ダンボ

今日は、妻&娘と一緒にティム・バートン監督の最新作「ダンボ」を見てきた。

最近、昔の名作アニメの実写化に精力的に取り組んでいるディズニー映画だが、この作品もそんな中の一作。うちの子どもが小さかった頃、ビデオで一緒に見たアニメ版には相当陰湿なシーンが含まれていたような記憶があるが、それをティム・バートンがどう現代風に料理しているのかを想像しながら映画館へ向う。

さて、ストーリーはアニメ版のそれに相当加筆されているようであり、ミリーとジョーの姉弟の指導によって、見事、空を飛べるようになったダンボは、ニューヨークの大物興行師であるV.A.ヴァンデヴァーにスカウトされ、そこで生き別れになっていた母親のジャンボと運命の再会を果たす。

しかし、そう簡単にハッピーエンドを迎えるハズはなく、親の存在はダンボの成長のためにならないと考えるヴァンデヴァーは、あろうことかジャンボの殺処分を部下に指示。それを知ったミリーとサーカスの仲間たちは、一致団結してジャンボとダンボの母子をヴァンデヴァーの元から救い出そうと大活躍…

予告編を見た時点で分っていたのだが、アニメ版と違って本作のストーリーは人間の側からのみ描かれており、ダンボをはじめとする動物たちは本編中一言も喋らない。そのためネズミのティモシーの出番は大幅にカットされてしまっているが、その代りにミリーとジョーの姉弟やその父親のホルト、そして謎の美女コレットといった新キャラが大挙登場。

当然、ファミリー映画の路線からは逸脱できないためストーリーは単純にならざるを得ないが、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(1993年)」のデザインをモチーフにしたアンチ=ディズニーランドを登場させたり、幼い姉弟より先に妖艶なコレットをダンボに搭乗させたりと、所々でティム・バートンらしさが見られるので、まあ、見ていて退屈はしない。アニメ版の陰湿さは相当軽減されており、健全なアクションシーンが一番の見所かな。

ラストでは、母親の故郷であるインドのジャングルにやってきたダンボが大空を自由に飛び回るというボーナスシーンまで見せてくれるなどファンサービスは満点であり、何としても本作を失敗させる訳にはいかないという監督の気持ちがヒシヒシと伝わってくる。その思いが通じた暁には、旧作のリメイクではなく、是非とも新作に挑戦して欲しいなあ。

ということで、個人的にはティム・バートンの健闘を素直に称えたいと思うのだが、鑑賞後の娘の感想はかなり辛辣。まあ、コレット役のエヴァ・グリーンを甘やかせ過ぎという意見には同意せざるを得ないが、この作品でいつものバートン節を希望するのはちょっと酷だろうと思います。

アカヤシオ咲く不動岳

今日は、年度末にもかかわらず、平日に休みを取って再び(高い方の)不動岳の南に伸びる尾根を歩いてきた。

1月のときに途中撤退となってしまった不動岳に再チャレンジすべく、ネット上の情報を色々調べてみたところ、前回、防獣柵に阻まれて進入できなかった尾根の途中にある417.2Pから東方に向って下山しているレポートを複数発見。いずれも上級者のものであるが、まあ、下りは無理でも上りなら何とかなるだろうと思い、午前5時過ぎに出流ふれあいの森の駐車場に到着する。

周囲が明るくなってきた頃を見計らって5時19分に出発。しばらく舗装道路を歩いて行くと、あらかじめGoogleマップストリートビューで確認しておいたとおり、「さとや」というお蕎麦屋さんの看板(5時28分)の隣に地形図にも記載されていた林道が通っており、ここに入って417.2Pを目指すことにする。

荒れた林道の先はブル道に続いており、そこをしばらく進んでから水のない沢を渡って山裾に取り付く。覚悟していたとおりの急斜面ではあるが、下草を鷲掴みにしながら慎重に上っていくと左手に尾根形が見えてくるのでそちらに移動。下草が無くなると地面はアリジゴク状態になってしまうので、なるべく早めに尾根に乗った方が楽だと思う。

さて、ようやくたどり着いた417.2P(5時57分)には出流山という名前が付いているそうだが、山名板は見当たらず、三角点を写真に収めただけで先に向う。6時8分に佐野市栃木市の境界尾根に行き当たると、ここからが2ヶ月ぶりの尾根繋ぎの始まりであり、前回の失敗を無駄にしないように体力温存を心掛けながら歩いて行く。

6時45分に着いた小ピーク上の木立には赤いテープが巻かれており、ここを東に向って下りていった先にあるのが剣ヶ峰(6時55分。543m)。やはり山名板は無かったが、石垣の上に建てられた石の祠はなかなか立派なものであり、この日に見掛けた構築物の中では一番の見物だった。

さて、先程の分岐(7時9分)まで引き返して尾根繋ぎを続行。舗装された林道を2度(7時26分、30分)横断して進んでいくと8時9分に615Pに到着し、ここは佐野、栃木、鹿沼の“三市境”になる。その先の613P(8時23分)は前回も訪れた場所だが、現在の状況はそのときとは段違いであり、気力・体力ともにまだ余力充分。

しかし、歩き出してから既に3時間を経過しているのでここで本日最初の休憩を取り、8時29分に再出発。前回の撤退地点(8時51分)に着いたときにも全然元気であり、不動岳まで行けることを確信するが、その先の岩混じりの急斜面には大量の枯葉が残っているため滑りやすくてなかなか大変。

しかし、やはり神様というものはいるものであり、小さな石の祠(9時10分)の先の小ピークには今年初めて見るアカヤシオが咲いている。周囲を見渡しても花を付けているのはまだ2、3株程であるが、青空の下で眺めるアカヤシオの清楚な美しさは格別であり、幸せな気持ちになって5年ぶりの不動岳(664.5m。9時25分)に到着。

さて、二度目の休憩を取った後に下山(9時32分)に取り掛かり、撤退地点(10時6分)~613P(10時31分)と歩いて10時47分に三市境の615Pまで戻ってくる。今度はここを左に入ると、少々尾根筋が分かりずらいのはほんの最初のところだけ。松林が続いているのはちょっと珍しいが、それを除くと少々退屈になるくらい平坦で変化に乏しい尾根がダラダラと続いている。

やがて右手には作業道のようなものが見えてくるが、ここはいつもどおり尾根筋にこだわって歩き続ける。しかし、結果的にはこの几帳面さが裏目に出てしまい、最後は背丈ほどの篠竹の密ヤブをかき分けてようやく寺坂峠に到達したものの、擁壁に阻まれて林道に降りることが出来ない。

高さは2mくらいであるが、飛び降りてケガでもしたら家族に怒られるのは必至。悩んだ末にザックに入れっぱなしにしておいたロープのことを思い出し、それを使った自己流のロープワークで無事に林道(12時18分)に降り立つ。その後は林道を歩いて12時33分に出流ふれあいの森の駐車場に戻ってくると本日の総歩行距離は19.4kmであり、珍しく一度も道に迷わなかったせいで目標の20kmにはわずかに届かなかった。

ということで、2ヶ月前のリベンジを無事に果たすことが出来てとりあえず満足。次回、寺坂峠から三峰山までの区間を歩けばここの尾根繋ぎも一応完了ということになるのだが、そろそろ低山歩きのシーズンも終りに近づいており、それがいつになるかはまだ不明といったところです。
f:id:hammett:20190330063505j:plain

タクシー運転手 約束は海を越えて

2017年
監督 チャン・フン 出演 ソン・ガンホトーマス・クレッチマン
(あらすじ)
1980年のソウル。妻に先立たれ、幼い一人娘を抱えた個人タクシーの運転手キム・マンソプ(ソン・ガンホ)は、月々の家賃も満足に支払えないような貧しい生活。そんなある日、彼は、ピーター(トーマス・クレッチマン)というドイツ人が光州まで乗せて行ってくれるタクシー運転手を10万ウォンという大金で探しているという話を聞きつけ、詳しい事情も知らずに軽い気持ちでその仕事を引き受けてしまう…


1980年5月に起きた光州事件をテーマに取り上げた韓国映画

若い頃からハリウッド映画に毒されてきたせいで、正直、洗練さに欠ける韓国映画はちょっと苦手なのだが、本作の高い評価を耳にしてようやく重い腰を上げる。案の定、主演のソン・ガンホをはじめとする出演者たちの泥臭い演技には少々閉口させられたが、間違いなく本作にはそんな些細な問題を吹き飛ばすだけのパワーが備わっており、結局、最後まで興味深く拝見することが出来た。

さて、光州事件というのは全斗煥率いる軍事政権に反対する光州市民の起こした民衆蜂起のことであり、今では光州民主化運動と呼ばれているらしい。民間人144人を含む170人が死亡したというのだから、かなりの大惨事だったハズだが、恥ずかしながら当時の記憶は曖昧であり、う~ん、我が国ではどのように報道されたのかなあ。

まあ、そんな無関心さは本作の主人公であるキム・マンソプも同様であり、彼の住むソウル市内でも起きている学生デモは仕事の邪魔としか考えていない。彼にとって大切なのは家賃の支払いや小さくなってしまった娘の靴の買換えといった目の前の生活であり、天下国家のことを考えている余裕なんて全く無い。

おそらく、期せずして光州事件の真っ只中に飛び込んでしまったときでさえ、彼の頭の中には“全斗煥政権に対する政治的評価”なんてものは全く存在しなかったハズであり、彼の行動の原動力になったのは“国民を守るための軍隊が国民に銃口を向けていることに対する単純な怒り”。

先日読んだ「怒りの葡萄」の中に「大金持ちたちがまだ生きているのにストライキが起きなくなるときを怖れるがいい」という文章があったが、そういった意味ではキム・マンソプに代表される当時の韓国国民はまだ十分に健全であり、現在起きている辺野古での不条理に対して怒りを覚えない我が国の方が相当深刻な状況にあるのかもしれない。

ということで、ラストに映し出される韓国の今の映像には、こういった困難を克服して民主化を成し遂げた韓国国民の誇らしい気持ちが溢れており、見ていてとても羨ましい。我が国では極めて評判の悪い文在寅大統領も光州民主化運動を高く評価しているそうであり、まあ、少なくとも人間性の面においては我が国の政治家たちの相当上を行っているような気がします。

ブラック・クランズマン

今日は、妻&娘と一緒にスパイク・リー監督の「ブラック・クランズマン」を見てきた。

今週末に封切られる作品の中では「バンブルビー」と本作の二択であり、マイケル・ベイの関与の比較的薄そうな前者にもちょっぴり興味はあったものの、娘の出した結論は後者。スパイク・リーの作品を拝見するのは随分久しぶりだが、今年のアカデミー賞で脚色賞を獲得した作品であり、どんな内容なのかしらとワクワク気分で映画館へ。

さて、ストーリーは、1970年代前半、コロラドスプリングス警察署初の黒人警官となったロン・ストールワースが、過激な白人至上主義で知られる秘密結社KKKに入会し、潜入捜査を行うという内容であり、1978年に起きた“実話”がベースになっている。原題は「BlacKkKlansman」であり、“k”を一つ余計にくっつけて“KkK”にしたんだね。

勿論、黒人のロンがKKKのメンバーと直接会う訳にはいかないため、彼の担当は電話のみであり、実際の接触ユダヤ人のフリップ・ジマーマンが身代わりになって行う。当初、あまり乗り気ではなかった彼が、KKKユダヤ人差別を知ることによって改めてユダヤ人としての自覚に目覚め、積極的に捜査に取り組むようになるという展開はなかなか面白い。

最後は、恋人のパトリスをKKKのメンバーによる爆殺計画から守り、ほとんどハッピーエンドの状態(=警官であることがバレてしまったため、結局、パトリスとは上手くいかなかったらしい。)でラストを迎えるかと思いきや、それに引き続いて映し出されるのは2017年に起きたシャーロッツビルでの悲劇の映像。う~ん、何十年たっても事態は一向に改善されていないんだねえ。

年齢と共に老獪さを増したスパイク・リーの演出は緩急自在であり、コメディみたいなゆる~い雰囲気の中から白人至上主義の狂気が徐々にその姿を現してくる様子は見ていてとても恐ろしい。ラストに映る上下逆さまになった星条旗の映像は、彼の怒りが「ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年)」の頃から全く変わっていないことを如実に物語っているのだろう。

また、フリップ役を務めたアダム・ドライヴァーの演技はそんなリー監督の奔放な演出にピッタリであり、真面目なのか不真面目なのか、やる気があるのか無いのかハッキリしないまま、危険な潜入捜査にのめり込んでいく。ユダヤ人であること以外、ほとんど自分のことを話さないので最後まで正体は不明だが、非常に興味深いキャラクターであった。

ということで、同じアカデミー作品賞を争った「グリーンブック(2018年)」とは、ある意味、好対照な方向性を有する作品であり、その違いはキング牧師マルコムXとの意見の相違にも通じているのだろう。また、両作品とも主役より脇役の方が光っていたのが興味深いところであり、そんなところに差別問題ならではの特色が隠されているのかも知れません。

バトル・オブ・ザ・セクシーズ

2017年
監督 ヴァレリー・ファリスジョナサン・デイトン 出演 エマ・ストーンスティーヴ・カレル
(あらすじ)
女子テニス界で圧倒的な人気と実力を誇っていたビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、女子の優勝賞金が男子の1/8に過ぎないことに反発し、1973年に自ら“女子テニス協会”を設立する。仲間たちの協力のお陰もあって、何とか無事に選手権の開催にこぎつけるが、そんなある日、55歳になった往年の名選手ボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)から対戦を申し込まれる…


1973年に実際に行われたテニスの男女対抗試合を題材にした作品。

当時は“キング夫人”と呼ばれて我が国でも良く知られたテニス・プレーヤーだったが、その頃でも既婚の女子選手に対して“~夫人”という呼び方が使われていたのはテニス界くらいのもの。おそらくはその上流階級的なイメージに由来するのだろうが、まあ、女性差別的な印象を与える呼び方であることは否定できないだろう。

そんな時代の話なので、“悪役”のボビー・リッグスによる女性差別的な言動は常軌を逸しているとしか言いようのないレベルなのだが、主人公のビリー・ジーンは彼が道化に過ぎないことを良く理解しており、彼女が本当の“敵”として認識しているのは全米テニス協会のジャック・クレーマー。一見すると彼は非の打ち所のない立派な紳士であり、女性に対してもとても礼儀正しいのだが、その実態は徹底した男尊女卑論者なんだよね。

結局、ボビーとの対戦はビリー・ジーンのストレート勝ちに終るのだが、彼女が本当に戦っていたのはそんなジャック・クレーマーに代表される女性差別の現状。勿論、この試合に勝ったからといって現状が劇的に改善する訳ではないのだが、結果が逆だったときのことを考えると恐怖しか思い浮かばず、試合後における彼女の安堵の涙がとても印象的だった。

ちなみに、本作では主人公と美容師マリリンとの間の“不倫”を描くことによってLGBTの問題も取り上げているのだが、その主張が中途半端に終っているのは“史実”故の限界なんだろう。ただし、その中途半端さが作品全体にモヤモヤした印象を残してしまっているのも事実であり、もう少し脚本で上手く整理できなかったのかなあ。

ということで、本作は30年以上昔の話であるが、ハリウッド映画界において女優のギャラが男優のそれを大きく下回っていることが話題になったのはつい先頃の話であり、男女平等ランキングが110位という我が国の現状が改善される見込みは(プロゴルフ界を除き)依然として希薄。とりあえず「アベンジャーズ/エンドゲーム」におけるキャプテン・マーベルの活躍でも見て気を紛らわせたいと思います。

怒りの葡萄

ジョン・スタインベックが1939年に発表したアメリカ文学を代表する名作。

本書を読んでみようと思ったのは、先日、DVDで拝見した「レディ・バード(2017年)」の影響であり、映画の冒頭、車内でこの本の朗読テープを聴いていた主人公とその母親が号泣するというシーンに興味を惹かれたせい。昔、ジョン・フォードが監督を務めた「怒りの葡萄(1940年)」は見ているのだが、あまり詳しく内容を覚えていなかった。

さて、改めてハヤカワepi文庫で読んでみた本書のストーリーは、借金のカタに自分の農地を銀行に取り上げられてしまったジョード一家が、おんぼろトラックに家財を積み込んで夢の移住先であるカリフォルニアを目指すという内容。しかし、そんな夢を抱いていたのは彼らだけではなく、何十万という難民が一気に押し寄せて来たために現地では労働力がダブついてしまい、足下を見られた難民たちは低賃金で苛酷な労働を強いられることに…

ジョン・フォードの映画と一番異なっているのは、ジョード一家の物語の合間にスタインベックによるその時代背景の解説等が挿入されているところであり、彼らの貧困の理由が決して彼らに特有のものではなく、行き過ぎた資本主義又は自由主義による多くの犠牲者の中の一人であるということが良く分かる。

「ビジネスとはもっともらしい手続きを踏んだ泥棒だ」という一文からも明らかなとおり、資本主義の原点は“如何にして物や労働力を安く仕入れるか”という点にあり、800人の労働者が必要な農場主は5,000枚のビラをバラまいて労働力の供給過多の状況を故意に作り出す。アメリカン・ドリームというのは、そんなイカサマを良心に恥じることなく行った結果だったのだろう。

そして、そんなストーリーを貫くキーワードが“怒り”であり、正直、読んでいてこれほど作者の憤懣やるかたない思いがストレートに伝わってきたのは初めての経験。先住民が自然と共に暮らしていた土地を欧州からの移民が強奪したのは間違いであり、彼らが汗水流して切り拓いた農地を金融資本が取り上げてしまうのも大間違い。そんなことは誰が考えても明らかだと思うのだが、それを誰も阻止することが出来ないというのは何という愚かさだろう。

翻訳を担当した黒原敏行氏のあとがきによると、スピルバーグが本作の再映画化を計画していたらしい(=ポシャった?)が、それはこの愚行がより巧妙な手口へと姿を変え、何万倍、何億倍の規模となって世界中に富の不均衡をもたらしている現状を考えてみれば何の不思議もないだろう。

ということで、映画の(ほぼ)ラストは「おれの魂は暗がりのそこら中にいるってことだ」という趣旨のトム・ジョードの別れの言葉だったような記憶があるが、原作の方にはその後にまだ続きがあり、その結末は、極貧の状況の中、まるでキリストの生誕を思わせるような神聖さの込められた名シーン。それを聴いて、ジョード一家の末裔の一人であろう「レディ・バード」の母娘が号泣したのも納得です。

渡良瀬遊水地

今日は、妻と一緒に埼玉県、群馬県との県境に位置する渡良瀬遊水地に行ってきた。

第一候補は新潟県の角田山での雪割草見物だったのだが、天気予報がハッキリせず、片道4時間弱を掛けて遠出するのにはちょっとリスクが大きすぎる。そこで急遽目的地の変更を検討したのだが、正直、妻と一緒に気軽に歩けるような山はほとんど歩き尽くしてしまった状況であり、やむなくほとんど凹凸の無いであろう渡良瀬遊水地周辺を歩いてみることにした。

さて、最初に訪れた「道の駅 きたかわべ」で本日の食料等を購入したが、正直、他の道の駅に比べて品揃えは貧弱であり、カップ麺やスナック菓子等のメーカー品はほとんど扱っていない様子。やむを得ず、手作り風のおにぎり弁当(=味は悪くなかった。)を二人分購入した後、徒歩5分という表示のある“三県境”まで歩いて行く。

ちょっと前に地元紙でも紹介された三県境は、言うまでもなく埼玉、群馬そして栃木の3県の県境が交差している地点のことであり、そこには「三県境界」の文字の刻まれた記念プレート付きのコンクリート杭が打ち込まれている。周囲にも説明用の看板等が立っていたが、いずれも手作り感の強いものばかりであり、おそらく個人かNPOによって整備されているのだろう。

さて、道の駅まで引き返した後、車で遊水地の北エントランスまで移動し、その先の駐車場に車を置いて散策開始。とりあえず水量の少ない谷中湖の周囲を中央エントランス付近まで歩き、そこのベンチで先程購入したお弁当を食べて空腹を癒やす。新潟県の天気は不明だが、こちらは無風で日差しも暖かく、のんびり散歩を楽しむのには絶好のシチュエーション。

その後、水鳥を眺めながら長い橋を渡って対岸まで移動し、再び湖岸を歩いて谷中村史跡保全ゾーンに入る。昨日行われたばかりのヨシ焼きの影響でいろんなところが黒く焦げているが、そんな中を歩いて谷中村役場跡の前に立つ看板の説明文を読んでいると、いつもは解説ボランティアをされているという方から追加の説明をお聞きすることが出来、成程、当時の村人たちは洪水の頻発する環境に上手く適合した暮らしを送っていたんだなあ。

その後、再び歩いて駐車場まで戻ってくるが、途中に点在する様々な施設には老朽化により“立入禁止”の表示がされているものが多く、アベノミクスによる好景気(?)にもかかわらず、維持修繕の予算が付かないところが何とももの悲しい。最初のところは切れているが、本日の総歩行距離は8.5kmだった。

ということで、途中、佐野IC付近にある「マルキン本舗 みかも店」というラーメン屋さんでちょっと味の濃いみそラーメンを食してから無事帰宅。そういえば、郷土の偉人、田中正造のことをきちんと学んだことがなかったのは大きな反省点であり、今度、そっち関係の本も読んでみようと思います。
f:id:hammett:20190324211550j:plain