シャザム!

今日は、妻&娘と一緒にDCコミックスの実写映画化である「シャザム!」を見てきた。

一応、「DCエクステンデッド・ユニバース」の7作目という位置付けなのだが、映画版ジャスティス・リーグに参加していなかったこともあって、シャザムというスーパーヒーローに対する思い入れは皆無。しかし、一足先に公開された全米での評判は上々のようであり、娘からの強いリクエストもあって映画館へ。

さて、ストーリーは、老魔術師から超人的パワーを引き継いだビリー少年が、その力を駆使して“七つの大罪”の能力を身に付けたDr.サデウス・シヴァナと戦うというもの。実は、サデウス自身も幼い頃に同じ老魔術師に出会っているのだが、純粋な心を持っていなかったために魔法の力を引き継ぐことが出来なかったのが長年のトラウマになっている…

幼い頃に母親と生き別れになってしまったビリー君が身に付けた超能力というのは、“シャザム!”という呪文を唱えることによって大人のスーパーヒーローに変身できるというものなのだが、当然、中身は子どものまんまであり、スーパーヒーローとしての自覚はおろか、自分にどんな能力が備わっているのかさえ全く分らない。

そんな彼の相棒としてスーパーヒーローの“能力調査”に協力してくれるのが、ビリーと同じ里親の元で暮らす5人の孤児たちの中の一人であるフレディ少年。スーパーヒーロー・オタクの彼が試みる様々な“実験”がなかなか秀逸なギャグになっており、その結果によると金魚と話すことは出来ないものの、スーパーマン並みの能力を有しているらしい。

まあ、そんな具合に全編にわたって笑いどころは豊富であり、しかもデッドプールのような残酷シーンは一切出てこないのでファミリー映画としても最適。ビリーの機転によって6人のスーパーヒーローが勢揃いするシーンは涙なくしては見られない感動の名場面であり、正直、これまでのDCEU作品の中では「ワンダーウーマン(2017年)」と双璧をなす快作だと思う。

ちなみに唯一の心配事は、子役が多いために続編をさっさと作らないとみんなアッと言う間に大人になってしまうことであり、3部作にするのなら2、3作目は一緒に撮影してしまわないと間に合わないかも知れない。その点、何年経っても年を取らないアニメ作品は有利だが、まあ、本作の迫力をコナン君レベルのアニメ技術で再現するのは到底不可能だと思う。

ということで、近年、やや過熱気味と思われる程のペースで公開が続いているアメコミ映画であるが、最近見た「スパイダーマン:スパイダーバース(2018年)」、「キャプテン・マーベル(2019年)」そして本作の3本は、いずれ劣らぬ秀作揃い。いよいよ今週末に公開が迫った「アベンジャーズ/エンドゲーム」に対する期待も高まる一方です。

虹の鳥

沖縄県出身の小説家である目取真俊が2006年に発表した長編小説。

多くの反対や疑問の声が上がっているにもかかわらず、相変わらず土砂の投入が続いている辺野古の新基地建設問題。本来、沖縄県民を米軍基地の“脅威”から守るべき日本政府が、新基地建設に反対する県民らを率先して弾圧するという構図は、先日読んだ「谷中村滅亡史」の正に現代版であり、その反対運動に参加しているという目取真俊の作品を是非とも読んでみたくなった。

さて、作品の舞台になるのは1995年当時の沖縄であり、ワルの先輩である比嘉に脅されて美人局の片棒を担がされている少年カツヤが主人公。比嘉から託されたマユという17歳の少女に売春をさせ、その客の写真を撮って比嘉に渡すというのが彼の役目なのだが、このクスリ漬けの少女が素直にカツヤの指示に従わないため、失敗続きの彼が逆に比嘉から睨まれることになってしまう。

カツヤが2学年先輩の比嘉に出会ったのは公立中学校に入学したときであり、カツヤの家庭が比較的裕福(=父の営む不動産業の収入の他、多額の軍用地料を受給しているらしい。)だったのといろんな意味で周囲から孤立していたところに目を付けられたらしい。その後、高校を中退してからもカツヤは比嘉やその仲間たちのパシリに使われており、比嘉の暴力から逃れるためには彼に取り入るしかないというのがカツヤの信条になっている。

そんなカツヤにとっての唯一の希望(?)が、ヤンバルの森の奥で訓練をする米軍特殊部隊に伝わるという“虹の鳥”の伝説。隊員たちの間では、その幻の鳥を見ることができた隊員は、どんなに激しい戦場からでも必ず生きて還ることが出来る一方、彼以外の部隊の仲間たちは全滅すると信じられているらしい。

したがって、もしカツヤが虹の鳥を見つけられれば、現在の苦境から抜け出せるだけでなく、怖い比嘉たちは全員あの世行きという最高のハッピーエンドが待っている。しかも、何故かマユの背中には虹の鳥を思わせる美しい鳥の刺青が彫られているのだが、残念なことにその頭部はタバコの火を押し付けられたような醜い火傷の痕で汚されている…

本作の時代設定が1995年になっているのは、そんなカツヤの儚い望みとその年に起きた沖縄米兵少女暴行事件に対する大規模な抗議活動とを見比べてみるためなのだが、「怒りを表しはしても、けっして越えようとはしない一線が、基地の金網のように人々の心に張りめぐらされている」という後者の限界(?)は、比嘉のような性根の腐った連中には易々と見透かされてしまうに違いない。

そして、それは“沖縄県民の気持ちに寄り添いながら”と言い続けながら辺野古への土砂の投入を止めようとしない現政府を相手にした場合も同じこと。本作のラストは、比嘉一味や米国人幼女を殺害してしまったマユを連れたカツヤが、虹の鳥を見つけるためにヤンバルの森に向って車を走らせるところで幕を閉じるのだが、う~ん、現実の新基地建設反対運動は今後どのような方向に進んでいくのだろうか。

ちなみに、虹の鳥の伝説では、残りの仲間が虹の鳥を見た隊員を殺してしまえば全滅の運命から逃れられることになっているのだが、全員が生還できるという選択肢は用意されていないので注意が必要。やはり、“殺るか、殺られるか”という段階に至る前に問題の解決を図っておく必要があるのだろう。

ということで、本作を読んでみてつくづく思ったのは“日本という国は依然として米国の占領下にあるんだなあ”ということ。そして、その征服者に対する日常的な屈辱感を沖縄県民に押し付けることによって我々は精神的な安定感を得ている訳であり、やはり新基地建設反対運動は我々自身の問題であるということを改めて肝に銘じておかなければなりません。

三度目の奈良旅行(第2日目)

今日は、今回の主目的である吉野山をのんびり見て歩き、京都駅18時2分発の新幹線のぞみで帰宅する予定。

昨日の奈良市内では満開の桜を堪能することが出来たのだが、それは同時に“吉野山の桜の時期はまだこれから”ということを意味している。しかし、幸い天気の方は晴天が続いており、昨日と今日とでどれくらい開花が進んだのか楽しみにしながら大和八木駅午前5時37分発の始発電車に乗って、いざ吉野へ!

途中、橿原神宮前駅での乗換時間が2分しか無いので少々焦ったが、何とかクリアして6時35分に吉野駅に着く。まだ動き出していないロープウェイ駅の脇の階段を上った先が七曲坂(6時46分)であり、この付近が下千本になるのだろうが、周囲の桜はほぼ満開。とりあえずこれで花見の目的は達成できたので、ホッと胸をなで下ろす。

早朝ということで観光客の数はそれ程多くはなく、美しい桜の花を何枚も写真に収めながら黒門(7時7分)~仁王門(7時16分)を潜り、7時21分に3年ぶりの金峯山寺蔵王堂。しかし、そのときは見られなかった“秘仏本尊 特別ご開帳”の受付時刻にはまだ早いので、これも見逃していた吉野朝宮址(7時29分)を見学してから吉水神社に向う。

実は、そこの“一目千本”からの絶景を観光客が多くなる前に楽しんでしまうつもりだったのだが、残念ながら門が閉じられているため境内に入れない。仕方がないので、蔵王堂を満開の桜越しに眺められる場所で写真を撮ったり、東南院の境内のしだれ桜を見物したりしながら金峯山寺まで引き返した。

さて、昨日、追加購入しておいた中谷堂のよもぎ餅を食べながらベンチに座って待っていると、受付を待つ行列が出来たのでそれに並んで定刻(=8時30分)どおりに蔵王堂の中へ案内される。そこには障子のような衝立で仕切られた小区画が複数設けられており、妻と二人、そのうちの一つに入って三体の金剛蔵王大権現と初対面。

青色を基調とした全長7mの巨像はなかなかの大迫力であるが、我々の区画が右端の方だった故、そこからでは左側の一体が良く見えない。退出後もゆっくりと金剛蔵王大権現を眺められる機会はないので、小区画に案内される前に三体揃った全体像を良く目に焼き付けておいた方が良いと思う。

その後、再び吉水神社に向うと既に境内には多くの観光客の姿が見られたが、さほど苦労することもなく一目千本の看板(9時3分)のところへたどり着く。中千本の桜はまずまずだったものの、上千本の方はまだこれからという状態であり、オマケをしても“一目五百本”といったところだが、まあ、足りないところは想像力で補っておこう。

さて、吉水神社の中は三年前に見学しているのでパスさせて頂き、勝手神社の前の分岐を左に入って上千本方面へ歩いていく。しかし、どうやらこちらはメインルートではなかったらしく、櫻本坊の裏手の階段(9時30分)を上ってメインルートに復帰。その少し先にあるケーブルバス乗場には奥千本方面へ向うバスを待つ人々の行列が出来ていた。

予定では上千本の吉野水分神社まで歩くつもりだったが、係の人の話によると時刻表に関係なく4台のマイクロバスがピストン運行しているとのことであり、その誘惑に負けて行列に並ぶ。結局、20分くらい待たされてバスに乗車できたが、この道が“すれ違い困難”なのは3年前に自分の車で経験済みであり、途中、マイクロバス同士がすれ違うときのスリルはなかなかのものであった。

せっかく奥千本まで来たので、しんどそうな妻の手を引いて金峯神社(10時22分)にお参り。3年前に訪れたときにはほぼ無人だったが、今日はそれなりの人出であり、神社の目の前までタクシーで乗り付けてくる団体さんもいるくらい。その後、高城山展望台(10時43分)に立ち寄ってみたが、もちろん桜の花は影も形も見られない。

それでも吉野水分神社(11時8分)まで下りてくると境内のしだれ桜は部分的に花を付けており、上千本の下の方では五分咲き程の桜も見られるようになる。中には花の色が真っ白なものも混じっており、ピンクだらけの中ではかえってその清楚さが魅力的。坂の途中からは中・下千本の桜が眺められるようになるが、どこから見ても金峯山寺蔵王堂はよく目立つ。

さて、ケーブルバス乗場(11時48分)まで戻ってくると、日差しが強くなったせいか桜の鮮やかさが朝方より一段アップしたようであり、櫻本坊(11時53分)の境内にある白とピンクのしだれ桜がとてもきれい。しかし、それと同時に観光客の数もグッと増えてきたようであり、そろそろ何処かに入らないと昼食を食べ損ねてしまうかもしれない。

そこで勝手神社の分岐の一番手前にある“お食事処 坂本屋”(12時10分)というお店をのぞいてみると何とか座れそうなので、そこに入って“葛うどん・柿の葉すしセット”を注文。続いて“吉野葛 八十吉”というお店の葛きりを食べてみると、これがなかなかの美味であり、隣の売店で娘用のお土産をいくつか購入する。

その後も柿の葉寿司や奈良漬け等々のお土産を購入していると、俺が背負っていたザックもいつの間にか満杯。もうこれで思い残すことは何もないと下山に取り掛かるが、道路には満足に歩けないくらいの観光客が溢れており、これを回避するために吉水神社の裏にある急なジグザグ道(13時38分)を下りて“ささやきの小径”に着地。ロマンチックな雰囲気は皆無だが、人通りがまばらなのは間違いなく、そこを歩いて吉野駅(14時21分)まで戻ってくる。

予約しておいた特急電車の発車時刻までにはまだかなり間があるが、それより前の特急券は全て売切れであり、急行に変更してもあまりメリットはなさそう。仕方がないのでソフトクリームを舐めたりしながら時間を潰し、16時4分発の近鉄特急~新幹線と乗り継いで21時22分に宇都宮駅に到着。駐車場に止めておいた車に乗って無事帰宅した。

ということで、一泊二日の強行軍ではあったが、ほぼ予定どおり三度目の奈良旅行を完了することが出来て大満足。もっと時間が自由に使えるようになれば吉野山の桜に再チャレンジということも考えられるが、とりあえずこれで我が家の奈良旅行は一段落だろう。さて、次の目的地は何処にしようかなあ。
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三度目の奈良旅行(第1日目)

今日は、妻と一緒に(家族旅行としては)三度目の奈良旅行に出発する日。

前回、奈良県吉野山を訪れたのは3年前の3月のことであり、金峯山寺をはじめとする4つの世界遺産を中心に車を使って大急ぎで見て回った。そのときの“桜の季節に再訪してみるのも悪くないねえ”という俺の言葉を覚えていた妻が企画してくれたのが今回の旅行であり、吉野町のHPの開花予想等を参考にしながら4月最初の週末に吉野山を再訪することにした。

ところが、各地から桜の開花情報が伝わってくる頃になって急に寒い日が続くようになり、その影響で吉野町の開花予想も数日先送りされてしまう始末。しかし、今になって宿や新幹線等の予約を変更するのは困難であり、まあ、お天気は良さそうなので古都の散歩を楽しむつもりで午前10時過ぎに近鉄奈良駅のホームに降り立つ。

さて、今日は奈良の町中をのんびり見て回る予定であり、中谷堂で購入したよもぎ餅を食べながら猿沢池を半周した後、五十二段を上って興福寺へ。北円堂は柵がしてあるため近づけなかったが、今日のお目当ては昨年10月に落慶したばかりの中金堂であり、拝観料を支払って中に入ってみる。

出来たてのホヤホヤであり、その鮮やかな色彩は古めかしい伽藍が建ち並ぶ中ではやや奇異に映るが、まあ、あと100年もすれば重厚さが出てくるのは間違いのないところであり、そんな長期的な視野に立った整備計画を考えられるのは羨ましい限り。最後に国宝館にも立ち寄ってみたが、オーソドックスな配置に戻された名品の数々は、勿論、どれもこれも素晴らしかった。

次は、満開の桜の下、多くの観光客に囲まれた鹿さん達の姿を眺めながら奈良国立博物館に向う。これまで、明治時代に建てられたという古めかしい雰囲気の建物の前を通ったことは何度もあるが、中に入ってみるのは今回が初めてであり、開館中だったなら仏像館と青銅器館をゆっくり見学。

“今日見られる国宝”は薬師如来坐像と八幡三神坐像の計4体のみであるが、それ以外にも飛鳥時代から鎌倉時代という我が国の仏教美術の最盛期に作られた仏像が数多く展示されており、うん、これはなかなか良い勉強になる。一方、仏像館と渡り廊下でつながっている青銅器館には中国の古い青銅器が展示されているが、これって中国からの返還要求は無いのかしら。

次の目的地である白毫寺は町中からちょっと離れているので、途中、“空気ケーキ。”というケーキ屋さんに立ち寄って一休みしてから、頑張って“歴史の道”を歩いて行く。残念ながら、ようやくたどり着いた白毫寺の名物“五色椿”はやや見頃を過ぎていたが、高円山の麓に位置する境内からは奈良市内を一望することが出来た。

その後、再び歩いて“ならまち”まで戻り、あらかじめ目を付けておいた砂糖傳増尾商店に立ち寄って留守番をしている娘へのお土産を購入。ガイドブックに掲載されていたカフェ風の店はどこも混んでいたので、庚申堂の近くにあった名も無いお店(?)でカレーライスとぜんざいを食べながら体力の回復を図り、いよいよ最後の目的地である元興寺へ。

このお寺が世界遺産に指定されていることは今回の旅行の事前学習で初めて知ったのだが、“ならまち”の真ん中にあるということで、当然、境内はあまり広くない。最大の見所は浮図田(=様々な石塔類がずらっと並んでいる。)の方角から眺めた極楽堂と禅室の古瓦であり、それは飛鳥時代から伝わっているものらしい。また、発掘の様子を紹介した展示物も興味深いものであった。

さて、近鉄奈良駅まで戻る途中、マツコご推奨という魚万のバターポテトを食べてみたが、う~ん、普通のさつま揚げの方が美味しいんじゃないかなあ。その後、今夜の宿がある大和八木駅まで電車で移動するが、まだ明るいので先に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている“今井町”を見に行くことにする。

残念ながら時刻が遅いため建物の中には入れなかったが、時代劇に出てくるような町並みが続いている様子はなかなか珍しく、通りをぶらぶら歩きながらタイムスリップ気分を楽しむ。その後、駅前にある“Pizzeria Bar Buono”というお店でピザとパスタの夕食を済ませ、向かいのセブンイレブンで明日の朝食を購入すれば、これで本日の日程はすべて完了。

ということで、奈良市内の桜はどこも満開であり、そんなところをのんびり歩けるのが奈良の良いところ。名所旧跡の類いは京都の方が充実しているのかも知れないが、ビルや車、それに観光客の数が多すぎるところが大きな難点であり、我々のような田舎者にはちょっとストレスになってしまうんですよね。
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谷中村滅亡史

明治40年8月に刊行され(即日発禁にされ)た荒畑寒村20歳の処女作。

先月、妻と一緒に渡良瀬遊水地を訪れたとき、“郷土の偉人”田中正造のことをもっと勉強しなければと思ったのだが、とりあえず本書がその一冊目。明治38年の第二次東北伝道行商(=赤くペンキを塗った箱車を曳いてパンフレットを売り歩いていたらしい。)の途中で谷中村を訪れた寒村は、そこで田中正造と知り合い、後日、彼から本書を書くように懇請されたらしい。

さて、本書は、明治14年足尾鉱毒事件が発覚(=当時の藤川知事が渡良瀬川流域での魚類の販売、食用を禁止し、そのため翌々年に島根県に“左遷”されたらしい。)してから、明治40年7月5日に土地収用法に基づく“強制破壊”(=最後まで買収に応じなかった16戸を県が強制的に解体、消滅させた。)が完了するまでの経過を記録したものであり、もう最初から最後まで寒村の激しい怒りに満ちあふれている。

そもそも谷中村には400年に及ぶ長い歴史があり、「すこぶる水利に富み、かつ天与の肥沃地たるにおいては日本無比、関東の第一位にあり」と評されるほどの恵まれた環境から、一時は450戸、2,700人ほどの村民が暮らしていたらしい。川沿いの立地の故、昔から洪水は多かったのだろうが、それと上手に共生していたことは先月の“現地調査”で確認済み。

そんな状況に変化をもたらしたのが渡良瀬川上流における銅山開発であり、明治10年に政府から足尾銅山を貸与された古河市兵衛は、銅の採掘に伴う鉱屑を河川に投げ入れて清流を毒水に変えたばかりか、低額で払下げを受けた官林の濫伐(=明治21年以降)を繰り返すことによって周囲の森林の保水力を著しく低下させてしまう。

その結果として生じたのが谷中村を含む下流域における大洪水の頻発。度重なる洪水は上流の堆積物を下流に押し流すことによって河床の上昇を招き、明治29年頃にはその被害は当時の東京府にまで及ぶようになってしまう。寒村の推理によると、この洪水を防ぐために谷中村を瀦水池にするという“陰謀”の発案者は、明治23年の洪水発生時の農商務大臣として土地勘のあった陸奥宗光であり、彼は自分の次男を古河家の養子に出していた。

しかし、寒村の偉いのは、一度、そんな陰謀論抜きでこの瀦水池化計画を評価しているところであり、彼の試算によると谷中村を水没させることにより得られる貯水量は「18億余立方尺」で政府の主張している「39億立方尺」の半分にも満たない。事実、隣接の町村も“百害あって一利なし”と谷中村の瀦水池化計画には反対していたらしい。

まあ、さらに百歩譲ってこの瀦水池化計画に合理性があったとしても、「政府の谷中村を買収せんとする口実は、即ち洪水の氾濫にあり、而して故意を以て、洪水氾濫の因を作りしもの、これ実に政府そのものにほかなら」ないというのは厳然たる事実であり、解説の鎌田慧氏が言うとおり「資本家の勝手…を取り締まることなく、村を潰してダムをつくるのは、強盗に遭った被害者を殴りつけて憂さ晴らしをするようなもの」ということになるのだろう。

しかも、その瀦水池化計画を強引に推し進めようとする県の手口は全く酷いものであり、洪水で決壊した堤防の修復を放棄してしまうことによって「実に数年間一村を水浸しとなし、田圃荒廃し、作物実らず、而してこれに因て価格(=地価)下落するを俟ちて、初めて買収せんと企て居たればなり」というのはあんまりというもの。

そのほかにも無頼漢を使った様々な嫌がらせや虚構の村債を理由にした苛税の賦課等、容易に買収に応じない村民に対する行政の対応は極めて卑劣であり、「谷中村を滅亡せしむるにあらざれば、彼ら県庁の官吏の不正行為、歴任県知事の罪悪、否な日本政府と資本家とが、数十年間にわたりて犯し来れる、鉱毒問題てふ大罪悪を、埋没する能はざればなり」と言われても仕方がない。

明治40年6月29日から7日間にわたって断行された土地収用法に基づく強制破壊の様子を描写した文章は、正直、涙無くして読み進められないくらいの悲惨さに満ちており、「あゝ悪虐なる政府と、暴房なる資本家階級とを絶滅せよ、平民の膏血を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭を飾らしめよ」というと凄まじいばかりの呪詛の言葉で本書は幕を閉じる。

まあ、谷中村の滅亡は大日本帝国憲法下で起きた悲劇であり、現憲法下において全く同じことが繰り返されるとは思わないが、戦後に起きた水俣病等に対する行政側の対応がそれからどれくらい進化したのかと問われると、正直、答に窮してしまう。また、森友加計問題に見られる政官の癒着や辺野古埋立てを巡る地方自治軽視の現状は、残念ながら本書の存在価値がいまだ十分に残っていることを示しているのだと思う。

ということで、「谷中村の滅亡は、決して谷中村一個の事件にあらずして、実に多年の宿題たりし鉱毒問題の埋葬を意味す」という一文からも明らかなとおり、足尾鉱毒事件というのは我が国の公害問題の原点であるとともに、いまだに続く“市民運動敗北史”の始まりでもある。そろそろ辺野古の埋立て問題あたりで初勝利をあげておかないと明治の先人に合わせる顔が無くなりそうです。

黒船前夜

“ロシア・アイヌ・日本の三国志”という副題の付けられた渡辺京二の著作。

明治維新の勉強をしているときに興味を惹かれた本の一冊に「逝きし世の面影」という作品があり、本当はそちらを読んでみるつもりだったのだが、ちょっとした気の迷い(?)で本書の方に先に手が伸びてしまう。しかし、その直観は(珍しく)正しかったようであり、ちょうど今、俺が興味を持っている様々な事柄と絶妙な関係性を有する内容であった。

さて、本書は、1771年のベニョフスキーの寄港に始まり、1813年のゴローヴニンの釈放をもって一応の完結をみる日露外交史の“第一段階”をテーマにしているのだが、最初に名前の出てくるベニョフスキー(=和名“はんべんごろう”)なる人物は実はロシア人でも何でもない。しかし、彼の残した好い加減な“忠告”は様々な誤解や思惑の末、「ロシアがアイヌを手なずけて南千島蝦夷島へ及ぼうとしている」と解され、「ロシアの南下を憂える北方問題」の端緒になってしまう。

しかし、この当時のロシアの関心事は主に西方にあったらしく、シベリア方面の開発は毛皮による一攫千金がお目当てのコサックまかせ。啓蒙専制君主であったエカチェリーナ2世の示した方針は「アイヌをロシア主権下に従属させても彼らにしかるべき保護を与えることは至難であり…いまはただ彼らを心服させるにとどめよ」というものであり、彼女は日本が自分たちに対してそんな不信感を抱いているとは思ってもいなかった。

一方、1604年に松前慶広が家康から黒印状を賜って以降、一応、蝦夷地は松前藩の管轄下ということになっていたのだが、他方で「幕府は18世紀の末にいたるまで蝦夷地を日本の正式な領土とは認めて」おらず、「この辺の曖昧さがいわゆる近代国民国家成立以前の主権概念の特徴」らしい。

松前藩蝦夷地のアイヌから高租を徴収したことはなく、人口調査など個別に人身を把握したこともなかった」ことから、「要するにアイヌの住む広大な天地、すなわちアイヌモシリは日本にとってまだ統治の及ばぬ異国なのだった」というのが著者の見解であり、「蝦夷地の経営をまったく場所請負商人に任せっ放し」にし、「アイヌを未開状態に放置した」松前藩に対しても、「アイヌの自立した社会を温存した点で」一定の評価を与えているところがとても興味深い。

しかし、ベニョフスキーの忠告によって火のつけられた北方脅威論の影響は徐々に幕府内に広がって行き、1785、6年に行われた2度の蝦夷地見分の報告では「アイヌを日本国民と認定し、千島・樺太を固有の領土とみな」すようになる。請負商人に酷使される様子を見た幕吏が「アイヌに対する人道的な同情心を抱いていたのは否定できない。その意味では彼らは徳川期の良吏と言ってよかった。だが、彼らは近代ナショナリストのはしりでもあったのである」。

そんなときに起きたのが1792年のラスクマンの来航であり、彼の目的は日本からの漂流者である大黒屋光太夫らの送還とそれを契機にした日本との国交樹立。結局、後者は失敗に終り、“日本との友好条約締結を提案する書簡を「強いて提出したい」のであれば長崎への入港を許可する”という趣旨の「信牌」だけを受領して帰国するが、ロシア側の事情によりそれは「11年間むなしくイルクーツク政庁に眠ることになったのである」。

さて、その後、英国の探検家ブロートンの蝦夷島来航(1796年)の影響もあり、蝦夷地の防衛強化の必要性を痛感した幕府は1799年以降、蝦夷地の直轄化を推進。それと共に実施したのが「夷人を日本国民として同化すること」と「ロシアの千島進出をエトロフ島の先のウルップ島で喰い止める」ためのエトロフ開発であり、「それはロシアの南進という夢魔に脅やかされた防衛本能の発動であり、日本近世ナショナリズムの最初の血の騒ぎだったのである」。

しかし、そんなこととはつゆ知らず、再び日本との通商開始の気運が高まってきた「ロシア帝国のとった方針は平和主義と徹底した低姿勢」。皇帝から遣日特派大使に任命されたレザーノフは、ラスクマンの持ち帰った「長崎入港の信牌」を携えて1804年9月に長崎港外にやってくるが、ようやく幕府から派遣された遠山景晋と面会できたのは翌年3月になってから。

しかも、その回答はけんもほろろの内容であり、レザーノフは最後まで友好的で礼儀正しい態度を変えなかったものの、内心では侮辱されたと感じており、帰国後、部下のフヴォストフらに命じて樺太南千島の日本植民地の襲撃を断行。脅迫をもって日本政府の譲歩を引き出そうとする。

しかし、「初めは強大な軍事力を有する武士集団が支配する兵営国家として出発しながら、19世紀初頭には、武力紛争をできるだけ回避し、平和な談合による解決を重んじる心性が上下ともに浸透する社会を作り出していた」徳川幕府のとった「対露策の根本は意外に和平を旨とし紛争回避を専らとするものだった」。

このとき幕府の内外でロシアとの通商を許すべしという意見が出されるが、「むろん幕閣は通商論を採ることはなく、紛争を避ける慎重な態度を保ちつつ海防を厳にする方針を定め」て「今後ロシア船を見うけたならば厳重に打ち払」うことを指示。「日本はこのとき、幕府主導の開国というもうひとつの近代化の可能性を喪ったのだった」。

そして最後に登場するのが1811年に起きた海軍少佐ゴローヴニンの幽囚であり、海域調査のために南千島を訪れていた彼はそこで松前奉行所の役人に捕らえられてしまい、その後、松前に移されて約2年間の幽囚生活を送ることになる。

結局、親友リコルドの尽力によってゴローヴニンは帰国を許されることになるが、「南進するロシアと北進する日本のせり合いは、リコルドのゴローヴニン釈放交渉によって一段落とし、その後はエトロフ・ウルップ間に境界を置く勢力圏の確定によって、ひとまずの安定をみるに至った」というのが本書の結論。

しかし、本書の中で最も印象的なのは日露外交史の合間に語られるアイヌの歴史であり、「アイヌと日本人はもとをただせばおなじ縄文人であり、弥生時代から古墳時代にかけて流入した新モンゴロイドの影響を受けたか否かによって、身体的形質の差異が生まれた」、「統治も行政も、ましてや国家もアイヌモシリには存在しなかった」等の指摘はとても興味深い。

特に「国家権力に従属しない自立的な生のありかた、あの世とこの世の循環のなかに正しく位置づけられた心の落ち着き、自然の恵みを感謝するにとどまらず、災害すら自然の悪意ではなくて、自分を徳ある人として完成せしめる善意とみなす世界観-このゆたかな精神文化こそアイヌ社会の重要な一面だったのである」という文章には、ピエール・クラストルから内村鑑三まで、最近読んだ何冊かの本のエッセンスがぎっしりと詰まっており、正直、ちょっと驚いてしまった。

ということで、「幕末来日した西洋人たちを感動させることになるわが庶民たちの情愛深い美質」を讃える文章が目立つのがちょっぴり鼻に付くが、北方4島が“我が国固有の領土”と呼ばれる(た?)理由は良く理解できた。それに比べると竹島尖閣諸島との関係はやや根拠薄弱と言わざるを得ないが、領土問題というものは過去の歴史よりも時の政府の意向により強く影響されるものなのでしょう。

晃石山で花より団子

今日は、妻と一緒に栃木市にある晃石山の周辺を歩いてきた。

あまりパッとしなかった天気予報が一気に好転し、これでは家でゴロゴロしている訳にはいかない。特に準備はしていなかったが、昨日立ち寄った下野市天平の丘公園に咲く薄墨桜がほぼ満開だった故、一昨日から始まっている太平山の桜まつりも期待できるかも知れないと考え、午前8時過ぎに大中寺の駐車場に到着する。

身支度を整えて8時29分に出発。お昼頃に謙信平に着けるようにいつもとは反対回りに歩き出し、舗装道を歩いて9時ちょうどに清水寺に着く。晴天の予報にもかかわらず周囲には靄が立ち込めたままであり、正直、あまり気分は乗ってこないが、その先にある分岐(9時4分)から山道に入り、9時29分に桜峠。

さらに長~い階段状の斜面を上って青入山(389.5m。9時50分)の表示のあるピークに着くと、にわかに登山者やトレランの方の姿が目立つようになり、そんな人たちに混じって10時14分に晃石山(419.1m)。本日の最高地点であるが、残念ながら周囲は真っ白のままであり、どうやら天気予報はハズレだったみたい。

さて、ぐみの木峠(10時51分)の先にある太平山のピークはパスさせて頂き、11時18分に太平山神社まで下りてくる。実はこの先でちょっと道に迷ってしまい、結局、あじさい坂を下って随神門経由で謙信平(11時38分)に到着。途中から気付いていたとおり桜はまだ咲き始めたばかりだったが、目的は既に花から団子へと変わっており、お店に入って玉子焼、お団子、蕎麦、甘酒のフルコース。

店を出る(12時17分)と青空が見えるようになっていたが、2年前に上りで使った舗装道路へ下りる道が分らずにちょっとだけウロウロ。仕方がないので、直接大中寺に下りることにし、ゲートの先の分岐(12時31分)を左に入って12時46分に大中寺。境内にある満開の白椿の大木に感嘆しながら駐車場(12時57分)に戻ってくると、本日の総歩行距離は9.3kmだった。

ということで、久しぶりに「柏倉温泉 太子館」に立ち寄って汗を流し、スッキリした気分で無事帰宅。お天気と桜は期待ハズレだったが、謙信平で久しぶりに食べたお蕎麦&玉子焼は(空腹のせいもあって?)絶品であり、こんな具合に山歩きの途中に食事を取れるのはとても有り難いことだと思います。