水滸伝(一)

四大奇書あるいは五大小説の一翼を担う」中国古典長編小説の一巻目。

平井和正石森章太郎コンビによる「幻魔大戦」から最近のアベンジャーズまで、様々な特殊能力を持ったヒーローたちが協力し合って巨悪に立ち向かうというストーリーは昔から俺の大好物であり、おそらくその嚆矢ともいうべき作品がこの「水滸伝」。「三国志」と同様、吉川英治の「新・水滸伝」でお茶を濁そうかとも思ったが、“未完”ということで講談社学術文庫版で読んでみることにした。

さて、ストーリーは、「北宋(960~1127)末の混乱期を舞台に、侠気あふれる108人の好漢(豪傑)の大活躍を描」いたものであり、「数百年の間、地底に封じ込められていた108人の魔王が解き放たれ、…この魔王たちが転成して108人の好漢(36人の天罡星と72人の地煞星)となり、地上世界に姿をあらわす」という発端のアイデアは正に秀逸。もうこれを思い付いただけでノーベル賞級の価値はあると思う。

まあ、そんな訳で期待しながら読んでいるのだが、これまでのところ感想は少々微妙であり、吉川三国志の出だしのワクワク感に比べるとかなり落ちるんじゃなかろうか。本書はいわゆる“百回本”をベースにしており、この巻にはそのうちの第1回から第22回までが収められているのだが、これまでのところ史進魯智深林冲→陽志→晁蓋一味→宋江とヒーローがめまぐるしく入れ替わり、誰が物語全体の主人公になるのか皆目見当がつかない。

「まえがき」によると、「反逆集団のリーダーらしくもなく、風采があがらないうえ、個人的武勇も今一つ、いたって常識的な現実主義者」とされる宋江が、「自らは輝くことなく、ただ中心に位置することによって、強烈な力を発揮する登場人物群像を繋ぎ、縦横に活躍させるタイプの中心人物」になるらしいのだが、う~ん、それで本当に面白くなるのかねえ。

また、殺人犯やら山賊志願者やらが続出するという登場人物たちの“志の低さ”も大きな懸念材料であり、特に、この巻の最重要イベントの一つとも言うべき晁蓋一味の生辰綱奪取計画の目的が、「この豪華な不義の財を奪い取り、一同、一生愉快に暮らそうというわけだ」というのは全くヒーローらしくない。

まあ、上から下まで役人への賄賂が横行し、「当時の朝廷では奸臣が要職を占め、邪悪な佞臣が権力をにぎって、親戚でなければ任用せず、金持ちでなければ採用しなかった」という時代背景を考慮すれば、高級官僚から金品を強奪すること自体が“善”とされるのも理解できない訳ではないが、出来ればもう少し大きな目的のために各自の能力を活かして欲しかった。

ということで、一巻目の感想はやや期待外れという結果だったが、あと4巻残っているし、まあ、乗りかかった船ということで最後まで投げ出さずに読んでみるつもり。万が一、それでもつまらなかった場合には、最後の手段ということで、吉川英治の「新・水滸伝」を読んで“口直し”をさせて頂こうと思います。