ジョン・スタインベックが1939年に発表したアメリカ文学を代表する名作。
本書を読んでみようと思ったのは、先日、DVDで拝見した「レディ・バード(2017年)」の影響であり、映画の冒頭、車内でこの本の朗読テープを聴いていた主人公とその母親が号泣するというシーンに興味を惹かれたせい。昔、ジョン・フォードが監督を務めた「怒りの葡萄(1940年)」は見ているのだが、あまり詳しく内容を覚えていなかった。
さて、改めてハヤカワepi文庫で読んでみた本書のストーリーは、借金のカタに自分の農地を銀行に取り上げられてしまったジョード一家が、おんぼろトラックに家財を積み込んで夢の移住先であるカリフォルニアを目指すという内容。しかし、そんな夢を抱いていたのは彼らだけではなく、何十万という難民が一気に押し寄せて来たために現地では労働力がダブついてしまい、足下を見られた難民たちは低賃金で苛酷な労働を強いられることに…
ジョン・フォードの映画と一番異なっているのは、ジョード一家の物語の合間にスタインベックによるその時代背景の解説等が挿入されているところであり、彼らの貧困の理由が決して彼らに特有のものではなく、行き過ぎた資本主義又は自由主義による多くの犠牲者の中の一人であるということが良く分かる。
「ビジネスとはもっともらしい手続きを踏んだ泥棒だ」という一文からも明らかなとおり、資本主義の原点は“如何にして物や労働力を安く仕入れるか”という点にあり、800人の労働者が必要な農場主は5,000枚のビラをバラまいて労働力の供給過多の状況を故意に作り出す。アメリカン・ドリームというのは、そんなイカサマを良心に恥じることなく行った結果だったのだろう。
そして、そんなストーリーを貫くキーワードが“怒り”であり、正直、読んでいてこれほど作者の憤懣やるかたない思いがストレートに伝わってきたのは初めての経験。先住民が自然と共に暮らしていた土地を欧州からの移民が強奪したのは間違いであり、彼らが汗水流して切り拓いた農地を金融資本が取り上げてしまうのも大間違い。そんなことは誰が考えても明らかだと思うのだが、それを誰も阻止することが出来ないというのは何という愚かさだろう。
翻訳を担当した黒原敏行氏のあとがきによると、スピルバーグが本作の再映画化を計画していたらしい(=ポシャった?)が、それはこの愚行がより巧妙な手口へと姿を変え、何万倍、何億倍の規模となって世界中に富の不均衡をもたらしている現状を考えてみれば何の不思議もないだろう。
ということで、映画の(ほぼ)ラストは「おれの魂は暗がりのそこら中にいるってことだ」という趣旨のトム・ジョードの別れの言葉だったような記憶があるが、原作の方にはその後にまだ続きがあり、その結末は、極貧の状況の中、まるでキリストの生誕を思わせるような神聖さの込められた名シーン。それを聴いて、ジョード一家の末裔の一人であろう「レディ・バード」の母娘が号泣したのも納得です。