市民主義の立場から

1991年に出版された久野収の評論・エッセイ集。

「思想のドラマトゥルギー」を読んで以降、何か久野収の著作を読んでみたいと思っていたのだが、例によってどの本から手を付ければ良いのか皆目見当がつかない。Wikipediaによると「いわゆる『主著』と呼ばれるものがない」ものの、「久野を理解するキーワードは『市民』であると言われている」そうであり、とりあえずその言葉がタイトルに含まれているこの本を読んでみることにした。

さて、本書には6つの「市民の問題を扱った評論、エッセイ」が収められているのだが、その中で一番長いのが冒頭の「マハトマ・ガンディー ―もう一つの伝記―」。そこでは“インド独立の父”として知られる彼の活動の原点となった南アフリカでの“サチァグラハ運動”の実態が詳細に紹介されている。

“サチァグラハ”の「語根的意味は、真理の堅持、したがって、真理の力」であり、歴史的には1906年9月11日に開かれた全インド人大会における“誓約”がその出発点。トランスバール政府がインド移民に押し付けようとした「人相と指紋つきの新登録証明書」に反対する彼らは、「この法律への不服従を神の名にかけて厳粛に誓約」し、それに対する懲罰は甘んじて受けることを決意する。

すなわち、この運動に参加する市民的抵抗者が「国家の法律にいつもはしたがっているのは、制裁をこわがるからではなく、法律が社会全体の幸福に役だつと考えるから」であり、「あるいくつかの法律がたいへん不正であって、それに自分をしたがわせることが、不名誉だとしか考えられない場合」には、「彼は、法律を公然と市民的にやぶり、法律をやぶった刑罰をしずかにひきうける」ことになる。

また、サチァグラハ運動の過程が必然的に非暴力と結びつくのは、「だれも絶対的真理を把握したものはなく、自分の把握した真理がつねにまちがいの可能性にさらされている以上、自分が真理と信じるものを、他人に暴力的、権力的におしつけることは、真理への裏ぎりをまねくから」であり、個人主義や寂静主義を拠り所とする“受動的抵抗”運動とははっきり区別されなければならない。

結局、ガンディーが指導した南アフリカでの運動は、「南ア政府が最後になって発揮した正義の精神」のおかげもあって、成功裏に幕を閉じることになるのだが、その勝利の要因の一つになったのは「光栄あるイギリス憲法」の精神であり、それ(≒真理)を尊重しようとする「人間性への無条件の信頼こそ、この運動のただ一つのよりどころ」だったとのこと。

我が国の市民運動を考えるとき、このサチァグラハ運動から学ぶべきことは多々あるのだろうが、少々気になるのはこの南アフリカ政府が発揮した“順法精神”なるものが現在の我が国政府内でどれくらい尊重されているかという点であり、解釈改憲も厭わないという不誠実な政府に対しては「人間性への無条件の信頼」を唯一の拠り所とするサチァグラハ運動は十分な効果を発揮し得ないのではなかろうか。

次の「『市民的自由』と『市民社会』をどう定着させるか」という文章は、著者の75歳の誕生日に当たる1985年6月10日に行われた講演会の記録であるが、「本来、参加者間相互の等価交換、平等的つきあいを実現するはずの世界市場が独占の形成と同時に、分割支配の場にまで後退してしまい、自己の独占市場を守るために夜警国家がだんだん独占の過程とくっつくことによって、行政、管理国家とか、あるいは軍事国家、戦争国家になっていく」という状況認識は、とても明快で素人にも理解しやすい。

このような状況下において著者が指摘する「市民的自由」の一つのあり方が、「捨てる自由、もっと強くいえば、欲望そのものを内部から浄化し、空だと感じさせて、内部から消滅させてしまう。放棄する自由、身を捨てる自由、あるいは世間からドロップアウトする自由」であり、「専制国家であり、身分国家であったために、万人が市民的自由を獲得する見込みが絶望的に少なかった」ところの「アジアの伝統のなかには深く生きつづけている」とのこと。

そして、ヨーロッパ的な「獲得するための市民的自由と、放棄、身を捨てる、ドロップアウトする市民的自由と、ぼくのようなほどほどに自足しようとする自由の三つがあって、それらをどう生かすかが、われわれ、市民の知恵、見識」ということになるのだが、まあ、「自治と責任をともなう自由よりも、(政府や圧力団体や有力者の)保護のもとに、国力なり民力なり、自分の財産なりを拡張する方が大好き」な日本人には、最初からあまり関係ないことなのかもしれないね。

ちなみに「個人エゴイズムを発揮させながら生きつづける集団エゴイズムに対して持続的に抵抗できるためには、そうするほうが精神衛生によい、つまり気持がよいところまでいかなければうまくいかない。…正義や人道の立場からする抵抗はその立場がくずれ去った場合、眼もあてられない惨状を呈しがちである」という指摘が印象に残った。

3番目の論文は「危険な管理ファシズムの進行 ―歴史の論理と現代―」であり、戦前の「強制ファシズムは、経済恐慌を戦争と戦争経済によって切り抜ける方向へ追いやられた後進資本主義国の強制独裁体制であった。…資本主義と市民的民主主義を制度的に保証する結果をもたらした市民革命の革命独裁の時期をもつ余裕もなく、国家機関が資本主義を上から急激に進行させ、国家資本主義的色彩に最初から強く色どられていた後進帝国主義の恐慌切り抜け体制であった」という総括は、やはりとても明快で分かり易い。

しかし、こういった「ファシズムのおぞましさ、残忍さ、暗さの先例は、市民反乱、市民革命にすべて出そろっているのであり、指導者だけが残忍で、おぞましかったというよりむしろ、大衆の方がそれによってしかいやされない何かに深く苦しめられていた」という指摘は貴重であり、「市民革命は、一般的幸福、幸福の平等を目標としながら、現実には特殊的幸福、不平等の幸福しか実現できない」とその限界を率直に認めている。

市民革命が「基本的人権と市民的自由の形式的勝利を民主主義的憲法、その他の制度として生み落とした」ことは評価されてしかるべきであるが、そもそも「財産権を中心とする基本的人権と市民的自由は、この企業家階級の致命的利害(=市場における自由競争と交換を確保する。)と深く結合していたからこそ、憲法に保証され、民主主義的制度として定着した」に過ぎない。

そのようにして生まれた「国家は、企業家階級にとっては、めいめいの特殊利益を内外の侵害(=長時間労働に従事する労働者や非人間的抑圧に苦しむ植民地・後進地域の大衆による反乱)から守る聖なる防壁であり、被支配大衆にとっては、めいめいの特殊利益の大部分を犠牲にしなければならない全体の象徴」であり、「ファシズムは資本主義的市民社会の例外的鬼子であるのではなく、非常時に見せる一つの顔にすぎない」。

現在の「管理型産業社会はたしかにファシズム社会とちがって、価値の多元化と選択の自由が認められているようにみえる。…しかしそれにもかかわらず、このような選択の自由を現実に許容されているのは、経済的余裕と政治的特権にめぐまれた少数の特権層にすぎない」訳であり、「労働者と小市民から成る被支配大衆の価値判断を上から決定するのは…巨大企業を中心とする支配層の自己保存、自己拡大の意志である」。

「この(企業の私的性格の)後退にもかかわらず、企業の公的意味に眼をつぶったままで、都合のよい場合だけ、私企業の名に逃れるとすれば、この欺瞞をこえるために出て来なければならないのは、企業の民主化、社会化」であり、その方法の一つとして著者は「企業の生産する商品やサービスの消費者の側からするコントロール」を挙げているのだが、この文章が書かれて以降、企業の巨大化は加速度的に進行しており、もはや市民運動のレベルで企業に対抗することは不可能なのではなかろうか。

残りの「生活市民の原理をうちたてよう」、「市民主義の成立 ―一つの対話―」そして「イメージの哲学とレトリックの時代」はいずれも比較的軽めの内容であり、「私にいわせれば、年収1200万円以上は個人の家計ではいらない。個人の所得における不公平さは、いまや非人道的でさえある。だから家計のためには1200万円以上は当分とらない。そこから生み出された余裕を、不況によって苦しめられている人々、中小企業の労働者たちに還す方法が考えられてよい」という主張を公約に掲げるような政党は出て来ないもんだろうか。

そして、最後の「あとがきの言葉」で、著者は「今日、われわれ市民は、上から支配する特権的政治家層や大官僚層を最小限にする自治市民社会をどのように造り出し、どのように拡げていくかの問題に直面している」と本書に込められた問題意識を表明するのだが、そんな自治市民社会の実現がますます困難になりつつあることは彼自身の言葉に如実に現われている。

すなわち、「市民は生活者的側面、職業人的側面、遊民的側面を内包して、はじめて市民でありうる」のだが、欧米とは比較にならない程の長時間労働は「職業と生活との分離」を困難にし、就職氷河期の経験やまやかしの“女性の社会進出”(=女性を安価な労働力として利用しようとするだけの政策)は、多くの学生や主婦層から「遊民的側面」を奪い去ってしまった。

その結果、後に残されたのは日銭を稼ぐのに汲々とする貧しい大衆であり、「指導者信仰は、大衆の個人的無力感の逆表現であり、指導者の大衆操作は、大衆をますます個人的無力の状態に追いこみ、大衆の指導者へのイデオロギー的同化が、バラバラでは無力な大衆個人に大きな力の感覚をあたえ、この力は内敵、外敵への勝利の意志と不断の警戒として発揮される」という指摘ばかりが現実的に感じられてしまうのは、何とも困ったことである。

ということで、とても率直で頭の良い人なんだろうなあというのが著者に対する印象であり、文章も分かり易くてとても勉強になる。残念ながら20年前に亡くなられてしまった故、辺野古の新基地建設問題等に対する助言を期待することは出来ないが、彼の文章を読むことは「精神衛生によい、つまり気持がよい」ことなので、また別の本を読んでみようと思います。

アベンジャーズ/エンドゲーム

今日は、妻&娘と一緒にアベンジャーズ・シリーズの完結編となる「アベンジャーズ/エンドゲーム」を見てきた。

前作「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー(2018年)」の衝撃的かつ中途半端なラストから待たされること一年、ようやくその続編が見られるということで早くも期待値はMAX! 正直、こんなに公開が待ち遠しかったのは数十年ぶりのことであり、はやる気持ちを抑えながら映画館へ向う。

さて、ストーリーは、前作のサノスとの戦闘で多くの仲間や家族を失ったヒーローたちによるAvenge(=復讐、報復の意味だが、Revengeが個人的な理由による復讐であるのに対し、Avengeは正義感による悪への報復という意味合いを持っているらしい。)の様子が描かれており、勿論、最後は最強の敵サノスの撃破に成功するものの、アベンジャーズ側も取り返しのつかない多大な損失を被ってしまう…

正直、序盤でいきなりタイムトラベルの話題が出て来たときは、そのあまりの安易さにガッカリしてしまったのだが、実はそれには十分な理由が隠されており、それを理解した瞬間からもう涙が止まらなくなる。すなわち、本作はアベンジャーズ・シリーズの完結編というに止まらず、これまで10年以上に渡って描き継がれてきた第一期MCUシリーズの掉尾を飾るという重大な使命を帯びていた!!

ピム粒子を利用したタイムトラベルによってそれぞれの“過去”に旅立ったヒーローたちは、そこで再び自分の“原点”と向かい合い、それによってアイアンマンは一人の人間として自分の父親を理解することが出来るようになり、ソーは母親の励ましによって失いかけていた自信を取り戻す。残るキャプテン・アメリカは忘れようとしていた恋人のことを思い出してしまうのだが、実はこれが最後に大事件を引き起こすことに…

そんなちょっぴりおセンチ(=死語)なところもある前半が終了すると、いよいよサノス軍団との最終決戦の始まりであり、アベンジャーズ側も生き残り組にインフィニティ・ストーンによって蘇った仲間たちが加わっての大混戦。そんな中、前作では活躍できなかったホークアイやスカーレット・ウィッチ、ヴァルキリーといったメンバーにはきちんと見せ場が用意されており、さすがにルッソ兄弟の演出に手抜かりはない。

また、長年に渡って取っ散らかってきたMCUシリーズの“辻褄合わせ”に果敢に取り組んでみせた脚本の出来も見事であり、心配していたガモーラやロキ(=つまり前作での死因がインフィニティ・ストーンの効果ではなかった人たち。まあ、ヴィジョンはどうでもイイや。)の処遇も完璧。まあ、これだけの長大な作品の故、いくつかの細かな破綻は免れ得ないだろうが、そんなことをいろいろ議論するのも今後の楽しみになるのだろう。

ということで、182分の上映時間があっと言う間に過ぎてしまう素晴らしい作品であり、トラフィックキンクスの名曲を使ってくれた点も含め、第一期MCUシリーズの製作に関わった多くの関係者に対して心から感謝したいと思う。なお、俺が生きているうちにあと2、3シリーズは楽しませてもらうつもりなので、出来るだけ早く第二期シリーズの製作に取り掛かってくださいますようお願いします。

ディズニーシーと多摩動物公園(第2日目)

今日は、初めて訪れる多摩動物公園を一日楽しんでから帰宅する予定。

長男が小さかった頃から一度行ってみたいと思っていたのだが、当時はカーナビのような便利な道具は存在しなかったこともあり、今日まで果たせずにいた。正直、家族に提案した時点では舞浜から車を走らせることになるとは思ってもいなかったが、幸いGW2日目の首都高は空いており、開園時刻の午前9時を少々過ぎた頃に到着。至近の駐車場はどこも満車だったが、ちょっと離れたところにはまだ十分空きがあった。

さて、入口のゾウさんの前で記念写真を撮ってから園内に入ると、どうやら敷地は予想したより広そうであり、丘陵地の斜面を利用していることもあって運動不足気味の娘にはちょっとキツイかもしれない。そこで、急遽シャトルバスを利用するプランに変更し、小型のバスに乗って丘の中腹にある“アジアの平原”へ直行!

そこからオオカミやレッサーパンダ等を見学しながらゆるやかな斜面を歩いて行くと、本日の最初の目的であるユキヒョウ舎に到着。その太くて短い前足と長~い尻尾の組合せは厳しい岩場での暮らしに適応した結果なのだが、脳天気な我々にはまるで“ぬいぐるみ”のように可愛らしく見えてしまうのが困りもの(?)。本人が知ったらきっと気を悪くするだろうなあ。

次にオランウータンを見に行くが、人気の“スカイウォーク”が始まるまでにはまだ時間があるので、先に丘の頂上にある“みはらし広場”で格好の良い2羽のワライカセミを見学。おそらくこれほど大きくも派手でもないのだろうが、一度、野生のカワセミの姿を見てみたいものである。

さて、再びオランウータン舎の前に引き返すといよいよスカイウォークの始まりであり、(強制された訳でもないのだろうが)一匹の年若そうなオランウータンが約15mの高さにあるロープを伝ってオランウータンの森に帰って(?)いく。それに続くのはまだ幼い赤子を連れた母猿であり、う~ん、彼らにとってそこから落ちるというのは全くの想定外なのだろう。

次のお目当てはコアラ館だったが、正直、ほとんど動かないので見ていてあまり面白いものではない。それに対し、意外に妻&娘に好評だったのが“モグラのいえ”であり、ガラスやビニール管で作られた巣の中を動きまわるモグラの様子をじっくり観察。モグラに関する誤った情報の蔓延を嘆くモグラ先輩のお言葉も面白かった。

そして、本日一番の目的はチーターと共にアフリカ園の大トリを務めるサーバル君であり、昨年11月に生まれたばかりという双子は期待していたとおりとても可愛らしい。何を見つけたのかは知らないが、二人して一生懸命に地面を掘り返している様子を何枚も写真に収めさせて頂いた。

結局、娘が意外な頑張りを見せたことから、昆虫館(=娘は大の虫嫌い。)を除いてほとんど全ての動物を見学することが出来たのだが、インドサイやライオンなど他の動物園ではいつも寝そべってばかりいる動物たちが元気に動き回っている様子を見られたのはちょっと感動的。やはり広い敷地を活かした自然に近い飼育方法が効果的なんだろう。

ということで、GW2日目にもかかわらず、園内そして帰りの高速道路も混雑とは無縁であり、圏央道東北道と順調に車を走らせて無事帰宅。例によって少々ハードスケジュールではあったが、大混雑に悩まされることもなく、とても快適に楽しい二日間を過すことが出来たのは幸運なことであり、GW後半戦もこの調子で乗り切りたいものです。

ディズニーシーと多摩動物公園(第1日目)

今日は、妻&娘と一緒に東京ディズニーシーに出掛ける日。

今年のGWは改元に伴って10連休になるのだが、俺だけ4月30日に仕事が入っているので、まあ、前半戦は例年どおり。そうはいっても妻&娘を放っておく訳にもいかないので、昔からずっと興味を持っていた多摩動物公園を提案してみたところ、妻からディズニーランドorシーとセットにする修正案が出され、協議の結果、初日はディズニーシーで遊んでくることになった。そんな今回の特記事項は次のとおり。

1 今夜の宿泊先である東京ベイ舞浜ホテルで仮チェックインを済ませてからディズニーシーに向ったため、入場ゲート前に着いたのは開園時刻(=午前8時)の10分前。そこには既に長い行列が出来ていたが、最初のトイ・ストーリー・マニア!(=肩に力が入りすぎたため129,300点で自己ベスト更新ならず。)は50分待ちとあまり待たされずに利用することができた。

2 実は、妻&娘がトイマニの行列に並んでいる間にインディー・ジョーンズ・アドベンチャーのFPを取りに行ったのだが、混雑しているのは入口からアメリカンウォーターフロントにかけてくらいであり、ロストリバーデルタ周辺は普段の週末よりもずっと空いているという印象。理由はいくつか考えられるが、とにかく大混雑の予想は良い方にハズレたらしい。

3 その理由の一つはやや高めの降水確率と低い気温であり、上着は着てきたものの冬用ではないのでかなり肌寒い。アトラクション(=娘が苦手とするタワー・オブ・テラーにも久しぶりに挑戦)を比較的スムーズに利用できるのは有り難いものの、せっかく当選した“Tip-Topイースター”が雨天中止になってしまったのは残念至極。しかし、その代りに素敵なサプライズが用意されていた!

4 というのは昼食の予約をしておいたマゼランズでの出来事であり、受付のキャストさんに案内されたのは噂でしか知らなかったあの“隠し部屋”。最初、トイレの方に連れて行かれたのでちょっと嫌な気分になったのだが、本棚に隠された秘密のボタンを押すと隠し部屋への入口が開き、ワインセラーのような内装の小部屋でゆっくりと豪華(=高価?)な昼食を楽しむことが出来た。

5 また、ドックサイドステージの演し物が新しくなっており、その名も“ハロー、ニューヨーク!”。ニューヨークを訪れたミッキーたちが大勢のダンサーさんと歌って踊る楽しいショーであり、まあ、少々ビッグバンドビートと雰囲気がカブってしまうが、場所がアメリカンウォーターフロントなんだから仕方がない。ちなみに、最後にキャラが客席に降りて来てくれるが、ミッキーはステージに向って右側が担当(=我々は左側だった。)なので注意が必要。

6 言い忘れていたが、2010年7月に我が家の一員になったシェリーメイが、今回、実に9年ぶりに里帰りを果たすことが出来た。せっかくなので新しい衣装を購入することにしたが、あまり適当なものが見当たらなかった故、ダッフィー用のデニムのオーバーオールを購入。帰宅後に着替えさせたら「ペーパー・ムーン(1973年)」のアディみたいになった。

ということで、本日2度目となる最終回のビッグバンドビートを鑑賞しようとしたが、満員のため列に並ぶことが出来ず、寒くなってきたのでお土産を購入してからホテルに戻る。娘の話によると、GW初日にもかかわらずガラガラのディズニーランド&シーがSNSの話題になっていたそうであり、その反動で好天の明日は大混雑になるかもしれません。

君主論

ニコロ・マキアヴェリが1513年に執筆した政治学の古典。

あまりにも有名すぎる故、かえって読むのを躊躇っていた本なのだが、以前読んだ「社会契約論」の中でルソーが「マキアヴェッリは国王に教訓を与えるふりをしながら、人民に大切な教訓を与えたのである。マキアヴェッリの『君主論』は共和主義の宝典なのだ」と言っていたのがどうしても気になってしまい、ようやく読んでみることにした。

さて、中公文庫版で翻訳を担当している池田廉氏の解説によると、本書は①国の分類と、その征服と維持の手段(第1~11章)、②攻撃と防衛に関する軍事的側面(第12~14章)、③君主の資質(第15~23章)、④イタリアの危機的現状の分析、さらに危機をのりきる君主の待望論。運命観をも含む(第24~26章)という4つのパートから構成されており、執筆当時、21歳になるかならないかであったメディチ家の期待の星ロレンツォ2世に捧げられている。

しかし、おそらく予備知識が多すぎたせいだと思うのだが、書かれている内容はどこかで聞いたことのあるようなものばかりであり、正直、新鮮味に乏しいったらありゃしない。勿論、その“どこか”の源泉がこの本にあるのは言うまでもないが、君主向けのハウツー本のような底の浅い記述(?)から、著者の高邁な哲学を汲み取ることはなかなか容易ではない。

また、忘れていけないのは、本書が「領土欲というのは、きわめて自然な、あたりまえの欲望である。したがって、能力のある者が領土を欲しがれば、ほめられることはあっても、そしられはしない」という主張が当然と考えられていた時代の産物であるということ。いくらマキアヴェリが褒めているからといって、今の時代にチェーザレ・ボルジアのような政治家を許容するというのはあってはならないことだろう。

結局、本書を読んでみて最も興味深かったのは、「結論として述べておきたいのは、ただ一つ、君主は民衆を味方につけなければならない」という言葉に代表されるように、民衆から支持されることの重要性を繰り返し強調しているところであり、「もし最上の要塞があるとすれば、それは民衆の憎しみを買わないことにつきる」ということを今から500年以上前に主張しているのは間違いなく素晴らしい。

福祉や教育の確保等が求められる現在の為政者とは異なり、当時の「君主は、戦いに勝ち、ひたすら国を維持して」くれてさえすれば、市民は「商業、農業、その他いっさいの人間の営みにおいて、各自が安心して仕事に従事できる」訳であり、あとは「君主にとりあげられるのがこわさに、自分たちの私財をふやすのを恐れることなく、また重税こわさに商取引をさしひかえたりしないように、配慮」していれば良い。

おそらく、「君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる関心事ももってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない」という主張はそういった夜警国家的な発想に基づくものであり、ルソーの「『君主論』は共和主義の宝典」という言葉も(君主の本音を暴露したからというだけでなく)そんなところを評価したのではなかろうか。

ということで、「傭兵軍および外国支援軍は役に立たず、危険である」というのももはや手垢の染み込んだ真実であり、辺野古の新基地が不要なことは500年以上前に立証済み。本書には「やむにやまれぬ人にとっての戦が正義であり、武力のほかに一切の望みが絶たれたとき、武力もまた神聖である」という不穏当な言葉も引用されているのだが、そうならないためにも一日も早い話合いによる解決を望みます。

シェフ 三ツ星フードトラック始めました

2014年
監督 ジョン・ファヴロー 出演 ジョン・ファヴロー、エムジェイ・アンソニー
(あらすじ)
ロサンゼルスの一流レストランで総料理長を務めるカール・キャスパー(ジョン・ファヴロー)は、堅物オーナーのせいで新しいメニューに挑戦することが出来ず、料理評論で定評のある有名ブロガーからマンネリと酷評されてしまう。頭に血の上ったカールは反論を試みるが、SNSに不慣れなせいで事態は悪化する一方。結局、レストランを飛び出した彼は世間の笑いものになってしまう…


アベンジャーズ・シリーズの製作総指揮を務めるジョン・ファヴローが、監督・脚本・製作・主演を一手に引き受けたコメディ映画。

なかなか新しい就職先が見つからないカールは、離婚した元妻イネスの勧めに従い、10歳になる息子のパーシー(エムジェイ・アンソニー)と3人で故郷のマイアミを訪れる。おそらくここまでで作品全体の1/3くらいなのだが、カールがマイアミで絶品のキューバサンドイッチに出会って以降、事態は急速に改善の方向へ向っていく。

普通の脚本ならこの後にも2、3のトラブルが控えているのだろうが、本作では、元妻の元夫が中古のフードトラックを提供→カールの元同僚マーティンが助っ人参加→新装のフードトラックで商売開始→SNSで情報が拡散して人気爆発→カールとパーシーの親子の絆が回復→例の有名ブロガーもサンドイッチを絶賛→彼がスポンサーになって新レストラン開店、といった具合にハッピーエンドに向って一直線!

しかも、この間、ご機嫌なBGMに乗って美味そうなサンドイッチが鉄板上で焼かれるシーンが何度も登場し、もう、そこから生み出される多幸感は(試したことはないけど)間違いなくマリファナ級。そして、そこに更にキャスパー一家の再生というオマケまで加わるのだから、正直、こんな超ハッピーエンドにはなかなかお目に掛かれない。

そんな、凡作であれば“出来過ぎ”の批判を免れ得ないストーリーに奇妙なリアリティを付与しているのが主役を演じたジョン・ファヴローのキャラクターであり、彼の私生活に関する情報は全く持ち合わせていないものの、きっととても良い人なんだろうなあ。アベンジャーズ繋がりでロバート・ダウニーJr.やスカーレット・ヨハンソンカメオ出演してくれているのも微笑ましかった。

ということで、主人公を批判した有名ブロガーとも最後に和解するので、本作に登場する“悪人”は最初に主人公が務めていたレストランの堅物オーナーただ一人。演じている名優ダスティン・ホフマンもおそらくカメオ枠の一人であり、後半は顔を見せなくなってしまうため主人公との和解シーンを描けなかったのだろうと思います。

花瓶山のイワウチワ

今日は、妻と一緒にイワウチワが見頃を迎えている大田原市の花瓶山を歩いてきた。

この山は2014年の年末にも一人で歩いているのだが、そのときは茨城県との県境を歩くことが主目的であり、最後の藪コギにちょっと手間取ったという記憶くらいしか残っていない。しかし、最近のヤマレコの記録によると今週末頃にはイワウチワが満開になる見込みであり、それを見物するために午前7時頃にウツボ沢出合いの駐車スペースに到着する。

“ここが満車だったら、下の駐車場から片道2kmの林道歩き”という妻への脅しが奏功したらしく、いつもより早めに着いた駐車スペースには先着の車が2台だけ。その方々は最初に向山方面に向ったようだが、美味しいものは最後に残しておくタイプの我々は花瓶沢の登山口を目指して7時6分にスタート。

最初は車でも通行可能な林道をテクテク歩いて行くが、事前学習によるとその沢沿いにハナネコノメという可愛らしい花が咲いているらしい。しかし、普段から(俺の苦手な紐状生物が視界に入るのを防ぐため)草むらに目をやらないよう心掛けているため、小さな草花を探すのは大の苦手。そのせいか、または既に花弁を散らしてしまったせいかは不明だが、結局、ハナネコノメの花は見つからなかった。

さて、そうこうしているうちに“花瓶沢 花瓶山登山口”の標識(7時58分)の立つ分岐に到着し、そこを右手に進んでようやく山道に入る。最初は右手に沢の流れを眺めながら歩いて行くが、沢の尽きた地点(8時15分)で左手の斜面に取り付き、8時21分に尾根に出る。そこには山頂と兄弟ブナまでのそれぞれの距離を示す標識が立っていた。

事前学習によると兄弟ブナはわざわざ見に行く程のものではなさそうなので、右手の急斜面を上って8時26分に花瓶山(692m)の山頂に着く。前回訪れたときより雰囲気が明るくなったような気がするが、そこにある「花瓶山自然環境保全地域」の柱には確かに見覚えがあり、そのそばに腰を下ろして本日最初の大休止。

8時48分に再出発すると、最初の分岐(8時56分)の前後からカタクリの花が目に付くようになり、しばらく進んだ先では斜面一帯を埋め尽くしている。残念ながら日差しが弱い故、ちょっぴり元気がないように見えてしまうが、これだけの群生を見られたのは今年になって初めてであり、妻も大喜び。

さて、ルートはきちんと間伐や下草刈りが施された植林地の中に続いており、前回より雰囲気が明るく感じられるのはそのせいかもしれないなあ。10時ちょうどに着いた向山(548m)の山頂で空腹を満たしてから腰を上げる(10時26分)と、ブル道を何度か横断した後、いよいよお待ちかねのイワウチワ群生地へ。

正直、最初はこんなもんかと思ったが、その先にもずっとイワウチワの花が広がっており、成程、これはなかなか見応えがある。記憶にあるよりやや小ぶりなものが多いような気もするが、花弁の色や形は意外なほどバラエティに富んでおり、見栄えの良いものを選びながら何枚も写真に収めさせて頂く。

群生地を過ぎるとゴールは間もなくであり、10時54分にウツボ沢出合いの駐車スペースに戻ってくる。我々とは逆回りに歩いた先行の方々もちょっと前に到着したばかりのようであり、どちらから回っても周回に要する時間はあまり変わらないらしい。本日の総歩行距離は8.2kmだった。

ということで、「湯津上温泉やすらぎの湯」に立ち寄って汗を流してから無事帰宅。利用した時刻が早かったせいかもしれないが、この日帰り温泉、入浴料が安い(=@400円)上に空いており、お湯もヌメヌメしていてなかなか良い感じ。こちら方面に出掛けたときにはまた利用したいと思います。
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