虹の鳥

沖縄県出身の小説家である目取真俊が2006年に発表した長編小説。

多くの反対や疑問の声が上がっているにもかかわらず、相変わらず土砂の投入が続いている辺野古の新基地建設問題。本来、沖縄県民を米軍基地の“脅威”から守るべき日本政府が、新基地建設に反対する県民らを率先して弾圧するという構図は、先日読んだ「谷中村滅亡史」の正に現代版であり、その反対運動に参加しているという目取真俊の作品を是非とも読んでみたくなった。

さて、作品の舞台になるのは1995年当時の沖縄であり、ワルの先輩である比嘉に脅されて美人局の片棒を担がされている少年カツヤが主人公。比嘉から託されたマユという17歳の少女に売春をさせ、その客の写真を撮って比嘉に渡すというのが彼の役目なのだが、このクスリ漬けの少女が素直にカツヤの指示に従わないため、失敗続きの彼が逆に比嘉から睨まれることになってしまう。

カツヤが2学年先輩の比嘉に出会ったのは公立中学校に入学したときであり、カツヤの家庭が比較的裕福(=父の営む不動産業の収入の他、多額の軍用地料を受給しているらしい。)だったのといろんな意味で周囲から孤立していたところに目を付けられたらしい。その後、高校を中退してからもカツヤは比嘉やその仲間たちのパシリに使われており、比嘉の暴力から逃れるためには彼に取り入るしかないというのがカツヤの信条になっている。

そんなカツヤにとっての唯一の希望(?)が、ヤンバルの森の奥で訓練をする米軍特殊部隊に伝わるという“虹の鳥”の伝説。隊員たちの間では、その幻の鳥を見ることができた隊員は、どんなに激しい戦場からでも必ず生きて還ることが出来る一方、彼以外の部隊の仲間たちは全滅すると信じられているらしい。

したがって、もしカツヤが虹の鳥を見つけられれば、現在の苦境から抜け出せるだけでなく、怖い比嘉たちは全員あの世行きという最高のハッピーエンドが待っている。しかも、何故かマユの背中には虹の鳥を思わせる美しい鳥の刺青が彫られているのだが、残念なことにその頭部はタバコの火を押し付けられたような醜い火傷の痕で汚されている…

本作の時代設定が1995年になっているのは、そんなカツヤの儚い望みとその年に起きた沖縄米兵少女暴行事件に対する大規模な抗議活動とを見比べてみるためなのだが、「怒りを表しはしても、けっして越えようとはしない一線が、基地の金網のように人々の心に張りめぐらされている」という後者の限界(?)は、比嘉のような性根の腐った連中には易々と見透かされてしまうに違いない。

そして、それは“沖縄県民の気持ちに寄り添いながら”と言い続けながら辺野古への土砂の投入を止めようとしない現政府を相手にした場合も同じこと。本作のラストは、比嘉一味や米国人幼女を殺害してしまったマユを連れたカツヤが、虹の鳥を見つけるためにヤンバルの森に向って車を走らせるところで幕を閉じるのだが、う~ん、現実の新基地建設反対運動は今後どのような方向に進んでいくのだろうか。

ちなみに、虹の鳥の伝説では、残りの仲間が虹の鳥を見た隊員を殺してしまえば全滅の運命から逃れられることになっているのだが、全員が生還できるという選択肢は用意されていないので注意が必要。やはり、“殺るか、殺られるか”という段階に至る前に問題の解決を図っておく必要があるのだろう。

ということで、本作を読んでみてつくづく思ったのは“日本という国は依然として米国の占領下にあるんだなあ”ということ。そして、その征服者に対する日常的な屈辱感を沖縄県民に押し付けることによって我々は精神的な安定感を得ている訳であり、やはり新基地建設反対運動は我々自身の問題であるということを改めて肝に銘じておかなければなりません。