「地球温暖化問題も三里塚問題も、社会的共通資本という枠組みのなかで同時に考察することができるはずだ」との希望を抱くに至るが、日米構造協議や小泉内閣構造改革京都議定書における排出権取引(=「人間として最低の生きざまです」)、TPP等々、我が国の政治は彼の思惑とは反対の方向に向かって進んでいき、そんな中、2014年9月に86歳でこの世を去ることになる。

まあ、誠にあっぱれな生涯だったというのがこの本を読み終えたときの偽らざる感想だが、それ以外にも本書には興味深い知識がギッシリ詰まっており、その一つが「科学的装いをまとった学問」としての経済学の胡散臭さ。マル経と近経の区別くらいしか知らなかった俺は、後者の最大の貢献は「経済の数学化」だと信じていたのだが、それは同時に階級対立や人間の本性、幸福といった“支配者層が目に入れたくない事物”を無視するための便宜として重宝された。

非現実的な「ホモ・エコノミクス(経済人)」を前提にした合理的期待形成仮説を嫌悪する宇沢は、「経済学の対象をそういったプロフィット(利潤)を求めて行動する人間、それをラショナル(理性的)な行動として規定して、その分析を行なおうというのが新古典派の立場であるわけですけど、僕はそうではなくて、やはり経済活動の中にも、あるいは経済循環のメカニズムの中にも実はそうではない動機に基づいた行動というものがあって、それが必ずしも無視できない役割を果たす」と言っているのだが、これは先日読んだラスキンの「いかなる人間の行為も損得の比較によらず、正邪の比較によって左右されるべきである」という言葉に極めて近い考えであり、俺がそれを「『正邪』とか『生』とかいうような曖昧かつ主観的な概念に拘泥し続けていたら、その後の経済学の発展はあり得なかったんじゃないのかなあ」と捉えてしまったのは大きな間違い。

また、フリードマンマネタリズムが今の新自由主義を創造した訳ではなく、ケインズ革命に由来する様々な規制を窮屈に感じていた経済エリートたちが、彼らの欲する自由放任主義市場原理主義を正当化するための手段としてフリードマンの学説を利用したというの方が真実に近く、まあ、フリードマン自身もそのことは十分自覚していたのだろう。

ということで、リーマン・ショック後も「社会を市場化することが豊かさをもたらすというイデオロギーが根強く生き残っている」我が国の現状は誠に困ったものであり、「社会的共通資本の経済学」が一日も早く息を吹き返すことを期待したいところだが、おそらくその最大の弱点はその実践者たるべき「職業的専門家」が不在というか、まだ目覚めていないことであり、何とかして「社会的共通資産の概念を説得力をもって提示するため(の)実践例」を1つでも良いから実現させたいものです。

青春18きっぷで安達太良山

今日は、久しぶりに一人で福島県にある安達太良山を歩いてきた。

夫婦で熊野古道を訪れたときに使用した青春18きっぷがあと1回分残っているのだが、その使用期限は9月10日まで。せっかくなので山歩きに使えないかと“駅から登山”で検索してみたところ、引っ掛かってきたのがこの山と山梨県にある倉岳山の二つであり、第一候補は後者(=バスを使わなくて済む。)だったものの、結局、お天気との関係でこっちに決定。

さて、午前5時18分宇都宮発の始発電車に乗り込み、黒磯~新白岡と電車を乗り継いで7時59分に二本松駅に到着する。全体の所用時間が3時間弱にもかかわらず、途中2回も乗り継ぎをしなければならないのは面倒だが、技術的な理由により黒磯と新白岡では必ず車両の交換をしなければならないらしい。(まあ、結局は赤字区間の悲哀みたいなものなんだろうけどね。)

二本松駅から先はバスを利用するが、今の時期は8時15分発の「シャトルバス奥岳便」(=@500円)なるものが運行されているため、これを利用して登山口のある奥岳に楽々到着。電車との連絡といい、往路ではとても便利なのだが、帰りは12時20分と15時30分の2便しかないのが玉に瑕。しかも、何故か岳温泉で一般バスに乗り換えなければならないんだよね。

バスは時刻表の予定(=9時5分)より早く着いたので、身支度を素早く整えて9時ちょうどに歩き出す。安達太良山を歩くのはこれが三度目だが、これまでは妻と一緒だったために往路か復路かどちらかでロープウェイを使っており、自力で周回するのは今回が初めて。過去の所用時間は参考にならないが、まあ、何とか15時30分までにはバス停に戻ってこられるだろう。

しばらくの間、帰りにも利用する馬車道を歩いて行くと、9時12分に五葉松平経由の登山道分岐に到着し、ようやくここから山道歩きが始まる。といっても最初はスキー場のゲレンデの中を上っていくため直射日光が厳しく、樹林帯の中に入ってホッと一息。五葉松平(9時44分)を過ぎた頃からロープウェイ利用客の喧噪が耳に入るようになり、彼らと合流して9時53分に薬師岳に着く。

良く整備された登山道は平坦でとても歩きやすく、何組かの方々に先を譲ってもらいながらどんどん歩いて行くと、仙女平分岐(10時12分)を過ぎて10時38分に石の祠がある山頂(1700m)に到着する。しかし、風が強いのでとても長居は出来ず、午の背を歩いて沼ノ平火口(10時52分)へと移動。うん、ここからの眺めはやっぱり迫力があるねえ。

前回はそこから峰ノ辻方面に下りてしまったのだが、今日はまだ時間もたっぷり残っている故、その先にある鉄山を目指すことにする。強風に飛ばされないように帽子をザックに収納し、前方に見える岩場のピークに向かって歩いて行くと登山道はその岩場を左から巻くように続いており、あれっ、これでは鉄山を通り越してしまうんじゃなかろうか。

ちょうどそのとき通りかかった単独行の方にお伺いすると、やはり岩場には上らないそうであり、鉄山にはもう少し先に進んだところから行けるとのこと。その話に安心して歩いて行くと、岩場を巻き終わった地点からやや戻るようにして鉄山の山頂(1709m。11時13分)に着くことが出来、その先にある岩場のピークに立つことも出来た。

沼ノ平火口をはじめとする周囲の景色は素晴らしく、ここで本日最初の休憩を取るが、昼食用のパンを食べ、休日出勤の妻にLINEを入れてしまうと後は特にすることもない。仕方がないので11時24分に下山に取り掛かり、写真を撮りながら分岐(11時42分)まで引き返した後、峰ノ辻(11時51分)~くろがね小屋(12時11分)と下りていく。

計画よりかなり早いので小屋でヒマを潰そうと思ったが、さっき食べたばかりなのでコーヒー等を注文する気にもなれず、いいや、さっさと下山してしまおう。その先の車も通るデコボコな馬車道(=実際に1台とすれ違った。)を歩くのはこれが2度目であり、やや退屈な思いをしながら旧道分岐(12時40分)~登山道分岐(13時7分)と進み、13時15分にバス停のところまで戻ってくる。本日の山歩きの総歩行距離は14.1kmだった。

さて、バスの時刻まではまだ2時間以上あるが、ここでタクシーを呼んでしまうのは今回の山行の趣旨に全くそぐわない。そんな訳で木陰に入って本を読んだり、ポケGOをしたりしながら時間を潰し、定刻どおり15時30分発のバスに乗って岳温泉に移動。そこで30分以上待たされてから16時22分発のバスに乗り換え、二本松駅に着いたのが16時46分。

16時51分発の電車まで5分しかないのでちょっと心配していたが、幸い駅は小さく、乗客もあまりいないので余裕でセーフ。後は往路と同様に黒磯~新白岡と電車を乗り継ぎ、予定どおり19時50分に宇都宮駅まで戻ってくる。乗客は朝よりずっと多かったが、いずれの電車でも何とか座席を確保することが出来た。

ということで、バスの待ち時間が長いのが大きな欠点だが、フィリップ・K.ディックの短編小説を読んでいるうちに登山口に着いてしまうというのは魅力であり、今回の山行にもとりあえず満足。しかし、青春18きっぷを使うならやはり日帰りではなく、2、3日かけてのんびり楽しみたいところであり、また、何か別の計画を考えてみたいと思います。
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ラスキン

中公クラシックスの一冊であり、ラスキンの「この最後の者にも」と「ごまとゆり」の2編が収められている。

久野収の「市民主義の立場から」に収録されていた「マハトマ・ガンディー ―もう一つの伝記―」という論文の中に「産業革命以後の資本主義、ヴィクトリア時代のイギリス資本主義に正面からそれぞれちがった仕方でたちむかったのは、周知のとおり、マルクスラスキンの二人であった」という文章があり、それに興味を持って本書を読んでみることにした。

ジョン・ラスキンは1819年に英国ロンドンで生まれており、ディケンズより7歳、マルクスよりも1歳年下になる。当初は美術評論から出発したらしいが、本書に「ターナー擁護者から先駆的なエコロジストへ ―ラスキンの生涯と作品」という解説文を寄せている富士川義之氏の説明によると「偉大な絵画であれ、建築であれ、文学であれ、それらの傑作を言葉で論じることによって、もうひとつの傑作を、つまり文学作品を創造することのできたイギリスで最初の偉大な批評家」であり、「こうしたテクスト読解法を、詩や絵画のみにとどまらず、建築や社会問題や経済思想等にもさらに広げてい」ったとのこと。

さて、最初の「この最後の者にも」には「ポリティカル・エコノミーの基本原理にかんする4論文」という副題が付いており、先程の富士川氏の分類によれば「経済思想」のジャンルに区分される作品。ここでラスキンは「『人間をたんに貪欲な機械』と考えて人間を物欲の権化と見るような、人間性についてのとらえ方が根本的に間違っていると考え」、古典経済学の原理を徹底的に批判している。

正直や寛大といった「社会的情愛」を「人間の本性のなかでは偶然的で攪乱的な要素である」として軽視し、もっぱら「貪欲と進歩への欲望」によって人間の経済活動を説明しようとする「普通の商業的経済論者」のやり方はラスキンにとって許し難い行為であり、「いかなる人間の行為も損得の比較によらず、正邪の比較によって左右されるべきであるというのが、人間を作った神の意志」であるというのが彼の議論の出発点。

また、「普通の意味で『富裕』となる術は…的確にいえば、それは『自分自身に都合の良いように最大限の不平等をつくりだす術』であ」り、「『最も安価な市場で買い、最も高価な市場で売れ』という商業上の教訓が、国民経済の有益な原理を代表している」ような「近世の観念ほど、歴史の記録のなかで人類の知性にとって恥ずべきものはない」と主張する。

ラスキンにとって正当な労働の報酬やものの価値は、労働力や商品の需給関係によって左右されてはならないものであり、「ほんものでない経済学と区別されなければならない真の経済学という学問は、生命に導くようなものを望み、かつ働くこと、また破滅に導くようなものを軽蔑し、破棄することを国民に教えるような学問」でなければならない。

そして、「経済学の究極の目的は、良い消費の方法と多量の消費を学びとること」であり、それによって国家の問題である「どれだけ多くの生をつくりだすか」(=ここで「生というのは、そのなかに愛の力、歓喜の力、賛美の力すべてを包含するものである。」)に寄与すること、「つまり、生なくして富は存在しない」というのが、本書の結論と言って良いだろう。

正直、ここまで読んだときの第一印象は、“ラスキンは経済学を誤解しているんじゃなかろうか”というものであり、解説で富士川氏が述べていた「その猪突猛進ぶりはほとんどドン・キホーテ的と呼んでもよい」という評価はこの印象にピッタリ。だいたい「正邪」とか「生」とかいうような曖昧かつ主観的な概念に拘泥し続けていたら、その後の経済学の発展はあり得なかったんじゃないのかなあ。

そして、何より一番気に食わなかったのは彼のエリート主義であり、何の根拠も示さずに「平等の不可能」を持ち出し、「わたくしの目的は…ある人々の他の人に対する…永遠の優越ということを示すこと、そしてまた、このような人々…に、そのすぐれた知識と賢明な意志に従って、かれらの下級の者を支配させ、指導させ、あるいはさらに必要に応じては強制圧迫させるように、かれらを選定することが得策であることを示すこと」と無邪気に主張するのを見て、思わずこの本を放り出しそうになった。

しかし、そんな2つの疑惑を解明(?)してくれたのが、次に収められている「ごまとゆり」という講演録であり、ラスキン自身「もし『この最後の者にも』と関連させて読んでいただけるなら、本書は、わたしがこれまで全生涯をつうじて提示しようと努めた主要な諸真理を包含することになる」とその序文で述べている。

さらに彼は「本書がまったく旧流派の書物」であり、「地位の上下の観念とともに、穏やかな権威としあわせな服従、相互の権利をめぐる争いのない富裕と貧乏…といった諸観念が前提とされている」、また「本書が主として上流、ないしは苦労のない中流の諸階級に属する若い人々のために書かれている」と正直に述べており、う~ん、彼にとって階級社会=エリート主義というのは疑う余地のない強固な現実だったんだなあ。

そんなラスキン保守主義は、女性の役割について語った「第二講 ゆり ―王妃の庭園について―」にもよく現われており、「女性は―人間についてこういうことばが許されるかぎりにおいてですが―そもそも過誤を犯しえない体の存在でなくてはならない」と理想化する一方で、知性や研鑽とは関係の薄い「無邪気さ」や「天賦の正義の本能…天賦の愛の才覚」を賞賛する。

「女の子の教育は、勉強のコース・教材の点では、だいたい男の子のばあいとおなじでないといけない」が、「一般的いえば、男性は自分の学ぶ語学なり学問を、徹底的に知らないといけませんが、女性のほうは、これとおなじ語学なり学問については、夫の喜びに…同感できるようになる程度にしっておればよろしい」とのことであり、その時代的な限界は明らか。

さらには「わたくしは、一定諸階級のイギリス青年層のために、一つの真実な騎士道制度が制定されたらよいとねがっている」とも書いており、おそらく彼が理想としていたのは動かしがたい階級社会を前提にした、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」的思想に支配された社会だったのだろう。

そして、そんな善良な保守主義者の感じる強烈な“焦燥感”が滲み出ているのが「第一講 ごま ―王侯の宝庫について―」であり、読書の効用を具体的に説明した後、様々な社会悪が放置され、「金銭を愛することは、すべての悪の根である、という啓示を信ずるふりをしながら、同時に、…これ以外の愛によっては事実なんら動機づけられてはいない…と公言して、天とそのみ使いとを嘲弄する」ような現状を嘆いて、「このままではわれわれは、読書することなど断じてできません」と聴衆に訴える。

それに続くラスキンの社会批判、すなわち不正や邪悪が横行していることを知りながらそれを止めさせようとしない「上流、ないしは苦労のない中流の諸階級に属する」人々に対する怒り、失望感は、読んでいて思わず目頭が熱くなる程の熱量を帯びており、間違いなくそれが彼に「この最後の者にも」を書かせることになったのだろう。

作戦的に失敗だったのは、労働、交換、富といった古典経済学の概念にこだわりすぎたために、彼の議論の未熟さが目立ってしまった点であり、1860年に「この最後の者にも」を雑誌に連載したときに「大多数の読者によって、猛烈に攻撃された」というのも、おそらくそのせいだったのだろう。

しかし、「神の見えざる手」を過剰に信じてしまった結果が現在の超格差社会であり、それはラスキンが信じていたロマンチックな階級社会とは全くの別物。彼の経済学に関する議論の稚拙さは置いておくにしても、その問題意識、危機感が正しかったのは間違いないところであり、本書を読んでみる価値は今でも十分残っていると思う。

ということで、逃亡犯条例改正に端を発する香港市民の抗議活動は依然として予断を許さない状況が続いているが、かつての宗主国である英国が見て見ぬふりを決め込んでいるらしいのがとても残念。阿片戦争や米国の南北戦争への対応を批判していたラスキンが生きていたら、いったいどんなコメントを発表したのでしょうか。

大正天皇

原武史が2000年に発表した作品であり、大正天皇の47年間の短い生涯が詳しく紹介されている。

松本清張の「昭和史発掘」を読み終えたときに“もう少し天皇制の勉強をしてみよう”と思ったのだが、その手はじめに読んでみたのがこの本。本作の序章でも述べられているとおり、我々が日常生活の中で大正天皇に関する情報に接する機会はほぼ皆無なのだが、それにもかかわらず、彼に対しては何やら心身ともに障害を抱えた“出来損ない”的なイメージを漠然と抱いていた。

さて、大正天皇が病弱な青少年期を過したことは本書の第2章でも詳しく紹介されており、満1歳のときに発症した脳膜炎をはじめ、百日咳や腸チフスといった「病気による学習の遅れは否定すべくもな」く、結局、学習院の「中等科の一年を修了した時点で中退を余儀なくされ」てしまう。

その後の「個人授業」の成果も良好とはいかず、「病気による教育の遅れ→それを取り戻すための『詰め込み教育』→皇太子の健康の悪化→教育の遅れという悪循環」が繰り返されるが、彼が17歳のときに「皇太子より17歳年上の朋友」に抜擢された有栖川宮による「詰め込み教育」の是正や20歳のときの九条節子(のちの貞明皇后)との結婚の影響により、「あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が…明らかに回復に向かってゆく」。

第3章以下では、当初、有栖川宮の発案であった「長期的な地方巡啓」を、「一般の日常生活に触れ、人々と言葉を交わすことのできる唯一の機会」として楽しそうに消化していく皇太子の姿が生き生きと描かれているのだが、彼の気まぐれ(=あるいは「巧妙な戦略」?)による突然の予定変更や宿泊場所からのエスケープ等もかなり許容されていたらしく、「もはやかつての病弱なイメージは、どこにもなかった」。

そんな彼の姿を著者は「確かに明宮=皇太子は、病弱のために学業の発達が遅れたが、それは決して、人間としての感情までが未熟であったことを意味しなかった」と評しているのだが、そこで紹介されている彼の言動は成人男性としては幼すぎる内容であり、少なくともその知的能力は“平均以上”ではなかったような気がする。(まあ、明治以降の歴代天皇の“生の声”を聞いたことがないので、彼らとの比較は困難なのだが…)

さて、ここでもう一つ著者が強く主張しているのは、厳格で近づきがたい明治天皇とは好対照をなす皇太子の人間的かつ開放的な親しみやすいイメージ。「御真影」(=キヨッソーネの肖像画を写したフィクション)しか公開されなかった明治天皇とは異なり、皇太子の巡啓は写真入りで大々的報道されたそうであり、各地で「皇太子を迎えたいという県民の熱望は…抑えがたいものになっていた」らしい。

しかし、そんな幸せな日々も明治天皇崩御とともに幕を閉じてしまい、32歳で即位した彼の健康を天皇としての激務が徐々に蝕んでいく。「自らの意思に反して明治天皇と同じスタイルをとらされていることも多かった」ようであり、あれほど「儀礼の簡素化や日程短縮を望んでいた」にもかかわらず、即位大礼は柳田圀男をして「今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費ト労力ヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞ノコト」と言わせるほどのお祭り騒ぎになってしまう。

結局、40歳の頃に「御脳の方に何か御病気あるに非らずや」という状況に陥り、42歳のときには裕仁皇太子が摂政に就任。「大正天皇の病気が公表され、天皇は脳を患っているという風説が広がった以上、もはや天皇が、かつての明治天皇のように、国民の視線から遮断されたところで、『神』として崇拝されることはあり得なかった。政府の戦略は、裕仁皇太子という新しい皇室シンボルを、観念的で見えない『現人神』ではなく、逆にその表情や肉声までが万民のもとにさらされる、見える『人間』にすることにあった」という文章は本書の肝の一つと言って良いだろう。

永井荷風が、大正天皇の最期の様子を報じる当時の新聞記事を「日々飲食物の分量及排泄物の如何を記述して毫も憚る所なし」と批判しているのは、昭和天皇崩御の際のマスコミ報道を想起させるものであり、新聞記者としてそれに立ち会ったという著者の「戦後の象徴天皇制の本質的部分は近代天皇制と変わらず、近代天皇制は決して過去の遺物ではない」という感想はとても重要。

正直、著者の主張のように「(大正)天皇は自らの意思に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって強制的に『押し込め』られた」とまで言えるかどうかは疑問だが、「皇太子と万単位の『臣民』が、旗行列や分列式、万歳、奉迎歌や君が代の斉唱などを媒介としてまさに一心同体となる光景を目のあたりにして、他国とは異なる『帝国日本』のアイデンティティーを感じとっている」という「『昭和』の光景」の無気味さには、心の底から同意するしかない。

終章で紹介されていた「国家と国民生活の一体性から疎外された不遇・無力な一日本人が、自己の生活の意味を究極的な統合シンボルとしての天皇との一体化に求めようとする」ところの「下からの新しいナショナリズム」が、天皇を「変革のシンボル」へと転換させるという橋川文三の分析は、松本清張の描いた2.26事件の本質を見事に言い当てており、それは形を変えて最近の愛国ブームにも繋がっているのかもしれない。

ということで、前代未聞の即位大礼をはじめ、神前結婚式やナショナルシンボルとしての桜のイメージ、さらには日の丸、君が代に至るまで、近代天皇制を支えるために創造された“新たな伝統”は今なお現役であり、今年の10月22日の「即位礼正殿の儀」の際にもそれらがフル活用されるのだろう。憂鬱なことではあるが、とりあえずそれまでに同じ著者による「昭和天皇」を読んでおこうと思います。

テス

1979年
監督 ロマン・ポランスキー 出演 ナスターシャ・キンスキー、ピーター・ファース
(あらすじ)
19世紀末の英国ドーセット地方。貧農の娘に生まれたテス(ナスターシャ・キンスキー)は、母親の言いつけで嫌々挨拶に行かされた名門ダーバビル家のバカ息子アレックに気に入られ、住み込みでその農場で働くことになる。実家への支援をチラつかされて彼の情婦にされてしまったテスは、そんな暮らしに嫌気が差して実家に帰ってくるが、そのとき既に彼女はアレックスの子を妊娠していた…


アメリカを脱出してフランスに移り住んだ頃のロマン・ポランスキーが発表した文芸大作。

タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(2019年)」が1969年に起きたシャロン・テート殺害事件を取り扱っているとのニュースを耳にして、長らくこの作品を見逃していたことを思い出す。本作はポランスキーが亡き妻シャロンに捧げたものであり、オープニングに「for Sharon」という文字が表示される。

さて、やがて生まれた子供は間もなく息を引き取ってしまうのだが、正式な洗礼を受けていないという理由で教会の墓地に埋葬してもらうことは出来ず、また、その後愛し合うようになる牧師の息子エンジェルも、彼女の過去を受け入れることが出来ずに一人で異国の地へと旅立ってしまう。

ラストに登場するストーンヘンジの遺跡は、そんな偏狭で堅苦しいキリスト教の神には見切りを付けてしまい、もっと生命力に満ち、恋愛にも寛容だったと思われる古代の神々によってテスが救われ、犯した罪を許されることを願う原作者トーマス・ハーディの配慮だったのかもしれない。というか、そうとでも考えないとあまりにテスが可哀想すぎる。

実はちょうど今、テスと同じヴィクトリア時代の思想家であるジョン・ラスキンの書いた本を読んでいる最中なのだが、彼は様々な社会悪を放置している当時のキリスト教関係者の怠慢を「空想的キリスト教」と呼んで批判はしている。しかし、その一方で「神の摂理によってその人が現在置かれている境遇に満足すべきである」という言葉にも一定の評価を与えており、うーん、彼はテスのような生き方をどう考えたのだろうか。

ということで、テスの母親が器量の良い娘をダーバビル家に挨拶に行かせたのは“あわよくば玉の輿…”という気持があったからであり、アレックがテスのことを(当時のやり方で)愛していたのも間違いない。つまり、テスが“真実の愛を貫こう”などと思わなければ皆が幸せになれた可能性が高かった訳だが、少なくとも個人的にはテスは被害者であり、彼女の生き方を非難する気には到底なれません。

ロケットマン

今日は、妻&娘と一緒にエルトン・ジョンの半生をテーマにしたミュージカル映画ロケットマン」を見てきた。

キングスマン(2014年)」のシリーズで主演を務めているタロン・エガートンは我が家でもなかなかの人気者であり、そんな彼があのエルトン・ジョンを演じるとなっては見逃す訳にはいかない。彼の歌の腕前は「SING/シング(2016年)」のゴリラ青年ジョニーの吹替えで実証済みであり、ワクワク気分で映画館へ。

さて、ストーリーは、両親からの愛情に恵まれなかったレジナルド・ドワイト少年が、ピアノの才能が認められて王立音楽院に入学。その後、ロック・ミュージックに出会った彼はエルトン・ジョンと名乗るようになり、ハンサムな作詞家バーニー・トーピンと意気投合してヒット曲を連発するというもの。

そんな順風満帆に見える彼の人生に暗い影を落としていたのは、ゲイであることを告白したときに母親から告げられた「誰からも愛されない」という呪縛。孤独に耐えきれずに酒と麻薬に溺れていった彼は更生施設へ入所することになってしまうが、最後は旧友バーニーの支援もあって“I’m Still Standing”を歌いながら無事に現役復帰を果たす。

勿論、エルトン・ジョンのヒット曲が沢山出てくるのだが、必ずしも発表時期に忠実という訳ではなく、例えば“I’m Still Standing”がヒットしたのは1990年に更正施設に入所する7年前の1983年のことらしい。まあ、本作がジュークボックス・ミュージカル仕立てであることを考えれば当然のことであり、そのときの状況に一番マッチする内容の歌詞を持つ作品が選ばれたからに過ぎない。

そのほとんどの曲を自分で歌っているタロン・エガートンの歌唱力は見事なものであり、母親の家系といわれる薄毛を含めてお世辞にも二枚目とは言えないエルトン・ジョンの役を達者に演じている。実話ベースということで少々ドラマチックな展開に欠ける点と、一つの曲が尻切れトンボに終ってしまう(=“Daniel”に至っては、ほんの歌い出しのところだけ!)ことが多いのが残念だったが、ひょっとするとアカデミー賞争いにも絡んでくるのかもしれない。

ということで、「ボヘミアン・ラプソディ(2018年)」のフレディ・マーキュリーを見たときも思ったのだが、エルトン・ジョンがゲイであり、バーニー・トーピンに片思いしているというのは中高生だった頃の俺でも知っていた有名な話であり、彼がそんなこと(?)で悩んでいたというのはかなり意外。そんな両者を食い物にしていたというマネージャーのジョン・リードの言い分も、ちょっぴり聞いてみたいような気がします。

アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル

2017年
監督 クレイグ・ギレスピー 出演 マーゴット・ロビーアリソン・ジャネイ
(あらすじ)
貧しい家庭に生まれたトーニャ(マーゴット・ロビー)は、母親のラヴォナ(アリソン・ジャネイ)の言いつけにより4歳の頃から本格的にフィギュアスケートの練習を開始する。体罰も厭わない母親の厳しい叱咤激励のせいもあって、次第にその才能を開花させていくトーニャだったが、貧しさの故に品のある衣装を身に付けることが出来ず、それが試合の点数に響くことも…


米国のフィギュアスケート選手だったトーニャ・ハーディングの半生を描いた作品。

1994年のリレハンメルオリンピックに出場したときのトーニャ・ハーディングのことは今でも良く覚えており、その直前に起きた「ナンシー・ケリガン殴打事件」の中心人物としてスケートリンクに登場する前から“悪役”のイメージが強かった。しかも、実際に我々の前に姿を現わした彼女は、そのイメージが間違いではなかったことを自ら証明するかのような傍若無人ぶりであり、う~ん、世の中にはとんでもない選手がいるんだなあというのが彼女に対する感想のすべて。

そんなトーニャ・ハーディングの半生を、「スーサイド・スクワッド(2016年)」のハーレイ・クイン役で世の男性を魅了したマーゴット・ロビーが演じるというので興味を持ったのだが、正直、本作にハーレイ・クインの幻影を追い求めるのは大きな間違いであり、我々が目にするのは愚かで下品で哀れなトーニャ・ハーディングその人。

はっきり言って、公開当時27歳のマーゴット・ロビーが15歳当時のトーニャを演じるのはさすがに無理がある(=それもギャグのつもりなのかな?)が、その点を除けばこれまでの彼女のイメージを一新させるような大熱演であり、どんなときにも笑いを忘れない達者なシナリオを含めてとても面白い作品に仕上がっている。

当事者の証言が食い違っているため、本作の内容も一つの“可能性”として判断するしかないのだが、このように暴力的な環境の中で育てられた少女が暴力的な人間に成長するのは、まあ、ある程度やむを得ないことであり、少なくともその責任を彼女だけに押しつけるべきではない。そんな彼女に“気品”や“理想的な家族像”を要求するフィギュアスケート界がちょっぴり嫌いになった。

ということで、リレハンメルオリンピックに出場したトーニャは、何億人もの人間の敵意や憎悪、嘲りの対象になった訳だが、その何億人の中に俺が含まれていたのは紛れもない事実。マスコミは今でも連日のように新たな“悪人”を作り出しているが、我々が彼らの背景を知ることは困難であり、“罪を憎んで人を憎まず”という言葉にはそのことに対する配慮の意も込められているのかもしれません。