日本近代史

1857年から1937年までの80年間における我が国の政治史を概観した坂野潤治の著作。

遠山茂樹の「明治維新」や丸山真男の「『文明論之概略』を読む」を読んだ後の続きをどうしようか悩んでいたときに目に止まったのがこの本であり、明治維新に関してはダブってしまうものの、その後、1937年の盧溝橋事件までを一冊でカバー出来てしまうところはとてもありがたい。

さて、著者はこの80年間を、改革→革命→建設→運用→再編→危機の6段階に区分して説明しているのだが、その最初が「第1章 改革」であり、この時代のキーワードは“公武合体”。時期的には、ハリスからの通商条約締結の要求があった1857年から島津久光による「挙藩勤王」(=薩摩藩による単独出兵)が挫折する1863年までがこれに当たる。

米国からの本格的な開国要求を幕府が独断で承認し、安政の大獄(1858年)~桜田門外の変1860年)と世情が混乱する中、久光は西郷隆盛の反対を押し切ってひとり率兵上京し、幕府側に幕政改革の実行を約束させるのだが、攘夷を真っ向から否定し、他の有力大名との連携も欠いた彼の公武合体工作はかえって薩摩藩の孤立を招く結果になってしまう。

それに続く「第2章 革命」のキーワードは“尊王倒幕”であり、大政奉還(1867年)を経て、1871年廃藩置県まで続く。帰藩を許された西郷は、かねてからの持論である「合従連衡」に基づき、「攘夷-開国の問題を棚上げにして『尊王倒幕』に結集せよ」と他の有力諸藩に呼びかけることにより、見事、王政復古(1868年)を成し遂げる。

著者は、この西郷の「合従連衡」論を高く評価しているのだが、その理由は「合従連衡」の相手が「有力大名だけではなく、その家臣の中の『改革派』」も含んだ二重構造になっているところ。結局、この後者に当たる下級武士たちが各藩の軍事力を掌握することにより、平和的な大政奉還に止まらず、王政復古のクー・デターや廃藩置県の断行を通じて藩体制そのものを打ち壊してしまう。

“殖産興業”をキーワードとする「第3章 建設」の主役は、一年余の欧米視察を通して機械制工業と道路・鉄道の重要さを学んできた大久保利通。彼は、「幕末とは比較にならないほどに」発言力を増していた西郷率いる「旧革命軍」の扱いに苦慮しながら「富国」路線を推し進めようとするのだが、租税制度の欠陥のせいで西南戦争や物価騰貴による財政危機を回避することが出来ず、殖産興業政策推進のために設置・運営してきた官営工場を1880年の工場払下条例で民間に払い下げることになってしまう。

著者はここで「富国強兵」と「公議輿論」を四分割し、それぞれを富国=大久保(旧薩摩藩)、強兵=西郷、公議=木戸孝允(旧長州藩)、輿論板垣退助(旧土佐藩)の4人に代表させることによって、分かり易くその推移を説明しているのだが、やはり厄介なのは「強兵」であり、「日本国内を完全に平定してしまった『革命軍』が今すぐ日本国の役に立とうとすれば、台湾、朝鮮、樺太への出兵しかなかった」という状況が、結局、内戦を招いてしまう。

続いては、1893年の「和協の詔勅」まで続く「第4章 運用」であり、憲法や議会を巡る“明治立憲制”確立の経緯が記されている。これまで明治政府を牛耳ってきた「士族」にとって脅威になってきたのは、当時、唯一の直接国税だった「地租」を負担している農村地主たちによる「農民民権」の台頭であり、政府には、新憲法の制定にあたり「地租の軽減(歳入の削減)と歳出の削減を議会に許さないようなシステム作り」が必要不可欠になってくる。

そうして出来上ったのが「憲法による行政権の制限を求めない」という「超然主義内閣」であり、議会掌握を最優先と考える板垣もこれに同調したため、大隈重信福沢諭吉の主張する議院内閣制は不採用。しかし、そのことは板垣率いる自由党が多数を占める「拒否権型議会」と藩閥政府による超然主義内閣との不毛な対立を引き起こしてしまい、ついには天皇に両者の仲介を嘆願するに至る。

こうして出された詔勅にいう「立法府と行政府の『和協』を、政治的にどう実現するか」が問われたのが、“大正デモクラシー”がキーワードになる「第5章 再編」。民主化の観点からすれば「二大政党制」と「普通選挙制」の樹立という2点が重要になるが、それを阻止し続けたのが保守政党と化した自由党藩閥政府の官僚たちとの間の「癒着体制」であった。

増税を受け入れても(鉄道敷設等の)『積極政策』を実現したい」という与党的立場を鮮明に打ち出すようになった自由党は、元老伊藤博文を総裁とした立憲政友会(1900年)へと生まれ変わり、星亨の後を継いだ原敬桂太郎藩閥政府との間で7年間に及ぶ「政権のたらい回し」を実現させる。

しかし、日露講和反対運動(1905年)で火のついた新たな民衆運動(=1912年の第一次憲政擁護運動やシーメンス事件を非難する1914年のデモ行動等)は、農村地主らの減税要求と陸海軍の軍拡要求との間で揺れ動くたらい回し政権に致命的な打撃を与え、1914年の第二次大隈内閣の成立(そして1916年の憲政会結成)によって二大政党制への道筋がつけられることになる。

その後、第一次世界大戦(1914年)による好景気等を背景とした政友会の原敬復権によって民主化への道は再び遠のくかに見えたが、その後継者である高橋是清を嫌った元老が超然主義内閣を復活させたため、高橋は憲政会の加藤高明らと協力して護憲三派内閣(1924年)を立ち上げ、これによって「二大政党制」と「普通選挙制」の実現が確実になった。

さて、これに続く「第6章 危機」のキーワードは“昭和ファシズム”であり、護憲三派内閣の外務大臣に就任した幣原喜重郎は「国際協調と中国内政不干渉」を基本とする「幣原外交」を提唱するが、「資源の確保のために『満蒙特殊地域』を武力をもって擁護する」のを持論とする政友会の田中義一内閣(1927年)の成立によって対外政策は一気に右傾化。

続く立憲民政党(=旧憲政会)の浜口幸雄内閣のときに起きた「統帥権干犯問題」(1930年)を巡って民政党(=平和と民主主義)と政友会(=侵略と天皇主義)が激しく対立する中、「二大政党の支配そのものを倒そうという『ファッショ』勢力が、陸軍、海軍、民間右翼」の間で蠢きだし、1932年の五・一五事件の勃発によって政党内閣は息の根を止められてしまう。

まあ、その後もいろいろと政党陣営からの反撃は試みられたが、「政治社会に一種の液状化が生じ…政治勢力というものが細分化されていた」状況では中期的に安定した政権をつくることは困難であり、1937年の盧溝橋事件を契機に「危機の時代」は「異議を唱える者が絶えはてた『崩壊の時代』」へと突入していってしまう。

ということで、この「崩壊の時代」は1945年の敗戦で終りを告げ、その後、我が国は新たなサイクルへと入っていく訳であるが、読みながらずっと考えていたのは“今はその新しいサイクルのどの時代に当たるのだろう?”ということ。「おわりに」で明かされる著者自身の考えは、「『改革』への希望も、指導者への信頼も存在しない」我が国の現状は「崩壊の時代」に相当するとのことであり、う~ん、やっぱりという気持ちもあるが、崩壊の底の見えないところが何とも不気味です。